プロローグ ファースト・インパクト:ブラッククラッシュ ――シンフォニア歴645年 第4の月――
誰も知らなかった。
その日、アビス帝国の支配する都市レヴィアタンで起きたことを。
知る者が——いなくなったから。
一 黒霧の谷の番人たち
レヴィアタンは、アビス帝国の支配する都市の中でも、異質な場所だった。
年中霧が晴れない。空が灰色に淀んでいる。そして街の中心には、常に冒険者の血と汗が染み込んだギルドの拠点がある。
B級ダンジョン「黒霧の谷」——一度潜れば休む暇もなく敵が湧き出てくると言われるその地獄を管轄する、帝国直轄の拠点ギルドだ。
その最奥の部屋で、男が腕を組んでいた。
グラン。
帝国が誇る三人の剣聖のうちの一人。白髪交じりの短髪、刻まれた傷跡、そして全てを見透かすような暗い瞳。彼が腰を落ち着けているだけで、周囲の空気が数度下がる——そういう男だった。
「……で? 今はどうなっている」
低い声で問う。
「はい」部下の一人が書類を手に進み出た。
「軍事関係者からの情報によりますと、反乱勢力は全体の三割程かと」
「ほう」グランは鼻を鳴らした。
「ではレヴィアタンも安泰だな」
「すべて問題なく——」
その言葉が終わらなかった。
「誰だ! お前ら!」
扉の近くにいた部下——A級戦士のギエラが、突然怒鳴り声を上げた。
全員の視線がそちらへ向く。
いつの間にか、ギルドの中に二人がいた。
黒い。
全身を黒ずくめの装束で包んでいる。
フードを深く被り、顔の輪郭すら掴みにくい。
一人はやや小柄で、もう一人は中背。
ただそこに立っているだけなのに——何故か、部屋の空気がわずかに歪んだ気がした。
小柄な方が、ぽつりと言った。
「……クエストを受けに来た」
「ん?」ギエラが眉をひそめる。
「なんだ、よそ者か? 今日は休業日だ!」
「ギルド受付は年中無休だろ?」
黒ずくめの声は、抑揚がなかった。
責めているわけでも、怒っているわけでもない。ただ、事実を確認しているだけのような口ぶりだった。
「ここには一度でも休む暇がないB級ダンジョンがあると聞いたが」
「いちいちうるせんだよ!」
ギエラが腕を伸ばした。その大きな手が、黒ずくめの胸倉を掴もうとした——
その瞬間だった。
ドン。
鈍い音。
ギエラの頭が、床に沈んでいた。
もう一人の黒ずくめの右足が、まるで雑草を踏み潰すように、A級戦士の頭を踏み抜いていた。
ギルド内が——静寂に包まれた。
誰も、声を出せなかった。
職員の一人が震える唇で囁いた。
「Aランク戦士の……屈強なギエラが……」
それ以上、言葉が続かない。
「なあ」
小柄な黒ずくめが、グランを見据えて言った。声色は変わらない。
穏やかで、静かで——だからこそ、底知れなかった。
「我々は仕事をしに来ているわけだが。ゴミ掃除をするつもりはないのだがね」
二 剣聖とアサシン
「なんだとッ——ファイヤ・アロー!」
奥の席から魔術師のジュビエールが叫び、黒ずくめに向けて魔法を放った。
炎の矢が、一直線に飛ぶ。
「いっ——!?」
魔法を放ったはずのジュビエール本人が、驚愕の声を上げた。
次の瞬間には、その声すら止まっていた。
頭が——胴体から切り離されていた。
魔法が届くより速く、気づくより速く、それは完了していた。
ギルド内の全員が、同じ言葉を心の中で叫んだ。
アサシンか——!
