第13話 第三の試練——A級ダンジョン「ミザレ」と、霧の記録
幕間 レプラカンからミミールへ
レプラカンを出て、四日。
道が変わっていった。
港湾都市の喧騒が遠ざかり、海岸線が内陸に折れ、やがて道の両脇に低い丘が続くようになった。そして——霧が出てきた。
最初は朝だけだった。夜明けの冷気と地面の温度差が作り出す、薄い霧。それが日が昇れば晴れる。
しかし三日目から——霧が晴れなくなった。
「ミミール王国に入ったな」ウィークが御者台から言った。
「霧が国境になってるの?」ラベルが荷台から前を見た。視界が白く煙っている。馬の足元しか見えない。
「この霧は——ミミール特有のものだ。精霊霧という」ウィークは続けた。
「水精霊と霧精霊が共存した結果生まれる、特殊な環境だ。常時この濃度を保っている」
「迷子になりそうだ……」エラが心細そうに言った。
「私のセンサーがある。迷わない」
「師匠のセンサーは心強いな」ドノヴァンが言った。
「それと——」ウィークは少し間を置いた。
「サン・アポロニウスになってから、霧の中での感知精度が上がっている。全言語習得のパッシブが、霧精霊の発する微弱な信号を言語として処理できるようになった」
「霧精霊が——言語を持ってるの?」ラベルが驚いた。
「言語というより、信号だ。しかしその信号の構造が、古代の精霊語に近い」ウィークは続けた。
「全言語習得があれば——その信号を、情報として読み取れる」
「霧精霊と話せるということか」カイが静かに言った。
「厳密には話すのではなく、読み取る。向こうから発信されているものを受け取るだけだ。しかし——それだけでも、ミミールの霧の中では大きなアドバンテージになる」
「霧精霊が何を発信してるの?」ラベルが聞く。
「今は——警戒信号だ」ウィークは静かに言った。
「我々が侵入者かどうかを確認している」
「どうすればいい?」
「ラベル——一曲弾いてくれ」
「霧精霊に向けて?」
「そうだ。全言語習得で信号を読み取りながら、お前の音楽が届いているかを確認する。霧精霊が侵入者ではないと判断すれば——霧が道を開く」
ラベルはノエルを取り出した。
馬車が揺れる中、弦を鳴らした。
霧が——揺れた。
音楽的な揺れ方ではなく、呼吸するような揺れ方。霧精霊が、旋律に反応している。
「信号が変わった」ウィークは言った。
「警戒から——好奇心に。もう少し続けろ」
ラベルは弾き続けた。
霧が——少し、薄くなった。
前方に、かすかに道が見えてきた。
「通してくれた」ウィークは静かに言った。
「霧精霊が——俺の音楽を聴いてくれたのか」
「そうだ。ミミールの霧精霊は聴覚に近い感覚器官を持つ。音楽に敏感だ」
「じゃあ——ミミールはラベルの音楽と相性がいいな」ドノヴァンが言った。
「第三の試練が音楽に関わる可能性がある」ウィークは頷いた。
「書がそれを示唆している」
一 ミミール王国・書庫都市ヴァルダ
霧の中に、街が現れた。
ヴァルダ——ミミール王国の王都にして、大陸最大の書庫都市。
建物の全てが石造りで、壁が分厚い。湿気の多いミミールで記録を守るための構造だ。街の中心に、巨大な塔が聳えていた。七層構造の、圧倒的な存在感。
「あれが——大書庫か」ラベルは見上げた。
「七百年分の記録が収められている」ウィークは言った。
「この大陸で起きた全ての出来事が、あの塔の中に眠っている」
「全ての出来事……ソナーレの記録も?」
「帝国が消した記録も、ミミールには一部が残っている可能性がある」ウィークは静かに言った。
「それがアルダの言っていたことだ」
(ソナーレの記録が——ここにあるかもしれない)
(母さんのことも、残っているかもしれない)
