一瞬の抱擁 Ⅱ
「……大丈夫、みのりちゃん!花園に連れて行ってやっからよ。まだまだ、試合はあるぜ!なっ!?遼ちゃん!」
気を取り直して、二俣がみのりと遼太郎を鼓舞した。
「うん!」と、遼太郎も力強く頷く。本当は、遼太郎自身がみのりにそう言ってあげたかった。
〝期待してる〟という意味の笑顔を残して、みのりが職員室へ帰ってゆく。廊下に出て、その後ろ姿を見ながら、二俣は呟いた。
「ごめん、遼ちゃん。さっき俺、みのりちゃんにキュンと来てしまった…。」
遼太郎は少し驚いたが、以前「間接キスした!」と怒ったときのように、嫉妬心などは湧いてこなかった。
遼太郎も先ほどのみのりの言葉に、同じくキュンと胸が絞られていたし、二俣がそう思っても不思議はないと思ったからだ。
「沙希ちゃんには言わないから、心配すんな。」
遼太郎がニヤリと笑いを浮かべると、二俣も苦笑いをする。それから、二人はがっちり肩を組み、教室へと入っていった。
みのりには、いろいろ考えなければならないことがあった。
まず、週に10時間ほどこなしている1年生の授業について。次に、3年1組のこれからの授業の内容について。遼太郎をはじめ4人ほど抱えている個別指導について。
ついつい現実から目を逸らしたくなるが、初任者に課せられている研究授業も12月の初旬に行う予定なので、こちらもそろそろ準備しなければならない。
そして、花園予選のことについて。
花園予選については、別にみのりがあれこれ考えることもないのだが、みのりの思考は、すぐにこのことへと飛んでいっていた。
――出来ることなら、本当に花園へ行かせてあげたい…。
それは、みのりの願望でもあった。
箏曲部の新人大会も近づきつつあり、こちらも気にかかっていることでもあった。
といっても、自由曲は100周年の記念式典の時と同じ曲だし、課題曲も外部講師の先生がしっかり指導してくれているので、出来栄えについては心配ないのだが、気がかりなのは吉長という生徒のことだ。
元来明るく元気な感じの彼女が、このところ調子が悪そうなのだ。――体だけでなく、心の方も。
『どうかした?』と訊いてみても、『大丈夫です』と返ってくるばかりで、不調の原因を教えくれる気配はなかった。
それに、もう一つ気がかりなことがある。
それは遼太郎の指定校推薦の入試のことだった。
聞けば、法南大学の推薦入試は、花園予選の決勝戦の翌週末だ。順当に決勝戦まで勝ち進んだ場合、花園予選が終わってから入試の準備をしていたら間に合わないだろう。
いくら指定校推薦とはいえ、適当では済まされない。遼太郎のことだから、手痛い失敗をすることはないと思うけれども、やはり準備は万端にするに越したことはない。
週の半ばの水曜日、朝の個別指導の時に、みのりはこの気がかりを、遼太郎へ切り出した。
「狩野くん、推薦入試の準備はしてる?」
日本史のことではないことを訊かれたので、遼太郎は頭の中を切り替えるのに、数秒かかった。
何も言わずにみのりを見つめ返すので、
「私が心配することじゃないかも知れないけど…。」
と、付け足した。
「推薦入試は面接だけなんで、まだ取り立てて何もしてないです…。」
遼太郎はきまり悪そうに、答えを返した。
「あら?小論文はないの?」
「はい。その代り、願書に800字くらいの志望理由を書いて提出しましたけど。」
「ふーん、指定校になると入試も簡単に済ませちゃうのかな?でも、『面接だけだから』なんて侮ってたら、足元すくわれちゃうよ。」
ギクリとした表情で、遼太郎は絶句する。
「教員の採用試験の二次試験で個人面接があるんだけど。私は、何度も足元すくわれちゃったからね。」
みのりが自虐的に苦笑いをすると、遼太郎は何も言葉が返せずに、みのりを見つめた。
「といっても、狩野くんはまだ部活をしてるし、時間も気持ちも余裕がないだろうから、朝のこの時間を、入試の準備に当ててもいいよ。」
思ってもみなかったみのりの提案に、遼太郎にはある不安がよぎった。
「……それは、先生が面接の指導をしてくれるということですか?」
遼太郎にとっては、それが一番重要なポイントだった。
「そうねー。私、進路指導詳しくないし、私じゃない方がいいなら、他の先生に頼んであげようか?」
確認するように、みのりが遼太郎を覗き込むと、遼太郎は焦った。
「いえ、先生がいいです!」
と、咄嗟に答える。
余りにもキッパリ遼太郎が断言するので、みのりは何故遼太郎がそう言うのかさえ、疑問に思わなかった。
「そう。じゃ、明日から面接指導に切り替える?」
そう言われて、遼太郎は少し考えた。




