七之十
「おい、嵐よ、他人を心配している余裕があるのかのう」
鬼巌坊は腰を落とし、開いた手を前に軽く伸ばした。いつもの少林拳の構えである。
嵐も伊賀流柔術の構えをとる。口元に不敵な笑みを浮かべ、やっと訪れたライバルとの闘いに気持ちが高揚するのを抑えきれない様子であった。
坊主は続けた。
「最初は御在所の果心居士の庵において、次は九度山において。おぬしとはこれで三度手合わせをすることになるな。さきの九度山で闘った折には、おぬしの成長ぶりに度肝を抜かれた思いであったが、さて、此度はどうかのう」
「相変わらず、無駄口の多い坊主だ。その口を開いたまま閉じられなくしてやるぜ」
「他人の口よりも、おぬしのその減らず口を自分でふさぐほうが先ではないのかのう」
「ほざいてろ」
云って嵐は鬼巌坊の胸を目がけ、おもむろに右の拳を突き出した。
まるで予期していたように、鬼巌坊はそれを左手でいなした。
墨染の直綴の袖がひらりと黒い蝶のように舞った。舞いつつ、右の拳で嵐の腹にカウンターの一撃を入れようとした。
が、雲水はその腕を引っ込めた。
先に突いてきた嵐の右手が、ふいに雲水の襟もとをつかんで、左腕を彼の右腕に伸ばしてきたのだ。
嵐は相手の右腕をつかみそこねたが、だがそのまま左手を彼の脇に添え、不完全な組み方であったが、強引に鬼巌坊を背負い投げにした。
強引であったため、勢いがつかず、鬼巌坊は投げられつつも苦も無く空中で体勢を立て直し、両足で地面に踏み立った。
即座に彼は飛びのいて相手との距離をとった。
ふたたび構えつつ、鬼巌坊は心中に溢れる高揚を感じていた。
――やはり、この娘は面白い。
これまで、打撃一辺倒だと思っていた目の前の少女が、投げ技を使ってくるなど思いもよらなかった。
嵐は、ほぐすように肩を回してから、また構えた。
彼女は、打撃技で鬼巌坊を凌駕せんと鍛錬を重ねてきた。だが、彼の練氣術には一日の、いや十年二十年の開きがあった。打撃に氣を練り込む彼の技に到達するには、彼女自身も相当の修行が必要になってくる。即席に仕上げることなどできはしない。そこで、自分のもっとも得意とするところの打撃の修行をいったん取りやめ、投げや組み討ちの稽古に励んだ――。
嵐は、腰を落として、地面を這うように鬼巌坊のふところに飛び込んだ。
鬼巌坊は、さっと後ろに飛び退る。
その影を追ってさらに前進し、嵐は、足払いをかけた。坊主はひょいと軽く脚をあげてそれを躱す。躱してわずかに体が崩れたところに、嵐は中段突きを打ち込む。鬼巌坊は翻って拳を避けた。その一瞬、彼の脇が嵐に向いた。
その瞬間を嵐は見逃さなかった。
あいた脇に組み付くと、そのまま後ろ向きに身体をそらした。
裏投(バックドロップ)――、
である。
だけではない。
宙に舞った鬼巌坊の、その身体が地面に打ち付けられるよりもずっと早く、
「ぎゃあっ!?」
まったく彼に似つかわしくない甲高い悲鳴をあげ、左肩から地面に落ちた。
鬼巌坊は地面を転がり、嵐との間をあけ、立ち上がろうとした。
だが、身体がしびれて思うように動かなかった。
投げられている時に、一瞬全身に電流が走ったような激しい痛みが駆け巡った。
そのせいで、うまく手足が動かせないでいたのだった。
何が起きたのか――。
即座に彼は体内の氣をコントロールして、しびれを消して立ち上がったが……。
しかし、驚愕が相貌にあらわれていた。
嵐は勝ち誇ったような笑みを浮かべている。
彼女としては、別段たいしたことをしたつもりはない。
先日、羽舟村で寄腔蟲に操られた村人に使った、旋律の律動を相手に流し込む技を、修練を重ねた投げ技と同時に使ったにすぎない。
蟲に寄生されているわけではない普通の人間――鬼巌坊が普通の人間に分類されるかは別にして――相手に使ったのは初めてであったが、思っていたよりも効果があったようだ。特に、何度か手合わせして、鬼巌坊の身体に流れる旋律を、体感として感じ取っていたのが有利に働いた。
「どうした、驚いてほんとに口が閉じなくなったか、クソ坊主」
嵐の悪言に、鬼巌坊は、見開いた眼を細め、無様にぽかんと開けた口を閉じて、顔を引き締めて、身体を構えた。
――これは、本気にならねばなるまい。
直綴のうちで冷や汗を流しつつ、しかし、背筋に走る悪寒を心地よく感じていた。
全力で戦える強敵へと成長を遂げた眼前の娘への、ある種の畏敬を持ちはじめていた。