ラベルの胸が、少し速くなった。
二 エルドゥ王
王宮への謁見は、翌日に設定された。
その夜、宿に入った一行に——王宮から使いが来た。
「エルドゥ王より伝言がございます。明日の謁見の前に——大書庫の閲覧許可を、創音王国の一行に与える。自由に見てよい、と」
「閲覧許可を——先に?」ラベルが驚いた。
「王が先手を打ってきた」ウィークは静かに言った。
「どういう意図かは、明日わかる」
翌朝、大書庫に入った。
内部は——静かだった。
壁一面に棚が並び、無数の書物が収められている。羊皮紙の匂い。インクの匂い。時間の匂い。
「七百年分……」セシルが小声で言った。声が自然に小さくなる場所だった。
「ラベル」ウィークが言った。
「ここでまず、ソナーレに関する記録を探せ。私も探す」
「どうやって?」
「司書に頼む。案内してくれるはずだ」
司書の老人が、案内してくれた。
「ソナーレ王国の記録でしたら——こちらに」
案内された棚の前で、ラベルは息をのんだ。
薄い。
他の棚と比べて、圧倒的に少ない。せいぜい十冊ほどの書物が、申し訳なさそうに並んでいた。
「これだけしか……」
「帝国が消した記録の、ほんの断片です」司書は静かに言った。
「ミミールがかろうじて保管できたもの——それだけです」
ラベルは一冊を取り出した。
表紙に、ソナーレの紋章が刻まれていた。
三つの星を囲む円。その下の、波を模した線。
開いた。
音楽の記録だった。ソナーレ王国の歴代の王が作曲した旋律の記録。楽譜と、その旋律がどんな精霊を呼んだかの記録。
「師匠」ラベルは呼んだ。
「ここに——音楽の記録がある」
ウィークが来た。書物を覗き込んだ。
その時——ウィークの全言語習得パッシブが、ページの端に刻まれた極めて小さな文字を捉えた。
「……これは」
「なに?」
「楽譜の端に——精霊語で追記がある。ミミールの書記が記したものだ」ウィークは静かに読んだ。
「『ソナーレの音楽は、我々の霧精霊が最も敬愛する音楽だった。彼らが来るたびに、霧は歌い、精霊は踊った。その音楽が消えた日——ミミールの霧精霊は三日間、鳴かなかった』」
ラベルは動けなかった。
「霧精霊が——三日間、鳴かなかった」
「百年前、ソナーレが消えた時の記録だ」
(精霊たちも——悲しんでいたんだ。百年前に)
三 カイの発見
ラベルが音楽の記録を読んでいる間に、カイは別の棚を調べていた。
静かに、一冊一冊を確認していた。
その手が——止まった。
「……」
カイは一冊の書物を抜き出した。
表紙に、見覚えのある紋章が刻まれていた。
三つの星を囲む円。その下の、波を模した線。
ソナーレの紋章——ではない。
紋章の下に、さらに小さな印が加えられていた。剣を模した線。ソナーレの紋章に、剣の家系を示す印が追加されたもの。
(これは——俺の一族の紋章だ)
「ラベル」カイは静かに呼んだ。
「どうした?」
「ここに——俺の一族の記録がある」
ラベルが飛んできた。ウィークも来た。
書物を開いた。
中身は——旅の記録だった。一人の男が書いたものだ。
『シンフォニア歴六百四十年、第三の月——私はミミール王国に到達した。ザザントに封じられていた先祖の剣を取りに行く前に、ここで記録を残しておく。コプラスの北、封域の向こうに——かつてのソナーレ王国の残滓があると聞いた。そこに、ソナーレの末裔が来る時のための準備をしなければならない』
「……これは」ラベルが声を震わせた。
「カイの父親の記録だ」ウィークが静かに言った。
カイは動けなかった。
五年前——父が来ていた。ミミールに。そしてここに記録を残していた。
「読む」カイは静かに言った。
「……一人で読むか?」ラベルが聞いた。
