第32話 扉一枚の距離、その先の熱
自室として使っている客室に入ると、扉を閉めた瞬間に膝の力が抜けた。
重い扉に背を預けたまま、ずるずると床に崩れ落ちる。
「……っ、はぁ……っ……」
肺に溜まっていた熱い息を吐き出す。
執務室であれほど冷え切っていたはずの指先が、今は嫌な汗をかいて震えていた。
壁に視線を向けたまま、ぼんやりと天井を仰ぐ。
部屋の中はしんと静かで、扉一枚隔てた廊下の気配だけが、かすかに伝わってくる。
ライゼルの困惑した顔。
ナツカの今にも消えそうだった声。
そして、セルガの叱られた子供みたいに立ち尽くす姿。
「……」
瞼の裏に次々と浮かんでは沈む。
本当は過去を覗かれたこと自体はどうでもよかった。
どうせ自分から話したことだし、隠すようなものでもない。
ただ――。
知らないうちに繋がっていたこと。
知らないうちに守られていたこと。
そしてそれを、俺には言わなかったこと。
「……隠し事が嫌であんなに言うとか……ガキかよ、俺は」
膝に顔を埋め、独り言が虚しく響く。
感情を取り戻さなければよかったのだろうか。
そうすればあんな風に彼らを追い詰めることもなかった。
冷たいまま、何も感じないまま、ただ「保護対象」として飼われていれば誰も傷つかなかった。
そんな考えが浮かんで、すぐに自分でも馬鹿馬鹿しいと思った。
「……あんな顔、させるつもり無かったのに……っ」
友人の絶望に満ちた顔が脳内を支配する。
セルガは何も言い返さなかった。ただ立ち尽くして俺の言葉をそのまま受け止めていた。
それがかえって胸に刺さって抜けない。
喧嘩慣れしていれば、あんな言い方はしなかったのだろうか。
怒り方を知っていれば、もっと上手く伝えられたのではないか。
十年間、感情を持たなかった代償がこういう形で出るとは、思ってもみなかった。
「……感情ってのも、面倒なもんだな」
誰に言うでもなく呟いて、壁に後頭部を預ける。
静寂が昨日とは違う冷たさを持って俺を包み込んだ。
◇
どれくらい、こうして扉の向こうの気配を遮断していただろうか。
じんわりと足が痺れ始めた頃、静寂の中にためらうような足音が近づいてくるのが聞こえた。
廊下を歩き慣れているはずの足音が、ひどく頼りなく、小さい。
それは扉のすぐ前で止まり、長い沈黙が流れる。
ノックもない。声もない。ただ、扉の向こうで誰かが立っている。
その気配だけが静かに、確かに伝わってくる。
俺は立ち上がることもできず、扉に背を預けたままその震えるような気配をじっと待った。
「……コノエ」
扉越しに、掠れた声が降ってきた。
魔王の威厳など微塵もない、消え入りそうなセルガの声だ。
「……本当に、悪かった」
謝罪の言葉とともに衣擦れの音がした。
額を扉に押し付けているのだろうか、と思った。
「お前に余計な不安を与えたくなくて、勝手なことをした。……結果としてお前を傷つけることになったのは、俺の落ち度だ。本当に、すまない……」
セルガの声が震える。
俺は何も言えなかった。
言い返せないのではなく、何かを言う前に胸の奥で何かが溶け始めていたからだ。
「……お前が笑ったのを見た瞬間、俺は本当に嬉しかった。あんなに嬉しかったことは、ここ最近じゃなかったくらいだ。……なのに」
一度言葉が途切れ、低く痛みを堪えるような息継ぎが挟まれる。
「なのに、……。俺のせいで……」
それ以上は続かなかった。
ただ扉の向こうで、必死に何かを堪えている気配だけが伝わってくる。
その声を聞いた瞬間、胸の奥に居座っていた冷たい塊が、じわりと熱を持ち始めた。
怒りなんてもうとっくに消えていた。
ただ、自分を責め続ける親友の声が何よりも辛かった。
俺は重い身体を動かし、立ち上がる。
