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深海の星空  作者: ふあ
邂逅
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不自由 1

 近隣では進学校と名立たる、偏差値高めの高校も、午後一時の昼休みは若々しい喧騒に包まれていた。

 彼らのざわめきを完璧な他人事としながら、少女は二階の教室へ向かい、階段を上る。下りてきた誰かが、自分の苗字を呼ぶのに思わず振り向いた。

「おはよう!」

 午後一時がおはようの時間か。ぽつんと思ったが、少女は軽く声を返す。

「……おはよ」

 最低限の全く気のない返事だが、同級生の男子にはそれを気にする風などなく、友人たちと連れ立ってどこかへ駆け足で去っていく。確か、近藤という男だと、幾度も挨拶をされた後、彼女はようやくその名を記憶の隅に転がした。三年生の引退と共に、直にサッカー部の部長に就任するという予定を、クラスの女子がこそこそ騒いでいるのを聞いたことがある。まあ確かに、爽やかを絵に描いたような奴だ。決して前髪も伸びすぎていないし、押し付けがましいほど明るく挨拶をしやがる。それ以上も以下もない評価に憂鬱を引き連れて、彼女は教室の扉を開けた。


 そうしてただ宿題を提出し、午後の数時間の授業を受けてさっさと帰ろうとした彼女の目論見は、気怠く外れてしまった。

 進級して二ヶ月、教室では話しにくい悩み事を担任に打ち明ける場として、恒例の面談が設けられていることを彼女はすっかり忘れてしまっていた。出席番号順に、一日に五人ずつ放課後に職員室に呼び出される決まりで、その日の二人目が少女の番だった。

 ひたすら募る倦怠感に包まれながら、それでも、今日を逃さなくて良かったとも思った。この面談を無視すれば、問題児として親を交えた三者面談にグレードアップしてしまう。高校生にもなって、教室の窓ガラスを割ったわけでも、誰かと殴り合ったわけでもなく、不良生徒のレッテルを貼られ、母子家庭の母親を呼び出して説教をくらうなど、みっともなくて仕方がない。


 二年生になって五月も終わる時期、クラスの雰囲気はどうだとか、馴染めそうかとか、勉強はついていけるかだとか。あんたに言ってどうなるよ。放課後、職員室を訪れた少女の思考の八割には、苛々と共に、そんな口汚さが漂っていた。

「高校時代の人間関係は、一生ものになるのよ」

 残りの二割で、彼女は正面の担任教師が熱心に述べるのを聞いた。多くの教師や、訪れる生徒たちのそれぞれの声が、言葉ではなく音としてBGMの如く流れていく。特定の声など聞き取りにくくて仕方がないが、完全に無視をすればこの時間が余計に長引くことぐらい、少女には容易に想像できた。面倒くさくてたまらないが、見た目だけでも背筋を伸ばして、視線は相手に向けておく。


「私もね、この歳になって痛感するのよ。大人になってから、学生時代みたいに友達を作るのって、思ってるよりずっと大変なの。もし嫌だと思っても、毎日同じ授業を受けて、同じ行事に出て、机を並べて過ごせるっていうのは、本当に貴重なことなのよ」

 それはまるで、生徒に言い聞かせると言うよりも、自分の後悔を語っているような話しぶりだった。


 そう思い返してしまうほど、先生もつまらない人生を過ごしているんですか。そうも尋ねたくなったが、少女は笑顔さえ作らないまま、せめて「そうですね」と相づちを打つ。

「桜庭さんは、成績もいいし、賢いから。ずっと上手に想像できると思うのよ」

 想像とは何か。大人になって、高校時代を後悔する自分をか。青春を知らない今の自分を、生涯悔いて生きていく世界のことか。

「大変だとは思うけれどね」

 様々な意味を含んだ言葉に、少女は表面だけで笑って見せた。温度のない家で散々作ってきたこの表情は、苛立ちと引き替えれば簡単に姿を見せる。


 あんたも大変ですよね。聞き取りにくい担任の声に、彼女は声に出さず呟いた。かろうじて二十代の女教師は、入ったばかりの新米教師でもなく、生徒の尊敬を得るベテラン教師でもない、微妙な若さのひどく中途半端な大人だった。講釈を垂れる目の前の姿は、新人だからと大目に見られることも、いくつもの修羅場を越えた姿だとも尊敬さえ得られない、まるで足の届かないプールでもがく、泳ぎの下手な子どものようだった。


 それでも、担任としてのプライドを掲げ、サボり癖のある生徒を何とか正しい道へ導こうと、彼女なりに真面目を徹しているのはよく見えた。肩で切りそろえられた髪や、無理にくだけさせるしゃべり方はその賜であり、それこそ大変だろうと、少女は思う。

 だからこそ、大変だと言われることに、静める腹の奥が騒ごうとする。何の力にもならない無責任な言葉たちが、弱火で燃える。

「桜庭さんは、勉強がよくできるけれど。折角お金を払って通ってるんだから、もう少し授業に出なさい。この前のクラスマッチだって、途中からしか出なかったでしょう」

「すみません。朝が起きられなくて」

 嘘ではない。不眠の生き物にとって、朝は憎き存在で、たった一錠の睡眠薬が、人間として生活する一つの柱、栄養剤足り得てしまうのだ。

「勿体ないでしょう」

 成績か、授業料か、青春だのその他諸々か。主語をつけろ。国語専攻のくせに。そう毒づきながら、少女は微笑を絶やさない。


「あのね。もう少しでいいの。クラスに協力して欲しいのよ」

 これが、担任の言いたいことを全て集約させた言葉だった。もっと周りと仲良くして、毎日きちんと時間を守って授業に出て、大きな声でにこやかに挨拶をして。散々遠回りをしたが、つまりはそう言いたいのだ。

 弱火が、少しだけ火力を強める。もう少しで中火。ガス代が上乗せされていく。

「頑張ってみます」

 便利な言葉を吐いて、少女は若さの残る担任を見返した。真面目すぎる人間の中には、大げさな落胆と絶望と諦観の色が垣間見える。そうすれば、これ以上訴える気はないようだった。


 額を抑えたいのを何とか堪える相手を見て、彼女は腰を上げかける。

 担任の苛立ちが、少女には手に取るようにわかった。こうも反省の色さえなく、思い通りに行かない生徒は、果てしなく可愛くないだろう。

「桜庭さん」

 だから、彼女はなりきった。教師の望まない、可愛くないいち生徒に。

「不自由していることは、ない?」

 聞き取りにくいざわめきの中、ひどく問題を敬遠し、大人のくせに不器用で、一切の責任を放棄した台詞に、少女は誰もが見とれる笑顔を向ける。


「たくさんあります」

 言ったところで、何もできないくせに。それを口にするほど少女は愚かではなく、機嫌を伺う相手に迎合するほど気弱でもなかった。相手の食傷を全身で受け止め、軽く一礼すると颯爽とその場を立ち去った。

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