「いや」カイは首を振った。「一緒に読む」
四 父の記録
一行全員で、書物の周りに集まった。
カイがページをめくった。ウィークが全言語習得で、かすれた文字も読み取りながら、声に出して読んだ。
『私の名はシルバ・ソナーレ。ソナーレ王家の剣術流派、水流剣の継承者だ。息子のカイに、この記録を残す』
カイの手が、微かに震えた。
『私はこの五年間、ソナーレの末裔を探し続けてきた。アルダから、直系の末裔が生きているという情報を得た。その末裔は今、まだ幼く、おそらく力に目覚めていない。しかし——いつかその子が旅を始める時、私が準備したものが役に立つはずだ』
「準備……」ラベルが呟いた。
『ザザントの封印の間に、二つのものが封じられている。先祖の剣と——ソナーレの魔力楽器。私は剣を取り出す権限を持つ。しかし楽器は——直系の末裔にしか応えない。だから私は剣だけを取り、後の者のためにその場所を記録して残す』
「父さんは——全部知っていたんだ」カイは静かに言った。
「ノエルのことも。ラベルのことも」ラベルは言った。
『カイへ。もし私が戻らなければ——お前に頼みたい。ザザントへ行け。剣を取れ。そしてソナーレの末裔と共に旅をしろ。水流剣は——音楽と共に在る時、最も力を発揮する。それが我々の始まりの剣術だから』
カイは目を閉じた。
それ以上、言葉が出てこなかった。
ラベルが、カイの隣に座った。
「ちゃんと——続きを読もう」ラベルは静かに言った。
「……ああ」
『最後に——ミミールの書記が教えてくれたことを記しておく。ミザレの深部に、霧精霊の古老がいる。その古老は、ソナーレの音楽を記憶している。百年前の音楽を、今も覚えている。それを——後の者に伝えてくれるはずだ』
「霧精霊の古老が——ソナーレの音楽を覚えている」ウィークは静かに言った。
「そしてそれが——第三の試練の核心だ」
『水流剣の第十七型——それだけは、口伝で伝えていない。ミザレの深部、古老の傍に——封じてある。
カイが来た時、古老が開示してくれるはずだ』
「剣術の型が——ミザレに」カイが言った。
「父親がお前のために残した」ドノヴァンが静かに言った。
カイはしばらく、書物を見ていた。
「……帰らなかった理由が、ここに書いてあるか?」カイは聞いた。
ウィークが最後のページを読んだ。
『この記録を書いた後、北の封域へ向かう。ソナーレ王国の跡地の封印を、外から確認しておきたい。もし帰れなければ——封域の何かが、私を引き止めたのだろう。カイよ、それでも前を向け。お前の剣は、世界を守るためにある』
「北の封域……」ラベルは言った。
「ソナーレ王国の跡地に向かって——それで戻らなかった」
「コプラスの周辺か」ウィークは静かに考えた。
「あの地域は帝国の監視が強い。帝国に捕らえられた可能性がある」
「生きている可能性は?」カイが静かに聞いた。
「ある」ウィークは即答した。
「帝国はソナーレと関わりのある者を——殺すより、使おうとする場合がある。情報を引き出すために」
「探しに行けるか?」
「今は——試練を越えることが先だ」ウィークは静かに言った。
「しかしハフト・ハーンが終わった後——必ず向かう。私が約束する」
カイは書物を閉じた。
その手が——しっかりと、書物を握っていた。
「……これも借りられるか?」カイは司書に向かって言った。
「お持ちください。それは——あなたのためのものですから」司書は静かに言った。
五 エルドゥ王との謁見
翌日、エルドゥ王との謁見が行われた。
エルドゥ王——七十代の老王。白髪で、目が深く、動作の全てがゆっくりとしていた。しかしその目の奥に、七百年分の記録を管理してきた国の重みが宿っていた。
