九之十一
寄宿する吉造の家は、神殿から二町半(二百五十メートル)は離れている。
家が見えてきた安堵感から、どうやら碧は油断したらしい、どんと誰かにぶつかった。
お互いがあっと小さく叫んで飛びのいた。
「お七ちゃんのところのお姉ちゃん?」
ぶつかったその誰かが云った。しかしさほど驚いたふうもない、冷静な声音であった。
碧は薄い月あかりで、彼をみつめた。
弥之助という、近所に住むお七と仲のいい少年であった。
「なにしてるの?」
と弥之助はまだ声変わりにも遠そうな高い声で問うてくる。
「あ、うん、眠れないものだから、ちょっと外の空気を吸いに」と碧はありきたりな言い訳をした。「あなたこそ、なにしてるの?」
「おしっこ」
まだ十三か四の年齢相応の、気取らない云いかたであった。が、
「僕らみたいな、新しく入ったのは、疑われやすいから気をつけないと」
一転、気取ったふうに忠告する。
――小生意気な子供だ。
内心碧は思ったが、笑いながら、
「そうね、気をつけるわ。ありがとう」
「うん、わかってくれればいいんだよ。おやすみなさい」
そう云って弥之助は家に入っていった。
年齢のわりには背の高い彼の背中を見送って、碧は家へと向かった。弥之助は、先の大坂の戦いで孤児になって、流れ流れてここにたどり着いたのだという。
――そんな僕を嫌な顔ひとつしないで迎え入れてくれて、この里の人たちに感謝している。
そんなことを先日、碧に語って聞かせた。今の彼の忠告も、彼なりに里の人々に気をつかっているあらわれなのかもしれない。
吉造の家までくると、入り口から人が入っていった気配がした。
――気づかれたか。
と碧は思ったものの、抜け出したのをとがめられでもしたら、弥之助にしたような言い訳をまたすればいいだけの話だ。
それでもしばらく様子をうかがってから、碧は家にはいった。
親子三人、寝息で綺麗なハーモニーを奏でている。
入り口でみかけた人影は、一瞬だったので誰かはわからなかったが、大きさから推測すれば吉造かお妙のどちらかだろうと思われた。だが、両人ともぐっすりと眠っているようだ。碧がいなかったことに気づいた形跡すらない。きっと弥之助と同じで目が覚めて小用に行っただけなのだろう。
碧はお七の横の筵に寝転んだ。眼をつぶってみたが、寝つけそうにない。神殿侵入に失敗した悔しさもあったが、鶫との悶着の始終が頭のなかでぐるぐると回っていた。
それは鶫への嫌悪感をともなう想念であった。
――姿をみせなければ、こんな思いをすることもなかったのに。
一方的にうらみをつのらせ、碧にたいする怒りを容赦なくぶつけてくる。そんな鶫に、碧のほうからも反発するように、憎しみのような感情が心の底にじわりと湧いてくるようだった。こんなことはいけない、と思いつつも、そういう負の感情をなまなかに抑えきれるものでもなかった。
朝になっても、家の者は誰もふだんと変わりなく、碧とあいさつをかわして朝食を食べ、おのおのの仕事を――お七は遊びを――始めるのだった。
井戸端で洗濯をしながら、碧は近所のかみさん連中のする噂話に耳を傾けていた。すると、すじ向かいの家の中年女が、昨夜神殿に泥棒が入った、という話をしはじめた。ずいぶん耳の早い女である。いやねえ、またなの、と返したのはお妙であった。洗い物などそっちのけで、手を振りながら話に夢中になっているようすだった。
「へえ、そんなこと、よくあるのですか?」碧は何げないふうに話に入った。
「そうなのよ」とお妙が答える。
「まったくねえ」と顔をしかめたのはおくめという中年女であった。「よその人がはいりこんで神殿に火をつけようとしたり、信者をののしったりあざけったり、ときに乱暴なふるまいをするの。ほんとう、嫌よね」
「こんな山奥まで人が入ってくるのですか」
「あなたどこからきたの。へえ、洲本のほうから?ひょっとして南の森を抜けてきたの?それじゃあ大変だったでしょう」と早口でおくめが云った。「西側の集落まではけっこう近いのよ。私たちも山をおりるときはいったん西へ抜けるのよ。だからふもとの村のひとたちとは仲良くやってるつもりなのにねえ」
「心ない人が世の中にはいるものですね」
「どうしてわたしたちを放っておいてくれないのかしら」お妙は心底悲しそうに云うのだった。「わたしたち里のみんなは、ただ神様を信じてつつましく生きているだけですのに」
碧はまだ井戸端話を続けるふたりを置いて、洗濯物籠をかかえて家に帰った。話が伝わるのが早いのは田舎の村にありがちな法則であったが、なにをするにも筒抜けという感じもあった。教団の中心にいる者達は、そういう法則を利用して、人々が互いに監視しあう社会構造を作りあげているのではないか、という気がした。
げんに、なにかの拍子に他人に見られている、という感覚がする時があった。吉造やお妙の視線が変に気障りな時すらあった。それは碧に、任務のために潜入しているというひけめがあるせいかもしれないが。




