八之十三
碧は納屋の明かりとりからそっと抜け出し、敷地の外縁をまわって母屋に近づき、裏口から台所へと入り込んだ。
「さて本題に入りましょう」
耳をすますと、壮年の男のそう云う声が聞こえた。
「一揆に加わって軍師として皆を先導してくださるか、さもなくば、大坂に参陣くだされたく、伏してお願いつかまつる」
「北村殿、もう先日からいくたびもお断りしておりもうそう」とあきれたような口調で答えたのは伊野栄次郎であった。「それがしは一揆に加担するつもりも、大坂方に与力するつもりもありもうさず」
北村殿と呼ばれた男は、北村善太夫という大野治長の家臣でしきりに百姓たちを扇動している張本人である。碧もそれくらいまでは調べていたが、本人を見たことはなかった。
「しかし、貴殿の旧主である宮内少輔殿(長宗我部盛親)は、とうに大坂入城をされ、昨年末の戦いでは井伊の赤備え相手に……」
「ただにらみ合っていただけでござろう。だいいち、私が忠義をつくしたのは、先代の元親様でござる。宮内殿が関ケ原で没落せしは、我が進言を耳に入れなかったせい。進む道、進む道、すべて行き先を読み違えて今日にいたるは、かの御仁に先見の明なく、傲慢で家臣の忠告をことごとく無視したせい。そのようなふがいないお方を主と仰ぐは我が矜持に照らしもうせば、恥以外のなにものにもあらず」
「そのようなご存念、はじめて聞かせてもらいましたぞ。少しはうちとけてくださいましたかな」北村という男は笑いながら云った。
「そんなわけあるか」栄次郎はぶっきらぼうに云った。
北村は続けて、
「しかし、義理というものがござろう。貴殿がいくら蛇蝎のごとく毛嫌いなされようと、宮内殿が貴殿の主であった事実は永劫曲げられませぬ。旧主が戦場で奮迅されておるに、それを黙然と見物していては、世人のもの笑いになりましょうぞ」
「もう世は捨てもうした」
「関ヶ原より十余年、まだ若かった宮内殿も人骨が数段大きくなられてござる。ひとかどの大将に成長なされておる。藤堂家の桑名殿のように、旧来の恩義を忘れず影ながら宮内殿をご支援されておるかたもござりもうす。元親公が真の主と貴殿はもうされるが、旧怨を捨て宮内殿のために粉骨されるのが元親公へのご恩返しでございませぬか」
「桑名か。あれは、どっちつかずの日和見人間でござる。西に向き、東に向き、どちらにもいい顔をしているにすぎもうさず」
碧ははっとした。
藤堂家の桑名と云えば、長宗我部家の旧臣である桑名弥次兵衛のことであろう。意外と身近に内通者がいたわけだ。そして、先ほどから宮内少輔とか元親公という名が話に出てきたことからも考えて、伊野栄次郎はもとは長宗我部家に仕えていたということになる。
「一揆に加担するのも嫌、宮内殿のもとで戦うのも嫌、では、いっそのこと我が主のもとで働いてはくださらぬか。我が主修理大夫の麾下には諸国からの勇士が集ってござる。主は貴殿のご高名を聞きおよび、ぜひとも我らの陣営に加わってもらいたい、加わってもらえば千人力と、常々そう念願しておりもうす」
「ふん、食い詰めた牢人(浪人)を集めて、自分を持ちあげさせて、お山の大将になって鼻高々とは、それこそ巷間のもの笑いになりもうそう。早急に大坂に帰り、ご主君にそう諫言されてはいかがかな」
「それはいささかお口がすぎましょうぞ」
と云った北村の言葉は、しかし、まるで怒気が感じられなかった。
それからは、ずっと同じような問答の繰り返しで、一刻ほど談義を続けて、また来ると云い残して、北村という男は席を立った。
帰りしな、善珠が栄次郎に、
「台所に誰かいるみたいだけど、どなたさんかね」
と問うている。
「台所?ああ、飯炊きのばあさんが居眠りでもしてるんだろう。それがなんだ」
「いえ、べつに」
なにか含みがあるような物言いで云って、善珠たちは北村とともに去っていった。
彼らが去るのを見送りもせず、栄次郎は突然、居間と台所のあいだの戸を開け土間に跳びおりた。
そうして、そこにいる碧をとがめるでもなく、瓶から水を茶碗ですくってがぶがぶ呑んだ。
「天下泰平なんて耳触りのいい言葉で飾り立てちゃいるが、世の中を自分の勝手きわまる都合で強引に変えて偉そうにふんぞり返っている人間どもはまったく気にくわん。強引に変化させたそのしわ寄せがくるのは、いつも弱い人間たち、普通に日々を送っている無辜の人間たちだ。ただひたすらに目の前の仕事に毎日汗水たらして生きている人たちばかりが、欲深な人間の犠牲になる。そういう苦衷のうちにある、不満が鬱積した百姓たちをそそのかし煽りたて一揆を起こさせ、自分たちの都合のいいように利用しようとするああいう手合いにも、まったく反吐が出る」
そんなことを吐き捨てるように云って、また水を呑んで、
「ああそこの、飯炊きの婆さん、たまにはお前が飯をたけ」