誰も動けない。
その沈黙の中で、小柄な黒ずくめがグランを見て言った。
「噂通り、闇落ちしたというのは本当のようだな——グランさんよ」
グランの眉が、微かに動いた。
「……」
「本当に最強部隊なのか、これじゃ」黒ずくめは続ける。
「剣聖の名も、飾りなんじゃ——」
「全員かかれーーー!」
グランが叫んだ。
部屋中の戦士たちが一斉に動いた。魔法が飛ぶ。剣が抜かれる。怒声が重なる。
数の暴力が、二人の黒ずくめに向けて殺到する——
もう一人の黒ずくめが、ポツリと呟いた。
「……ナノ・ワールド」
それだけだった。
グランの剣が届こうとした。
誰よりも速く、誰よりも鋭く——帝国三剣聖の一角が、その全力をもって振り下ろした刃が、、、
あと一手というところで——
止まった。
いや、正確には止まったのではない。
届かないのだ。
見えない何かが、二人の黒ずくめを中心に展開している。
空気が歪んでいる。
剣も魔法も炎も——全てが、その境界線の手前で意味を失っていく。
「この空間は」
黒ずくめが静かに言った。
「我を中心とした絶対領域。誰も触れることはない」
そして——心の中で、唱えた。
スキルβ——崩壊。
次の瞬間に何が起きたのか、その場にいた誰も説明できなかっただろう。
説明できる者が、残らなかったのだから。
三 消えた拠点
レヴィアタンの街に、その日の夕刻——異変が知れ渡った。
ギルドの拠点が、消えた。
建物ごと。痕跡ごと。まるで最初からそこには何もなかったかのように、更地だけが残っていた。
そしてさらに月日が経って、もう一つの事実が明らかになった。
B級ダンジョン「黒霧の谷」が——消滅していた。
ダンジョンとは、破壊できないものだ。攻略することはできても、、、
存在を消すことはできない——そう信じられていた。
その常識が、この日に静かに、何の予告もなく覆された。
しかし街の人々がその事実を知るのは、ずっと後のことである。
四 街道の黒ずくめ
レヴィアタン郊外の、名もない街道。
キャラバンの荷馬車が、ゆっくりと轍を刻んでいた。
荷台に並んで座る二つの影。どちらも黒い外套を纏っている。フードを下ろした片方——小柄な方が、にこにこと笑いながら言った。
「ねえウィーク、本当にうまくいったね!」
「ああ」もう一人——ウィークと呼ばれた方が、静かに頷いた。
「全てシナリオ通りだ、ラベル。怪我はないか?」
「全然平気だよ!」
ラベルと呼ばれた少年は、外套の中で元気よく腕を振った。まだ声変わりも終わっていないような、若い声だ。そのわりに、先ほどまでいた場所で起きたことを、まるで日常の延長のように話している。
「でも——あのギルド、本当に消えてしまったの?」
「厳密に言えば、消えたわけではない」
ウィークは前を見たまま、淡々と答えた。
その横顔は整っている。しかし——どこか、普通の人間とは違う。まるで人間の皮を借りた、別の何かが中に入っているような——そういう静けさだった。
(この違和感の正体を、ラベルはまだ知らない。)
(知るのは、ずっと後のことだ。)
「今回は宣戦布告の意味を兼ねて、その材料にさせてもらった」
「材料……」
「おそらく彼の地のお偉いさん方も、今頃アタフタしている頃さ」
含み笑い。
ラベルはしばらく考えて——それから、また笑った。
「そっか。じゃあ次の仕事はもっと大変になるね」
「そうなるだろうね」
「楽しみだなあ」
ウィークはその言葉に何も答えなかった。
ただ、口元が微かに——本当に微かに——緩んだように見えた。
荷馬車は街道を進む。赤土の道の果てに、次の町が待っている。
五 ヨグ・ソートスの動揺
時を同じくして。
アビス帝国の首都"ヨグ・ソートス"——その中枢に聳える、ギルド統括省の庁舎「ボア・クレスト」。
最上階に、衝撃が走った。
「アザトース局長! 緊急報告です!」
部下が青ざめた顔で駆け込んでくる。
「ただいま、ボア・クレスト最上階に——他所の建造物とみられる物体が落下し、一部損傷したとの連絡あり!」
「何!」
アザトースが立ち上がった。
帝国ギルド統括省の長官。五十がらみの、鋭い目をした男。帝国の官僚としての落ち着きと、長年の経験から来る冷静さを持つ——はずの男が、今は明らかに動揺していた。
「それで今どうなっている!」
「幸い、結界の作動により被害はさほど出ておりませんが——落下物の中に、生存者……と思われる者がおりまして……それが……その……」