「ラベル・ソナーレ」エルドゥは静かに言った。
「大書庫に来てくれたか」
「ありがとうございました。閲覧を許可していただいて」
「許可するのは当然だ」エルドゥは言った。
「あなた方のためにある記録が、あそこには眠っている。主が来たなら、渡さなければならない」
「主、というのは?」
「ソナーレの記録は——ソナーレの者のためのものだ。ミミールはただ、守っていただけだ」エルドゥは続けた。
「それが、百年前から我々に課せられた使命だった」
「百年前から——守っていてくれたんですか?」
「ミミールは記録の国だ」エルドゥは静かに言った。
「歴史を消すことは、我々には許されない行為だ。たとえ帝国が消すよう命じてきても——我々は従わなかった。ただし——表からは消した。帝国の目に見えないように、奥深くに隠した」
「それで——断片が残っていたのか」ウィークが言った。
「そうだ」エルドゥは頷いた。
「さて——試練の話をしよう。A級ダンジョン「ミザレ」の攻略だ」
「承知しています」
「ミザレは——霧のダンジョンだ。視界が効かない。普通の攻略では、迷って出られなくなる」エルドゥは続けた。
「しかし——霧精霊の古老が、道を知っている。古老と対話できれば——道が開く」
「古老と対話する方法は?」
「音楽だ」エルドゥは静かに言った。
「百年前から、霧精霊の古老はソナーレの音楽を待っている。その音楽が来れば——古老は応える」
「ラベルの音楽が——鍵だ」カイが言った。
「そうだ」エルドゥは頷いた。
「そして——カイ殿。あなたのために、古老が預かっているものがある。水流剣の第十七型——それを、古老が開示してくれるだろう」
「父の記録に書いてありました」カイは静かに言った。
「シルバ殿は——よく来てくれた」エルドゥは目を細めた。
「五年前のことを、私は覚えている。あの方は——息子のために、全てを準備して去っていった。誇り高い人だった」
カイは頷いた。言葉は出てこなかった。
六 ミザレへ
翌朝、一行はミザレへ向かった。
霧が——濃かった。
ダンジョンの入口は、霧の中に溶け込んでいた。どこが入口でどこが岩壁か、見た目ではわからない。
「センサーで確認している」ウィークは迷いなく進んだ。
「こちらだ」
「師匠がいなかったら、絶対迷う」エラが言った。
「迷わなくても——ここは怖い」ロクが低音で言った。珍しく、感情的な言葉が出た。
「ロクさんが怖いって言った」ラベルが少し驚いた。
「霧は怖い」ロクは静かに言った。「声が吸い込まれる感じがする」
「声が吸い込まれる?」
「ボイスプレイを使う者にとって——声が届かない環境は、最も不安だ」セシルが補足した。
「霧は音を拡散させる。私たちの声が、精霊に届くかどうかが心配です」
「大丈夫だ」ウィークは言った。
「霧精霊は音に敏感だと言った。声が届かないのではなく——霧精霊が媒体になって、音をより遠くまで運んでくれる可能性がある」
「媒体……?」セシルの目が変わった。
「ミザレの霧精霊は——音を運ぶ性質がある。ラベルの音楽を、お前たちの声を——霧精霊が受け取って、ダンジョン全体に広げてくれるかもしれない」
「それは——有利な環境だ」セシルは静かに言った。
「ただし——条件がある」ウィークは続けた。
「霧精霊は誠実な音にしか応えない。技術だけの音楽では、運ばない」
「誠実な音か」ラベルはテレーズの言葉を思い出した。「わかった」
七 ミザレの内部
踏み込んだ瞬間——視界が、消えた。
正確には、二メートル先まで見えない。霧が白く、密度が高く、前の人の背中を追うことしかできない。
「声を切らすな」ウィークが言った。
「誰かが黙ったら、声をかけろ。それが安全確認になる」
