ラグビーの勉強 Ⅴ
次の日の朝、みのりが渡り廊下へ向かうと、遼太郎は既に長机に着いて、何やら書き物をしていた。
みのりが近づいても気がつかないので、何を書いているのか、そっと傍に行って覗いてみた。
前回渡した問題プリントの間違えたところを抜き出して、教科書や資料集を見て要点をまとめている。よく見ると、すでにみのりが渡したキティちゃんのノートではなかった。
真剣な表情をして、ひたすら文字を書いているノートに落とされたまっすぐな眼。その眼を見た瞬間、みのりの鳩尾にチクチクっと電流のようなものが走った。
息を呑んで、みのりは優しい切れ長の遼太郎の目を見つめた。そして、不意に体育大会でその目の上に傷を負っていたことを思い出す。
みのりは思わず腕を伸ばして、遼太郎の前髪を指で寄せて、傷跡を確認しようとした。
ビクッ!と身を固めて、遼太郎はみのりを見上げた。反射的にみのりも手を引っ込める。
目が合うと、自分が驚かされたわけではないのに、みのりの鼓動が突然速くなった。
「ご、ごめん。驚かせちゃったね。せっかく集中してたのに、ごめんね。」
申し訳なさそうに言い、みのりは遼太郎の隣に座った。
みのりが謝っているのに、何か応えたかったが、不意を突かれた衝撃で息が乱れていて、声にならなかった。
みのりが触れた髪が気になって、無意識にそこに手をやると、みのりはその遼太郎の大きな手を握って横にずらした。
予想外のみのりの行動に、遼太郎は完全に固まった。視線は宙を捉え、握られた左手だけに意識が集まってくる。
「ここ、目の上、やっぱりちょっと傷跡が残っちゃったね。」
みのりのもう片方の手で、傷跡をスッと撫でられる。ほんの一瞬触れられただけなのに、遼太郎は全身が爆発しそうになった。
ほんの2か月前は、なんの躊躇もなくみのりを抱き締められたのに、想いを自覚しただけでこんな風に変わってしまった自分が信じられなかった。
「あ、そうだ。ちょっと待ってて。」
遼太郎が一言も発せられない内に、今座ったばかりのみのりは席を立って、職員室へと戻っていった。
「はあぁ~……」
両手で顔を覆い、遼太郎は大きなため息を吐く。まだ体は震えているが、何とか緊張を解こうと、大きな深呼吸を繰り返した。
するとすぐに、みのりは日本史の用語集を手に持って戻ってきた。
「これ、狩野くんにあげる。ノートづくりの役に立てて。」
遼太郎は手渡された冊子をパラパラとめくり、ところどころチェックが入れられてたり書き込みされていることに気が付いて、みのりを見た。
「先生が使ってる分みたいですけど、いいんですか?もらっても。」
「いいの。私はもっと専門的な日本史辞典を持ってるから。それに…」
みのりは次の言葉を探すように、少し途切れさせて、照れくさそうに笑った。
遼太郎はその間、ずっと胸をドキドキさせて、みのりを見つめていた。
「それに、あげたいの。私が採用試験の苦しい勉強をしてた時に使ってた物だから、狩野くんに持っててもらいたいの。」
みのりは優しい眼差しを、用語集から遼太郎へと移した。遼太郎はその眼差しを受け取って、もう一度手の中にある用語集に目を移す。
何度みのりはこの用語集をめくったのだろう…。指が当たるところが、うっすらと窪んでいる。
「本当は、新品をあげたいんだけど。まぁ、私も合格できたから、験担ぎでね!」
今、いちばんしんどい思いをしている遼太郎に、みのりはかつての自分を投影させていた。
頑張りすぎている遼太郎を、『頑張れ』という言葉ではなく、どうやって励ますことができるのか。それを考えていたとき、今朝の真剣な眼差しを見て思い付いたのだった。
「ありがとうございます。大事にします。」
遼太郎が両手でしっかり持ってそう言うと、みのりは、
「なんだか、押し付けちゃったみたいね。」
と、笑った。
「そんなことないです。」
遼太郎は首を横に振る。
「…なんか、先生の分身がいつも一緒にいるみたいで、心強いです。」
そう言った瞬間、この用語集は遼太郎の宝物になった。
『分身』と言われて、みのりはそれを遼太郎に持ってもらえることが、いっそう嬉しくなった。




