一瞬の抱擁 Ⅵ
塩尻が3回笛を吹くと、マッチドクターがフィールド内へとやってくる。その場で処置をしようとしたが、出血が止まりそうもないので、塩尻から出血退場(※)が命じられた。
すぐさま遼太郎の代わりに2年生の控えの選手がグラウンドへ走り出て、マッチドクターは遼太郎の腕を取って、グラウンドの外へと連れて行く。
遼太郎の母親も、心配そうに無言でその様子を見守る。
「私…、ちょっと様子を見てきます。」
みのりは荷物を座席に置いたまま、席を立った。
救護席と言っても、グラウンド脇に長机とパイプ椅子を置いた簡素なもので、遼太郎はそこに座らせられていた。
マッチドクターとそれを補助するメディカルサポーターの教員のもとへ、芳野側のマネージャーが駆け寄るのと同時に、みのりはそこにたどり着いた。
「あ、先生。」
マネージャーの女の子が、みのりを見て声をかけた。
「芳野高校の仲松ですが、どんな様子ですか?」
マネージャーに頷いて見せてから、みのりがそう声をかけると、タオルで鼻から下を押えていた遼太郎は、驚いて目を上げた。
「ああ、ダメ。狩野くん。下向いてて。血が喉へ落ちるから。」
その場でみのりが遼太郎へと声をかけると、戸惑ったように遼太郎は視線を落とした。
「いや、顔も歪みもないし、腫れも大したことないから骨折もない。マウスガードをしてるから歯も折れちゃないと思うんだが…。ただ……。」
と、マッチドクターは言葉を途切れさせて、落ち着かなげに自分の体を揺すった。
そのただ事ならぬ様子に、一同は深刻な事態を危惧し、緊張を高めてドクターを見つめた。
「わしが……、昼に食べたものに当たったらしい……。」
「は……?」
一同は一様に絶句する。
ドクターは青い顔をして、手で腹を押さえて目をつぶった。腕に鳥肌が立っているので、猛烈な痛みと闘っているのは判る。
「そ、それじゃ、先生。トイレに行ってください。この選手はこちらで何とかします。」
メディカルサポーターは、そう言ってマッチドクターをトイレへと送り出した。
そうは言ったものの、このメディカルサポーターは名ばかりらしく、遼太郎の大量出血を見て、どうしようかとうろたえている。マネージャーはもとより、この状況に怯えた様子だった。
しかし、もたもたしていると試合が終わってしまう。みのりは意を決して、遼太郎の隣でしゃがみ顔を覗き込んだ。
「鼻血だけ?口の中は切ってない?」
鼻から下がジンジン来ている遼太郎には、どこがどういうふうに痛いのかさえも分からなかった。言葉には出せず、ただ首をひねる。
「うん、分からないか。ちょっとここ、鼻の付け根をぎゅっと押さえてて。」
と、マネージャーを振り返って指示し、みのりは立ち上がると手に消毒液を擦り込んだ。
「狩野くん、マウスガード外せる?」
と、口の前に手を添える。
だが、鼻から下が痺れているので、マウスガードを外せるまでは、うまく口を開けられない。
「よし、ちょっとだけ口開けられる?」
遼太郎が微かに口を開くと、みのりは遼太郎の口に自分の指を突っ込んだ。マネージャーはみのりのその行為に驚いて、凝視する。
静かに歯の食い縛りを解くように促して、みのりは遼太郎の口の中から、ドロリとした血にまみれたマウスガードを取り出した。
ポケットにあるハンカチにそれを取って、
「すみません。洗ってきて頂けますか?」
と、メディカルサポーターに渡す。
「口の中の血を吐き出して。」
バケツを下に置くと、遼太郎は言われた通りに、ペッと真っ赤な唾を吐き出した。
「どう?口の中に異常はある?それとも、鼻から落ちてきた血かな?舌で触ってみて。」
「いや、なんともありません…。」
やっと遼太郎は、言葉らしい言葉を発することができた。
「じゃ、良かった。鼻血だけね。…水分補給用のスクイズボトルを1つ持ってきてもらえる?」
鼻をタオルで押さえていたマネージャーに指示し、みのりは代わりにタオルで押さえ直す。空いている手を遼太郎の後頭部に当てて、マネージャーよりもグッと力を込めて、小鼻の上を圧迫した。
すぐにマネージャーはボトルを持って、走ってきた。
「それで、口の中を洗ってあげて。」
そう言われて、マネージャーは戸惑った。
「え…、どうやって?」
「こっち替わって。」
再びみのりはマネージャーと交替し、ボトルを受けとると、下を向く遼太郎の隣に膝をついて、ボトルの先端を遼太郎の口に差し入れた。
「飲んじゃダメよ。口を濯いで吐き出してね。」
と言って、柔らかいボトルの腹を押した。
(※ 出血したプレイヤーは出血が確認された時点で、止血処理をする為に一時交代することになる)