「了解」
ウィークのセンサーが先導し、一行は霧の中を進んだ。
第一層——霧精霊の密度が高い。攻撃的ではないが、触れると感覚がずれる。方向感覚が失われる。
「ラベル、弾いてくれ」ウィークが言った。
「この霧の中で?」
「霧精霊に——道案内を頼む。お前の音楽が届けば、霧が道を示してくれるはずだ」
ラベルはノエルを構えた。
霧の中で弾く。音が四方八方に散る気がした。しかし——それでいいのかもしれない。どこに向けても届く。
弦を鳴らした。
霧が——動いた。
風ではなく、霧そのものが意思を持って動くように。前方の霧が薄くなり、道が現れた。
「来た」ウィークは言った。
「霧精霊が応えた。このまま進む」
「霧が道を教えてくれてる……」ラベルは弾きながら言った。
「そうだ。お前の音楽が、霧精霊の言語に近い何かを持っている」
「近い言語って、どういう意味?」
「霧精霊は——旋律を言語として使う」ウィークは全言語習得で感知しながら言った。
「お前のノエルの旋律が、霧精霊の言語構造と共鳴している。だから伝わる」
「音楽が言語……」ラベルは弾きながら考えた。
「つまり——精霊と話している、ということか」
「正確にはそうだ」
「なんか——嬉しい」
八 第十層:霧の核
第十層——ミザレの最深部。
ここまで来ると、霧の密度が最大になっていた。
もはや手を伸ばしても、自分の指が見えないほど。
「センサーが——」ウィークが止まった。
「どうした?」
「いる」ウィークは静かに言った。
「霧精霊の古老——巨大な個体が、前方にいる。しかし——」
「しかし?」
「眠っている」
「眠ってる?」
「百年間——ずっと待ち続けて、力尽きて眠っている」ウィークは言った。
「ソナーレの音楽を待ちながら、眠った」
(百年間、待って、眠ってしまった)
ラベルは胸が締め付けられた。
「起こせるか?」
「お前の音楽で——起こせるはずだ」
「どんな音楽で?」
「わからない」ウィークは正直に言った。
「しかし——お前が今感じていることを、音にすれば、届くと思う」
(今感じていること——)
(百年間待って眠った精霊への、申し訳なさ。でも——やっと来た、という事実。遅かったけれど、来た)
ラベルはノエルを構えた。
目を閉じた。
弾き始めた。
謝罪でも、慰めでもなく——*ただ、来た*という旋律。
百年間の沈黙の後に、ただ静かに現れる音。
カルテットが声を重ねた。
ティアの変色する声が、白い霧の中で虹色に変わっていく。
ロクの低音が、大地の奥深くまで届く。
エラの高音が、霧の天井を突き抜けようとする。
セシルの中間音が、全てを繋ぐ。
霧が——揺れた。
大きく、ゆっくりと。まるで巨大な何かが、長い眠りから覚めようとするように。
(来た——)
声ではなかった。霧そのものが、振動した。
(百年間——待っていた。ようやく来た)
「古老が目覚めている」ウィークは静かに言った。
霧が晴れ始めた。
ゆっくりと、少しずつ。
そして——現れた。
巨大だった。
コプラスの神樹が大きかったとすれば、これは別の意味で大きかった。高さではなく——広さ。霧精霊の古老は、霧そのものと一体化していた。形が定まらない。見る角度によって、形が変わる。ただ——そこに、圧倒的な存在感が在る。
(…ソナーレの音が……来た……)
「来ました」ラベルは言った。
「遅くなって——ごめんなさい」
(遅くはない……お前が来た時が、来るべき時だ……)
「覚えてますか?百年前のソナーレの音楽を」
(覚えている……ずっと覚えていた……消えることのない音楽だから……)
「聴かせてもらえますか?百年前の音楽を」
(それが……お前への贈り物だ……)
九 百年前の旋律
