ほのかな想い Ⅷ
「あっ!いけない。もう時間?」
みのりが反射的に立ち上がると、膝に載せていた遼太郎のノートを落としてしまった。
とっさに二人が同時に手を伸ばして拾い上げようとしたところ、お互いの頭が、
ゴチン!
と、ぶつかった。
「…ったぁ…。」
みのりが額を片手で押さえる。
「先生!大丈夫ですか?」
心配そうに、遼太郎がみのりを覗き込む。遼太郎の顔が近づいて、みのりは露骨にうろたえた。
「…だ、大丈夫よ。狩野くんこそ、大丈夫?」
「俺はこんなの。石頭だから。先生、どこ打ちました?見せてください。」
「いや、私も大丈夫だって。」
と、みのりが言うにも関わらず、遼太郎はみのりが自身の手で額を押えているのをずらして、額の髪をかき分け、打ったところを確認した。
「ああ、赤くなってます。たんこぶ出来るかも…。すいません…。」
みのりは遼太郎のその行為に驚いて、痛みもどこかへ吹っ飛んでしまった。
「本当に大丈夫。狩野くん、心配しすぎ。」
そう言ってみのりが笑うと、遼太郎はハッとして手を引っ込めた。自分のしていたことに気がついて、恥ずかしさが遼太郎の足元から駆けあがってくる。
「私の方こそ、ごめんね。ドンくさいの、狩野くんに付き合わせちゃったね。」
みのりは遼太郎のノートを拾い上げて、手渡しながらもう一言付け足した。
「それに、私はもう〝可愛い〟って歳じゃあないわ。」
ちょっと寂しそうな笑顔を残して、職員室へ足を向ける。
いつもの遼太郎ならば、このままみのりの後ろ姿を見送るのだが、今日の遼太郎は意を決して追いかけた。
「先生。」
と、職員室へ入ろうとしていたみのりの横に立つ。
「先生は本当に可愛いです。顔とか見た目だけじゃなく、…その、先生の言う『ドンくさい』ところとかも。」
みのりは驚いたように目を丸くしていたが、遼太郎はそれだけ言うと、その後のみのりの反応を確かめることなく走り去り、教室へ向かう階段を駆けあがった。
まるで「好きだ」と告白をしてしまったみたいに、心臓がバクバクと跳ね上がっている。
でもいつかは、もっときちんと自分の気持ちを伝えなければならない日が来る――。
その時は、いったい自分はどうなってしまうんだろう…と、遼太郎は大きな息を吐きながら、教室へ入るために必死で気持ちを落ち着けた。
その日の日本史の授業は3限目だったので、そのころには幾分遼太郎の気持ちも落ち着いていた。
教室へ入ってきたみのりは、いつも通りの様子で、遼太郎の方を意識することもなく、前方に座っている生徒と二言三言談笑をしてから、授業を始める。
真剣な表情で説明をし、板書をし、時には面白いことを言って生徒を楽しませ、自分も心から笑うみのりを、以前の遼太郎は尊敬の念で見つめていたが、今は愛しい思いの方が強い。
みのりは仕事もでき、確固たる自分の意見を持っている自立した強い女性だ。その反面、自分が側にいて守ってあげなければならない…遼太郎がそう思ってしまうような、そんな儚さをみのりは併せ持っている。
授業をする心地よいみのりの声が遼太郎の心を洗い、みのりの可憐な姿に遼太郎が見とれていると、いつもあっという間に授業は終わってしまう。
授業が終わって礼をした後、おもむろに二俣が教壇へと歩み寄って、声をかける。
「みのりちゃん、明日はなんも予定ない?決勝戦、応援に来てくれる?」
「もちろん行くに決まってるじゃないの!約束したでしょ?」
と、みのりは明るい笑顔を見せた。
「明日は、私だけじゃないわ。他の先生たちもたくさん応援に行ってくれるよ!」
「ええっ!?マジで?」
「そりゃそうよ。決勝戦だもの。芳野高校がここまで勝ち上がれるのは、快挙だって、職員室でも話題になってるしね。」
「『快挙』だって!?それって、俺らがもっと弱いと思われてたってこと?俺は、ここまで来れたのは当然だと思ってるし、明日だって勝ってみせるぜ!!なっ!?遼ちゃん!」
決勝戦までくる過程で、結構危ない試合もあったように思われるのだが、いつも自信満々の二俣は、いつものように遼太郎に同意を求めた。
今朝のことがあって、みのりの傍に行くのは気恥ずかしい遼太郎だったが、二俣に呼ばれたので、肩をすくめて頷きながら二俣の隣へと来た。
「負けると思ってする試合なんてないから、頭の中には勝つことしか考えられないし…。」
遠慮がちに、みのりとは目を合わさないように遼太郎が言う。
さすがに遼太郎は、二俣のように「絶対に勝つ」とは言い切れない。それほど、都留山高校の強さは絶大だった。
それでも、みのりはそんな二人の武勇を鼓舞する。
「おお!頼もしいね。明日はきっと最高のプレーを観させてもらえるのを、楽しみにしてるよ。…あっ、と…ごめん。もうちょっと話してたいけど、次1年生の授業が入ってるから…。」
みのりは急いで授業道具をまとめ、足早に教室を出ようとした。戸口のところで、
「衛藤くん!明日の試合、頑張ってね!!」
と、衛藤へ声をかけると、衛藤は驚いて顔を赤くし会釈をした。
遼太郎がみのりを目で追って、出ていった戸口の方を見遣っていると、
「遼ちゃん。みのりちゃんが、これ、忘れてるぜ。」
と、二俣が教卓に残されたチョークケースを指差した。
遼太郎はとっさにチョークケースを掴み、みのりの後を追いかける。
「先生!これ、忘れてます。」
階段を降りかけているみのりを呼び止める。振り向いたみのりは、今朝の時と同じように驚いた顔をしていたが、遼太郎の手にあるチョークケースを見て、恥ずかしそうに首をすくめた。
「また、やっちゃった…。よく忘れちゃうの。ありがとう。」
そう言って出された手に、遼太郎はチョークケースを載せると、会釈をして踵を返した。
「狩野くん!」
とっさにみのりが遼太郎の後ろ姿を、大きな声で呼び止めた。今度は遼太郎が驚いて振り向く番だった。
「あの…、明日。頑張ってね…。」
先ほどの衛藤にかけたのと同じ言葉だったが、耳に響く声色も込められている意味の重さも、全く違っていた。
お互いの視線が絡んで、遼太郎はゆっくりと頷く。
「はい…!」
その決意を秘めた闘志ある表情に、みのりの心は呼応し、その頼もしさに笑顔がこぼれた。
みのりが自分だけを見て花が咲くように笑ってくれたので、遼太郎の心は安堵感で満たされた。
今朝、自分が言った言葉を、みのりが受け入れてくれているのだと確信した。それでなければ、こんなふうに可愛らしい笑顔を見せてくれるはずがない。
みのりが足早に階段を駆け下りていった後も、遼太郎はしばらくその場で、みのりの笑顔を噛みしめていた。
目を閉じ、その笑顔を心に貯めると、明日の試合で遼太郎が躍動するエネルギーとなった。




