第17話 恐怖が還り、世界が動く
城壁の上から戻ると、廊下は夕刻の匂いに満ちていた。
厨房では調理の火が入ったらしく、香辛料と焼いた肉の気配が微かに漂ってくる。
隣のナツカが大きく伸びをして言った。
「そろそろ戻るか、お前の飯は部屋に運ばせるし。
俺もセルガんとこ顔出してからまた合流するわ」
あくまで軽快で自然な言い方。
だがその中に含まれている配慮ははっきり分かる。
――人の目に触れないように。
ありがたい、と思う。
だけど、そう思った瞬間に自分が置かれている立ち位置……守られる側という事実に、少しだけ居心地の悪さも覚えた。
それでも俺はナツカの気遣いを無下にせず頷きかけた――その時だった。
「ナ、ナツカ様!」
廊下の向こうから息を切らした使用人らしき魔族が一人、駆けてくる。まだ幼さの残る顔立ち。
だがその表情は青白く、明らかに焦り切っていた。
「どうした?」
ナツカが足を止める。
使用人は一度喉を鳴らし、言葉を詰まらせながらも早口で告げた。
「し、失礼いたします!
実は、その……手配の不備がありまして……」
その一言で、胸の奥がざわりと波立った。
嫌な予感が背中をなぞる。
「お客人……コノエ様のお食事が、誤って――
客室ではなく、城内食堂の方へ運ばれてしまいました」
一瞬、全ての音が消えた気がした。
――わざと、か?
反射的にそう思った自分に気づいて、内心で舌打ちする。
そんな歪んだ捉え方はしたくないのに。
十年の中で積み上げられた警戒心が勝手に身体を強張らせ、視線は自然と周囲の確認をする。
だが次の瞬間、俺の冷めた思考を塗りつぶすような声が響いた。
「……は?」
不快感を隠そうともしない、ナツカの地を這うような低い声。
「おい。それ、どういう意味だ」
彼の纏う空気がガラリと変わった。
さっきまでの軽さが嘘みたいに消え失せ、威圧感がむき出しになる。
「で、ですから、その……本来はお部屋にお運びする予定だったのですが、厨房側で伝達に行き違いがありまして……!」
「誰の指示だ?」
「い、いえ! 誰かの指示では決して……!」
必死に首を振る様子は、とても芝居には見えない。
「本当に、単なる手配ミスで……! 私どもも、今気づいて……!」
ナツカは数秒、黙って使用人を見下ろしていた。
静寂がかえって空気を重くし、使用人の肩が小さく震える。
「……もういい、下がれ」
深いため息、そして払うように手を振りながら短く告げる。
使用人は何度も頭を下げ、逃げるように去っていく。
残された廊下はやけに広く、冷たく感じられた。
「コノエ。どうする」
ナツカの問いかけは、俺の意志を尊重しようとする確固たる響きがあった。
食堂。城務めの者たちが集まる場所。
大勢の視線の中で食事をする――その光景が脳裏に一瞬だけよぎる。
食べること自体は普通に出来るだろう。
けれど。
見下ろす目。
嘲笑う声。
投げつけられる残飯。
かつての記憶が鋭い棘のように胃の奥を突き刺し、せり上がってくる吐き気で喉が詰まるような感覚を覚える。
それでも。
俺はゆっくりと、深く息を吸った。
肺の奥まで空気を入れて、時間をかけて吐く。
「……行くよ」
予想外だったのだろう。
ナツカが驚いたように瞬きをした。
「正気か?」
「正気じゃないかもしれない。でも……」
無意識に拳を握りしめていた。
そんな自分を落ち着かせるため再度深呼吸をする。
「逃げるのはいつでも出来るだろ」
一瞬の沈黙のあと、ナツカの唇が愉快そうに弧を描いた。
「さすがコノエ。なら俺も行くよ、何かあったら俺が全部対処してやる」
「……セルガんとこ行かなくていいのか?」
ありがたい申し出だが、先程一度戻ると言った彼には本来の予定もあるだろう。
それを案じて聞き返すとナツカは歩きながら肩越しに振り返り、苦笑混じりに言った。
「むしろ今のセルガなら、お前を放っていった方がキレられそうだ」
「……あいつ、ちょっと異常じゃない?」
思わず、率直な感想が口をついた。
自分でも分かっている。
助けられて守られておいて、そんな不遜な言い方をするのは筋違いだって。
けれど――
"保護"という言葉の枠を、明らかに踏み越えている気がした。
ナツカは一瞬だけ足を止め、肩を竦める。
「そうか? 昔からお前に対する執着はあったろ」
今更なにを、と言いたげなナツカの視線。
――昔。
彼らの前世と、俺の十年前が交差する。
確かに俺達は子供の頃からいつも一緒にいた、一緒にいるのが楽だったんだ。
けどあの頃はもっと、対等だった。
だからこそ、今の扱いはどうにも落ち着かない。
そんな事を考えているうちに前方からざわめきが聞こえてきた。
そこはもう食堂の前だった。
重厚な扉が軋んだ音を立ててゆっくりと開く。
瞬間――ざわりと空気が動く。
食器の触れ合う音。
低く反響していた無数の会話。
慌ただしい足音。
それらが一拍遅れてピタリと止まり、無数の視線がこちらへ流れ込んできた。
――あ。
思考が追いつくより先に、身体が理解した。
好奇。警戒。戸惑い。測るような目。
そこにあるのは直接的な敵意ではない。
だが、注がれる視線そのものに心臓が鷲掴みにされる痛みを錯覚する。
(……っ)
視界が、わずかに揺れる。
心臓の音が耳元でうるさく打ち鳴らされ、呼吸も浅く乱れる。
――怖い。
はっきりと、その感情が形を持って戻ってきた。
十年の間、奪われ削ぎ落とされていたもの。
恐怖という名の、生存本能。
セルガの"書き換え"で少しずつ戻り始めていた感情が、ここへきて一気に表へ溢れ出した。
数年ぶりに味わう、はっきりとした恐怖。
足の先から力が抜け、膝が折れそうになる。
「――おいっ」
ナツカの声が遠くで響いた気がした。
身体が前のめりに傾く。
倒れる、と理解した次の瞬間――
強い腕が俺の肩を確かな力で支えた。
硬い、確かな感触。
「無茶をするな」
低く落ち着いた声。
安心すら覚える、聞き慣れた声だった。
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