Ⅱー6
アパートに着き、すぐに玄関の明かりをつける。それから、本棚に囲まれた小さな部屋のテーブルに花束とうちわを置いた。
『理央様LOVE』……このとてつもなく愛情の籠ったうちわは、別れ際に清水さんに返すべきだった。
気力を振り絞り、家中の花瓶に花束を挿す。
疲れた……。もう今日は日課の本を読む気力すらない。
本当に、とんでもない一日になってしまった。コンサートに出かけただけなのに、突然思いもよらないキラキラに巻き込まれ、世界が一変してしまった。
事故? なら、防ぎようもあった。全く想像もできない、これは天災みたいなものだ。
着替えてお風呂に入り、何か食べようと思った。でも食欲は全く無い。温めた牛乳を飲んで、すぐにベッドに横になる。
眠ってしまえば、こんな非現実的な出来事は全て忘れられるような気がして……。
キラキラはどこかへ飛んで行ってほしい。遠い彼方へ……。わたしには、眩しすぎる。
翌日の日曜は朝から雨だった。
夢を見た。けど、夢の内容だけ忘れて、昨日の夢のような現実はしっかりと鮮明に覚えていた。
最低限の家事をこなし、いつものように本を開いて視線を向ける。でも全く内容が頭に入って来ない。
仕方ないので本を閉じ、それからあとはぼんやりとしていた。
本が読めない。
どうしても『理央様』の姿が勝手に脳裏に浮かんできてしまう。
月曜の朝、良く寝たはずなのに疲れが全く取れていないと感じた。
そしてやっぱり食欲はなかったけれど、無理にトーストとコーヒーをお腹に入れる。
それから、コンビニでエナジードリンクを買い、重い足取りで会社へと向かった。
「茅野先輩、おはようございます!!」
フロアに入った途端、明るい声が響いた。
姿を確認するまでもなく清水さんだ。今日はずいぶんと早い時間に来ている。
「おはようございます」
わたしは挨拶を返した。
「先輩、土曜はありがとうございました。コンサート、一緒に行けてすごく楽しかったです。それであの後、理央様の事務所からのスカウトってどうなりましたか?」
彼女は楽しそうにそう聞いた。
予想はしていたけど、早速その話だ。
今は何も話したくなんてない。でも、逃げられないことは分かっていた。
清水さんの目が、『理央様』を見つめているときと同じように輝いている。
「そのことですが……」
わたしは俯いて口を開く。
「ああ!! やっぱり!! 断ってしまったんですね? 先輩、そういうの苦手そうですし……。勿体ないとは思いますけど、仕方ないですよ」
まだ何も言ってないのに、彼女は勢いよくそう言って何度か頷く。
あの状況では仕方がないが、完全にわたしが芸能事務所にスカウトされたと思い込んでいる。
そんなことあるはずがない。とんでもない勘違いだ。
すぐにでも否定したかった。
けれど、よくよく考えて……思い直す。
もしかしたら、勘違いしていてくれたほうがありがたいのではないか、と。
彼女にうまく別な嘘をつけるはずもないし、だからって本当のことを言ったら余計大変なことになりそうだ。
「でも先輩が美人で、わたしはとっても得しちゃいました」
わたしが考えを巡らせていることなんてお構いなしで、彼女はそう言った。
そして意味深に可愛らしく笑って続ける。
「実は、あの事務所の人から貰った名刺の裏にメッセージが書いてあったんです。ご協力ありがとうございます。宜しければ非売品のウルスタのグッズを差し上げますので、後程ご連絡くださいって」
「え? それで連絡したんですか?」
わたしは驚いて聞き返す。
「はい。嬉しくて昨日、連絡しました。グッズはうちの会社に送ってくれるそうです。もう楽しみで!! 先輩、本当にありがとうございます!!」
言われてみれば確かに、清水さんはあの時柚木さんから名刺を受け取っていた。