霧精霊の古老が——歌った。
音楽ではなく、霧が振動した。
しかしそれは確かに——旋律だった。
ラベルの耳に、そしてノエルに——直接届いた。
(これが——百年前のソナーレの音楽)
(俺が知らなかった旋律。母さんからも聴けなかった旋律。でも——ノエルが覚えている)
ノエルの弦が、勝手に震えた。
霧精霊の旋律に、ノエルが応えていた。百年前の記憶が、楽器の中に残っていたかのように。
「……記録されていた」ウィークは静かに言った。
「ノエルに。百年前の旋律が、楽器の中に残っていた」
「楽器が覚えてる……」ラベルは目を閉じたまま言った。
「テレーズが言っていた。楽器は使い手を覚える——しかしノエルの場合は、使い手だけでなく、旋律も覚えていた。百年間封印されていた間も」
旋律が終わった。
ラベルは目を開けた。
今聴いた旋律が——胸の中に刻まれていた。音符として記憶したわけではなく、体が覚えていた。
「今の旋律を——弾けるか?」ウィークが問うた。
ラベルはノエルを構えた。
弾き始めた。
霧精霊の旋律を——そのまま返した。
霧精霊が——応えた。光が増した。
カルテットが声を重ねた。
ドノヴァンのシルファが踊った。
(あの旋律が——俺の中に入ってきた。ソナーレの、始まりの音楽が)
十 水流剣、第十七型
旋律が収まった後、古老はカイを見た。
(……カイ……シルバの子……)
「はい」カイは静かに言った。
(父親が……預けていった……受け取るか……)
「受け取ります」
霧が動いた。
霧の中から——光の粒が集まってきた。それは形を作り始めた。剣が舞う形。人が動く形。
水流剣、第十七型——「渡り鳥」。
カイはその動きを、じっと見た。
一度しか見せてくれないかもしれない。全てを目に刻もうとした。
(父さんが——俺のために残してくれた型)
(俺がここに来るのを、信じてくれていた)
光の動きが終わった。
カイは目を閉じた。
それを、体に刻んだ。
「……わかった」カイは静かに言った。「父さんの意志を——受け取った」
(……それでいい……水流剣は……音楽と共に在る時……最も輝く……シルバも……そう言っていた……)
「音楽と共に在る」カイはラベルを見た。
「俺も——そう思う」ラベルは言った。
「カイの剣が一番綺麗に見える時は、俺が弾いている時だ」
「そうか」カイは短く言った。しかし——その目が、少し柔らかくなっていた。
十一 建国の楽曲、発展
霧精霊の古老が、最後に一つのことを伝えた。
(……建国の楽曲「創音」……第六節に……足りない旋律がある……それを……今の旋律で補え……)
「第六節に——足りない旋律?」ラベルは驚いた。
(ソナーレの王が……未完のまま残した節だ……完成させるのは……次の王だと……言い残した……)
「次の王——俺が、完成させる?」
(そうだ……今日聴いた旋律が……その答えだ……)
ラベルは手元の楽譜を開いた。
第六節——確かに、中盤に空白がある。カリンから受け取った楽譜にも、そこだけ何も記されていなかった。
「ここが——未完だったのか」ラベルは呟いた。
「今日古老から聴いた旋律を——そこに入れろということか」ウィークは静かに言った。
「そうだと思う」ラベルは楽譜に向かった。
「今日聴いた旋律を——書き留める」
「書けるか?楽譜として」セシルが聞いた。
「書き方はテレーズさんに少し教わった。完全じゃないけど——体が覚えている旋律なら、書ける気がする」
ラベルは楽譜の空白に、音符を書き始めた。
震える手で。しかし確かな旋律を。
霧精霊の古老が——静かに見ていた。
(……正しい……それでいい……)
カタログ化完了——建国の楽曲「創音」第六節、補完。
書物が光を放った。
