Ⅱー3
ステージに『理央様』が登場すると、会場の雰囲気が一変し、まさに悲鳴のような歓声が上がった。
聞いたことのない音の嵐。
とても人の声とは思えない。
勝手に湧き上がる押さえられない叫びは、変な表現だけれど、鋭利な刃物で体を刺されるくらいの(勿論、刺されたことはない)ものすごい衝撃だった。
場に溶け込み一緒に叫ぶなんてことができるはずもなく、俯いて衝撃が引くまで、わたしはじっと耐えていた。
人間には環境に適応する能力が備わっている……というのは本当らしい。
しばらくこの場に居ると、波が引くかのように叫び声にも慣れて、わたしは冷静に彼を見ることができるようになった。
ウルスタ……。『理央様』は、確かに格好良かった。
でも見た目がどうとかより、その歌声に圧倒されてしまった。
こういう言い方は失礼かもしれないけれど、凄く、凄く……上手だったのだ。
単純に美声というだけではなく、彼の歌には彼の見た目同様、人を引き付ける何かがある。
初めて彼の歌を聴いたなんて、この場でわたしくらいのものだろう。何しろ歌声以前に、動く彼をしっかりと見たのだって今日が初めてだった。
みんな歌の合間にコールをし、同じ動きをしている。わたしは微動だにせずスクリーンを見つめていた。
ただ彼の歌を聴きながらも、さっきのスタッフのことがどこか頭の隅にあり、本当のファンではないという後ろめたさだけはいつまでも拭い去れなかった。
コンサートが終わり、会場は嘘のような静けさだ。
残っているお客さんも少ない。
「……理央様、ホントにカッコよかったですね」
清水さんは泣いていた。
「大丈夫……ですか?」
赤い目をした彼女が心配で、わたしはそう聞いた。
「すみません。すっごく幸せで。……胸がいっぱいで」
清水さんは、本当に『理央様』が好きらしい。
いくら感動したといっても、わたしは今日初めて会った彼のために泣くことなんてできない。それに人の目だってある。
清水さんは感情のまま……。気持ちを隠したりしない……。
そんなところも妹に似ていると思った。
あのスタッフの言葉が気になっていたけど、何故待っていなければならないのかどんなに考えたって分からない(もう最初から意味不明なわけだけど)。
大体、わたしが彼の言葉に従う義務はないはずだ。
どういう気持ちで『理央様』を観たって自由なはずだし、例えアンチファンだとしてもコンサートに来てはいけないなんて決まりはない。きっと声を掛けてきたこと自体、何かの間違いだったのだろう……。
わたしは、落ち着いてきた清水さんに「帰りましょう」と声を掛けた。
「どこに行くんですか?」
立ち上がった途端、右側の通路から冷たい声が響いた。
「ここで待つように言われましたよね?」
近づいてきた男性は、あの時のスタッフではなかった。
黒のスーツに黒のサングラス。髪はワックスできっちり固められ、鼻の下に整えた髭を生やしている。その見た目は、古いドラマの世界から出てきたのかというくらい、わたしが思い描く胡散臭い業界人そのものだった。声にも凄みがあり、何等なく怖い……。
「一緒に来てもらえますか?」
そう言われ戸惑っていたが、隣の清水さんを見ると、彼女はわたし以上に何が起きたのか分からず困惑した表情をしていた。
「彼女をお借りします。貴方はどうぞ先にお帰りください」
業界人のような彼は、清水さんに優しくそう言った。
「え? でも……」
清水さんは、その男性とわたしを交互に見ている。
「怪しいものではありません。彼女に危害を加えるようなことは絶対にありませんので」
そう言って、彼は何故か一枚の名刺を清水さんに渡した。
彼女は貰った名刺をじっと見つめる。
「サクラエンターテインメント……理央様の事務所ですね。あ!!」
彼女の目が急に輝いた。
「先輩、スカウトですよ!! そっか!! すごい……すごい!! 私、先に帰りますね。月曜に会社で話、聞かせてください」
清水さんはわたしに微笑む。
そして、去り際に小さく「頑張ってくださいね!!」と言ったが、何を頑張るのか全く分からなかった。
彼女が行ってしまった後、
「悪いけど、スカウトではないので」
と業界人らしき彼は冷淡な低い声で言った。
清水さんには優しい声で話しかけていたのに、すごい変わりようだ。
スカウトではない……それはそうだろう。わたしは最初からそんなこと考えてもいない。
「あの……先程のスタッフの方は?」
わたしは聞いた。
「付いてきてもらえば分かります。俺は理央のマネージャー。……柚木でいいです」
彼の意外な返答に、思考が停止する。しばらく無言で居ると、
「聞こえていますか?」
と彼は面倒くさそうに言った。
「……はい」
とりあえず返事はしたが、頭がついていかない。
『理央様』のマネージャー?
『理央様』の? 一体、どういうことだろう?
スタッフというか、直々にマネージャーが出てきてしまった……。何だかもうただ事ではない。
やっぱり偽りのファンに説教をするため、あのスタッフが密告したのだろうか?
目の前にニコリとも笑わない、自称『理央様』のマネージャー。
胡散臭いことこの上なく、はっきり言って彼に付いて行きたくはない。