足が痺れていてうまく力が入らなかった。
それでも扉の取っ手に手をかけ、細く開ける。
そこには絶望を形にしたような顔で立ち尽くすセルガがいた。
黄金の瞳が俺を捉えた瞬間、その奥に今にも零れ落ちそうな光が揺れる。
「……セルガ」
「コノエ……っ」
俺の名前を呼ぶ声が、かすかに上擦っている。
「……俺さ、ここに置いてくれたことは本当に感謝してるんだ」
俺は扉の縁に手をかけたまま、静かに言葉を繋いだ。
「守ってもらえてること、分かってる。お前が俺を傷つけようとしてたんじゃないのも、分かってる。……だけど」
ゆっくりと、自分を責め続ける大きな身体を見上げる。
「ただ大事にしまっておくのは、違うだろ。俺は、お前のコレクションの一部になりに来たんじゃない。対等な友人になりに来たんだ」
セルガは何も言わなかった。
ただ、その言葉を一字一句噛みしめるように、ゆっくりと瞼を閉じた。
「……あぁ。……あぁ、その通りだ。……すまない、コノエ……」
絞り出すような声だった。
謝罪なのか同意なのか、それとも全部ひっくるめたものなのか。
セルガは耐えきれないといった様子で、俺の肩に額を押し当てるようにしてがくりと深く頭を垂れた。
その大きな肩が、見たこともないほど細かく必死に震えている。
こいつがこんな風に弱さを見せるのを、俺は初めて見た。
魔王として、友人として、常に毅然として立っていたこの男が。
今はただ、唇を噛み締め、溢れ出しそうな何かを必死に堪えて震えている。
顔は見えなかったが、肩越しに伝わってくる熱と振動が彼の後悔の深さを物語っていた。
「……怒ったのは、隠し事をされたのが悲しかったからだよ。それだけ、お前を信じてたから」
俺はゆっくりと、震える彼の背中に手を回した。
「過去なんてもう終わったことなんだ。だから、もう俺を『腫れ物』みたいに扱うなよ。……対等なんだろ? 俺たちは」
セルガは答えなかった。
ただ俺の肩口に顔を埋めたまま、荒い呼吸を整えようと何度も深く息を吸い込んでいる。
決して涙を見せまいとするその強情な沈黙が、かえって彼らしいなと思った。
大きくて、頼りがいがあって、何でも知ってそうな顔をしているくせに。
こういう時だけ、やたらと不器用になる。
それが不思議と、腹立たしくなかった。
その温もりが、さっきまで胸に居座っていた冷たさを、ゆっくりと塗りつぶしていく。
「……おい、魔王様。いつまでそうしてるつもりだよ」
俺は肩に預けられたままの、少し熱を持った頭を軽く小突く。
そしてついでにと視界の端に映っていたものへわざと軽いトーンで声をかけた。
「ナツカも、角のところでオロオロしてないで、こっち来いよ」
廊下の陰で壁に張り付いていたナツカが、びくりと肩を跳ねさせた。
「コノエぇ……っ!」
今にも泣き出しそうな、それでいて輝くような顔をして突っ込んできたナツカに、セルガごと押しつぶされる。
三人まとめて扉に激突し、ぎし、と古い蝶番が鳴いた。
「痛っ……! 重い、重いって!」
「うるせぇ! 心配させやがってバカヤロー!」
「……っ、離せ、ナツカ……コノエが潰れる……!」
慌てて俺を庇おうとするセルガと、それでも腕の力を緩めないナツカの間で俺は身動きが取れなくなった。
ようやく顔を上げたセルガの瞳は、少しだけ赤くなっていた気がしたが、彼はすぐに視線を逸らしていつもの傲慢な笑みを無理やり取り繕おうとしている。
「ったく……やっぱりこいつら、騒がしいな」
呆れた、というよりどこか安堵に似た感情が静かに広がっていく。
胸の奥に残っていた冷たさはもう消えて、俺は今日初めて心の底から笑っていた。
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