九之十
四月の、十七夜の月が、朧に霞んで、侵入作戦にはおあつらえむきといった具合の月明かりだった。神殿域の門の前には見張りがふたり立っていたが、まるで立ったまま眠ってでもいるように微動だにしない。
囲んでいる木の板塀はさほど高くなく、碧は侵入できそうな場所を探した。薄茶色の貫頭衣のままであったが、意外とこれくらいの色のほうが、夜の闇に溶け込みやすい。手ごろな場所で、塀に手をのばしてひょいとジャンプして、するりと乗り越えて内側に飛び降りた。
刹那。
後ろから羽交い絞めにされて、地面に押し倒された。反射的に声をあげそうになったが、こらえて、もがいた。もがいたが、がっちりと腕が脇にからんで、どうにも抜け出せない。そして、背中にあたるその柔らかい感触は……、
――女?
しかも小柄である。その小柄で豊満な胸の持ち主が、碧の耳に口を寄せて、そよ風のようにささやいた。
「ほめてあげる。ここまでたどりつくなんてね」
「鶫……」
碧は鶫を引きはなそうともがいた。もがきながら、
「あなた、いつもいい拍子に現れて、私をずっと監視してるんじゃないの」
「冗談いわないで」鶫はおかしくもなさそうに笑って云った。「私を見捨てた女に執着するほど暇じゃあないし、未練がましくもないわ」
「あれは、見捨てたわけじゃないの、あの時はどうしようもなくって」
「同じ言い訳なんて、何度も聞きたくないわ」
ふたりとも声をほとんど出さずに話しているので、誰かが通りかかったとしても、なにか喘いででもいるようにしか聞こえないだろう。しかも、ふたりはのがれよう、のがすまいとくんずほぐれず絡み合っているので、ともすると、なにかひとめを忍んで淫靡な行為でもしているように思われかねない。
後ろ腰にさしている短刀をつかもうにも腕が回らず、碧は前に手を伸ばして、何かの高床の建物の柱をつかんでそれを軸にして腰をひねった。だが、ふたりは横向きになっただけで、鶫の身体はまるで離れない。
鶫の腕は脇から胸にからんでいるし、脚は腰から股へ喰い込むように挟んでいる。
「今度はなんなの、鶫」
「なんなのと訊かれても、教えてあげる義理はもうないわね」
背中にしがみつかれているので、はっきりとはわからないが、どうやら鶫も信者たちとおなじ貫頭衣を着ている様子だった。とすると、彼女も神惶教に潜入しているということになる。碧は云った、
「一揆の扇動だけじゃあきたらず、おかしな妄想にとりつかれた教祖のお手伝いでもしようというの」
「妄想ですめばいいけどね。マホシヒコ、あれはけっこう放っておけないわよ」
「あなたまで本気で、神が復活するなんて考えているんじゃないでしょうね」
「そうかもしれないわね」鶫はにやりと笑ったようだ。「本当に神様なんてものが存在して、それが復活するのだとしたら、面白いじゃないの。徳川も豊臣もない、ましてや、公家も武家も町人も区別のない国ができあがるかもしれないのよ。神のもとにすべての人間が平等の世界。魅力的じゃあないの」
「冗談じゃないわ。少なくとも、あんな薄っぺらな教祖のもとで暮らしていくなんてごめんだわ」
「碧、あなた、ちょっとマホシヒコをみくびっていてよ。どうせ忍び込んで探索するなら、彼のもっと深いところまで、裏の裏まで探ってみなさいよ。花神はとうにマホシヒコの本性と才能を見抜いていたわよ」
「それはなに、ずいぶん花神にぞっこんのようすね、鶫」
「あなたに見捨てられた私を、彼は受け入れてくれたの」
「私に見捨てられたと思い込んで、花神の思想に傾倒していいように使われて、みっともない女」
「ふん、つまらない文句ね。罵倒するならするで、もうちょっと面白い言葉を紡ぎ出しなさいな」
「なにが」
その時だった。
話を続けようとした碧の言葉をさえぎるように、あっ、と鶫が小さく叫んでふと手脚の拘束の力がゆるんだ。
碧は反射的に跳ね上がりつつ、背中にからみつく鶫を投げ飛ばした。
三間ばかり宙を舞って、鶫はひらりと着地する。
そうして、碧をにらんだまま、「くそっ」となにかを口汚くののしりつつ、肩に刺さっていたものを引き抜いた。それは吹き矢で撃たれた針であった。碧の位置からはそれがなにか判断することはできなかったが、攻撃された鶫は瞬時に見抜いていた。
ともかく、この好機を逃さず、碧は猫のような素早さで飛びあがって塀を乗り越えた。
そのまま一散に走った。しばらく走ったが、鶫が追ってくる様子はない。ないとわかると、気がふとゆるんで、脚をゆるめほっと吐息をついた。
――何者だったのだろう。
武器が何かはわからなかったものの、誰かが助けてくれたらしいのは、碧にもわかった。家への帰路を歩みつつ思い当たる顔を想起していったが、その人物の姿は闇に溶け込んだように模糊として、いっこうに見えてこないのだった。




