一瞬の抱擁 Ⅶ
先端から噴水のように水分が出て、遼太郎の口の中へ注がれた。水と血が混ざったものを、バケツに吐き出す。それを数回繰り返すと、血が混ざらなくなった。
「タオルを水に濡らして来てくれる?」
みのりはマネージャーに言うと、再びタオルを手に取った。
周りに誰もいなくなると、
「すごいタックルだった。でも、ちょっと…どころか、ずいぶん痛かったね…。」
と、みのりはいつもと同じように優しい言葉をかけた。
「……痛いのなんか……。タックルに行くときは、死んでもいいと思ってしてるんで……。そうでなきゃ、大きい奴は止められません。」
遼太郎のこの覚悟に、少しみのりは言葉を逸した。 そして、遼太郎の言葉を胸にしまって、ただひとつ頷いた。
「そうだよね。怖くないように、痛くないようにしようと思えば、そう出来るかもしれないけど。そんな恐怖心に克って突っ込んでいくんだからね……。」
みのりはいつも、遼太郎の心を読んで、それに呼応してくれる。
そんなみのりの優しさを感じると、いつもの遼太郎は嬉しさであふれてしまうのだが、この時は戦線を離脱している焦りの方が勝っていた。
その時、歓声が上がった。遼太郎の鼻を押さえながら、みのりが振り向く。
「あぁ…。」
みのりの落胆混じりの声に、遼太郎は顔を上げようとしたが、みのりに制された。
「相手側がトライを決めたみたい…。」
これを聞いて、遼太郎の焦りはいっそう大きくなった。
「試合に戻らないと……、スタンドの俺がいなきゃ……。」
そう言って、遼太郎は立ち上がろうとする。
マウスガードを洗って戻ってきたメディカルサポーターが、
「出血退場なんだから、血が止まらないと戻れないよ。」
と、遼太郎を制止する。
マネージャーもタオルを濡らして戻ってきたので、みのりをそれを受け取って、遼太郎の顔を覗き込む。
「うん、まだ血が出てるから…。もうちょっと待って。」
遼太郎はいらだたしげに、歯を噛みしめた。
「焦って興奮すると、鼻血はなかなか止まらないよ。」
みのりにそう言われ、その通りだとは思うけれども、残り時間が少なくなり、同点になったとあれば、とても心を落ち着けるのは無理だ。
水に濡らされた冷たいタオルが、遼太郎の鼻から額に当てられ、再び小鼻の上をギュッと押さえられた。
そのタオルを通してみのりへと、遼太郎の焦りと動揺が伝わってくる。
みのりは遼太郎からメディカルサポーターへ視線を移した。
「何度も頼んで悪いんですけど、このバケツの中身捨ててきて下さいますか?」
それからマネージャーにも、同じように依頼する。
「それと、もう一枚濡れたタオルをお願いできる?」
二人がその場を離れると、みのりは遼太郎の頭を両手で抱えたままで語りかけた。
「大丈夫、まだ時間はあるから。それに、狩野くんがいない間も、仲間たちが頑張って持ちこたえてくれてるから、信じよう。」
先ほどとは違うみのりの深い声に、遼太郎のいきり立っていた気持ちが和いでくる。
「大丈夫。血はすぐに止めてあげるから。」
目がタオルに覆われた暗闇の中で、遼太郎はみのりの声が心に沁みてくるのを感じた。
乱れている呼吸が、少しずつ整ってくる。
グラウンドに背を向ける形で立っていたみのりは、遼太郎の汗と土で汚れた頭を胸元に抱き寄せ、自分の頬を遼太郎の頭に付けた。
「……大丈夫。絶対負けたりしないから……。」
それは、みのりの願いでもあった。
いつもの遼太郎ならば、こんなことをされようものなら心臓が爆発しそうになるのに、みのりの穏やかで深い声は、逆に鼓動の安定をもたらした。
「分かった」というように、遼太郎は土で汚れた手を、鼻を圧迫するみのりの腕に添えて握った。
握る手に力を込めて、焦りを追いやり精神を集中する。
誰かが近寄ってくる気配を察して、みのりは顔を起こし、遼太郎は手を膝の上に戻した。
メディカルサポーターが傍で状況を見守っている。マネージャーも戻って、冷たいタオルと交換される。
それから1.2分してタオルを取って確認してみると、血は止まっていた。みのりは手にある濡れタオルで、遼太郎の顔や首に付いた血を、きれいに拭き取った。
「万が一、血が垂れてくるといけないから、脱脂綿を詰めときましょうか。ちょっと息苦しいけど。」
と言うと、メディカルサポーターはサッと脱脂綿を手渡してくれた。
後で取り出しやすいように、鼻の穴から少し見えるように綿を詰めると、ちょっと間抜けなその顔をマネージャーは笑いを含んで見ていた。
ちょうどその時、マッチドクターが「やれやれ」といった様子で救護席へと戻って来て、みのりが処置をするのを安心したように、側で眺めていた。
「試合が終わっても、しばらくその綿は取っちゃダメよ。」
遼太郎は立ち上がって、無言で頷く。そしてマウスガードを嵌め、ヘッドキャップを被り、メディカルサポーターに伴われてグラウンドへと向かった。