「ナンダ! はっきり申してみよ!」
「生存者だった物、と言った方がよいかもしれません。一度、ご自身の目でご確認いただきたいのです」
アザトースは部下の顔を見た。
この男が言葉を濁すのは、珍しいことだった。
「……案内せよ」
「は!」
それは、アザトースがこれまでの人生で見たことのない光景だった。
建物の損壊した一角。その瓦礫の中に——それがいた。
「なんだ……これは」
思わず、声が漏れた。
人間ではない。しいて言うならば、巨大なアメーバーのようなものだった。灰色がかった不定形の塊。しかしよく見ると、ところどころに——手が、見えていた。口が、見えていた。人間のパーツが、まるで泡の中に閉じ込められるように、その塊の表面に浮かんでは沈んでいる。
複数の人間が——混ざり合っていた。
「本当に……生きているのか」
「検証部隊の報告では、生命反応はあるとのことで」
「他に何かわかったことは」
「はい」部下が報告書を開いた。
「直接確認できた証言を検証部隊がまとめたところ——相手は、黒ずくめのアサシンだったと。複数の……部位から、同様の証言が得られたと」
「アサシン!?」
「A級戦士と魔術師が、一瞬でやられたとも言っています」
「アサシンが……A級を一瞬で」
アザトースの眉が深く刻まれた。
「それから——」部下が一瞬、躊躇った。
「自分は剣聖だ、と言っている……部分が、あったと聞いています」
「何!」アザトースが振り返った。
「剣聖だと!? 剣聖は帝国内でも三人だ! いったい誰だ!」
「……グランだと言っています」
「グラン!?」
一拍。
「ではレヴィアタンか!」
「はい……しかし、それが本当かどうか不明な部分がありまして。検証班によるスキルチェッカーでは——剣聖の反応ではなく、初級魔法士と出てくるとのこと」
「……」
アザトースは黙った。
長い沈黙だった。
目の前の——かつて人間だったものを——静かに、しかし克明に見つめながら。
(これまでとは違う。まるで違う何かが、動き始めた)
その確信が、静かに胸の中で固まっていった。
「これは」アザトースはゆっくりと口を開いた。
「単なるアサシンの仕業ではない」
部下が息をのむ。
「もっと違う何かであることは間違いない。——大至急、レヴィアタンへ調査部隊を編成し向かわせろ。場合によっては、上層部に軍隊を要請する」
「は! 承知しました!」
部下が駆け出す。
アザトースは一人、その場に残った。
眼下に広がる帝都の景色を見る。整然とした街並み。完璧に管理された秩序。帝国が長年かけて積み上げてきた、盤石な支配。
その全てが——今日から、少しずつ揺らぎ始めるかもしれない。
胸の中の、小さな確信が——静かに、けれど確かに、火を灯した。
調査部隊が真実を知るまでに、一か月以上を要したという。
エピローグ・プロローグ
そして——物語は動き始める。
アビス帝国に宣戦布告をした、二人の黒ずくめ。
一人は少年——ラベル。まだ覚醒していない、何も持たない少年。
一人は聖者——ウィーク。その正体を、誰も知らない。
二人が向かうのは、南の端の小さなダンジョン。
B級ダンジョン「ブランガ」——そこから、全てが始まる。
覚醒なき少年が、音楽王になるまでの物語。
聖者の正体が、世界を揺るがすまでの物語。
音楽が、世界を変えるまでの物語。
プロローグ 了
次話予告
第1話「熱帯のダンジョン『ブランガ』——師匠と弟子の始まり」
キャラバンで旅をする少年ラベルと、謎の聖者ウィーク。
向かう先は、熱帯の精霊が宿るB級ダンジョン。
そこでラベルは初めて——師匠の戦い方を目の当たりにする。
そして一人の英雄が、召喚される。
【作者より】
お読みいただきありがとうございます。
この物語は、音楽と精霊と旅の物語です。
覚醒前の少年・ラベルが、謎の聖者・ウィークと共に旅をする中で、自分の血と音楽の力に目覚めていく——そういう物語です。
ダンジョン攻略あり、仲間との絆あり、国家間の外交あり、そして壮大な最終決戦あり。
全ての物語の核心にあるのは——音楽です。
音楽は、人と人を繋ぐ。人と精霊を繋ぐ。世界と世界を繋ぐ。
その信念を、最後まで描き切ることを目指しています。
応援していただけると、励みになります。
どうぞよろしくお願いいたします。