第三の試練、クリア。ミミール王国、創音王国の承認。
十二 エルドゥ王への報告
ミザレを出た翌日、エルドゥ王への報告を行った。
「古老が目覚めたか」エルドゥは静かに言った。
「はい」ラベルは答えた。
「百年間待っていてくれたと——言っていました」
「霧精霊は長命だ。百年は、彼らにとって長くない」エルドゥは言った。
「しかし——待つことは、それでも辛いことだ。ソナーレへの思いが、それだけ強かったということだ」
「古老が——百年前の旋律を教えてくれました」ラベルは言った。
「建国の楽曲「創音」の、未完の部分を補う旋律を」
「それを——受け取ったか」エルドゥの目が、深くなった。
「受け取りました」
「……ミミール王国として」エルドゥは立ち上がった。
「創音王国を、正式に承認する。そして——これを渡したい」
エルドゥは手元の書物を取り出した。
「ミミールが百年間守ってきた、ソナーレの記録の全て——写本だ。原本はここで保管し続けるが、写本はお前たちが持て」
「ありがとうございます」ラベルは両手で受け取った。
「礼はこちらが言う」エルドゥは静かに言った。
「百年間——守ってきた記録が、ようやく主のところへ戻る。それだけで十分だ」
「一つだけ聞いていいですか」ラベルは言った。
「なんだ」
「霧精霊の古老は——これから、どうなりますか?」
「目覚めた古老は」エルドゥは言った。
「ミザレを出て、ミミール全土の霧精霊を再び結ぶだろう。この国の霧が——百年ぶりに、完全な形を取り戻す」
「霧が変わる?」
「ソナーレの音楽が戻ったことを——霧が大陸全土に伝えるかもしれない」エルドゥは穏やかに言った。
「霧は——風より遠くまで、音を運ぶから」
十三 夜の野営地
ミミールを出た夜。
焚き火の前で、カイは父の記録を読んでいた。
ラベルが隣に座った。
「カイ」
「なに」
「父さんの記録——全部読んだ?」
「ああ」
「どうだった?」
カイはしばらく黙った。
「……怒れなかった」やがてカイは言った。
「怒れなかった?」
「父さんを——恨みたかったのかもしれない。五年間、帰ってこなかったことを。でも——記録を読んだら、怒る気持ちが消えた」
「なぜ?」
「全部——俺のためにやっていたから」カイは静かに言った。
「旅も、準備も、記録を残すことも。父さんの五年間は——俺のためにあった」
「……カイ」
「それが——嬉しいのか、悲しいのか、わからない」カイは焚き火を見た。
「ただ——剣を握りたくなった。父さんが残してくれた型を、今すぐ体に入れたくなった」
「そうしたらいい」ラベルは言った。
「ああ」カイは立ち上がった。二本の剣を抜いた。
夜の野営地で、カイは型を始めた。
水流剣の——新しい型。
ラベルはノエルを取り出した。
カイの型に合わせて、弾き始めた。
剣と音楽が——夜の中で重なった。
(音楽と共に在る時、最も輝く——古老が言った言葉の通りだ)
ドノヴァンが遠くで見ていた。
「……いい光景だな」
ウィークは書物を閉じて、その光景を見ていた。
「そうだな」
霧の精霊が——焚き火の周りで、静かに揺れていた。
旅は続く。
残り四つ——ファフニール、ソラス、ラエール、シルベルト。
しかし今夜は——剣と音楽が、夜の空気を満たしていた。
第13話 了
次話予告
第14話「第四の試練——A級ダンジョン「ファーレン」と、竜の咆哮」
ファフニール王国——竜と共に生きる国。
三度、竜に拒まれたというヴァルド王が待っていた。
大竜フレイムが守るA級ダンジョン「ファーレン」。
しかしフレイムは——縛られることを、拒んでいた。
縛らない竜契とは何か。
ラベルの音楽が、千年生きた竜に届く時——
空が、開く。




