不自由 2
少女は人気者だった。それは、彼女が望まずとも得てしまうもので、名前だけが一人歩きする、至極迷惑なものだった。
すらりとした手足が伸びる、平均よりも数センチ高い痩身は、体育の時間に走っている最中には、特に鬱陶しい視線を浴びた。
走り終わり、後ろで無造作に結わえていた髪ゴムをほどき、背に黒髪を垂らす姿を、無遠慮な奴がレンズで追っていたのも彼女は知っていた。かといって、そいつのスマートフォンを叩き潰すのも面倒くさかったので、殺す、とだけ思っておいた。
女子高生らしく、周囲とつるむ真似をせず、いつも背筋を伸ばして一人で歩く彼女は、所謂孤高の美少女だった。どこか冷めた態度に、極希に見せる笑顔は周りの同級生たちよりも随分大人びていて、彼女に惹かれる男子生徒は随分と存在した。その多くは、自分などではと気後れし、声をかけることすらせず、目線だけで彼女を追った。そんな彼らは、手を出さない自分自身を無害だと信じていたが、一方で少女はいい加減にうんざりしていた。授業中、移動中、休み時間と、事あるごとに、足や胸元、横顔を舐めていく奴らの視線を感じるのだ。学年を重ねるごとに、そういった気に食わない男子の割合は増えて行き、気づいていないと本人が盲信している盗撮も、容易に見抜けるほど数を重ねた。これなら、あの近藤とかいう男どもみたいに、堂々と声をかけ、珠に面白くもない話を引っ掛けてくる連中の方が随分とマシだと思ったが、彼らも隙あらば顔を覗き込み、遠慮を知らず踏み込もうとしてくるのだ。少女にとって、同年代の男とは、そのような存在だった。
かといって、代わりに女子生徒が少女に近寄ってくることもなかった。十分に可愛らしい顔立ちをした彼女に最初こそ羨望の眼差しを向けるが、その隙のなさを知ると、次第に彼女たちも醜い侮蔑と嫉妬心を抱いた。整った顔立ちの上に、すらりとした立ち姿、見た目だけでなく成績も上位に留まり、体育も人並み以上にやり遂げる。そんな少女は、社交性を見せず、物言いもどこか冷たさを感じさせるのに、男子たちの関心を一心に捕えている。そうして、仕方がなく一人でいるのではなく、選んで一人になっている風の少女を、周囲の女子生徒の多くはいけ好かない存在だと妬んだ。だが、その態度をあからさまに晒す度胸は彼女たちにはなく、表面上はにこやかに挨拶をし、教室の後部でのみ汚れた本音を語り合った。更に陰口を叩く度胸もない幾人かは、少女がふと、次の授業は何かと問いかけただけで口ごもり、視線を泳がせて戸惑った。
そんな女子生徒たちの上辺の挨拶に、乾いた返事をしながら、少女は彼女たちが自分を見張っている事を知っていた。大きな失敗の可能性を、男子たちを失望させる失言を、繕った態度にいつか出る綻びを、躍起になって探し求める。決して対等には並ぼうとせず、僅かでもマウントをとろうとする彼女たちを、当の少女は、食料を漁るハイエナに見立てた。少女にとって、同年代の女とは、そのような存在だった。
まとわりつく全てに飽き飽きし、中火に至る炎を持て余した少女は、面白みの欠片もない教室に戻ると、机に置いた鞄に午後二時間分の教材を詰めて立ち上がった。放課一時間を迎えた教室からは、部活に明け暮れる生徒は姿を消しており、女子同士の数人ずつの塊が、二、三ヶ所に点在するだけだ。
「ねえねえ、桜庭さん」
ほんの倫理観、辛うじての妥協が、無視をしてはいけないと言ったから、少女はかけられた声のほうを向いた。
声をかけた女子生徒が正面に、その友人二名は両脇にと、彼女たちはいそいそと机を三方向から取り囲む。面倒な奴に絡まれたと、少女は無表情をぴくりとも動かさないまま、心中でため息をつく。
栗本幸子。昨年も同じクラスだった為と、出席番号が前後に並んでしまう関係と、あちこちで誰かがあだ名を呼んでいるおかげで、フルネームを覚えてしまった。さっちん、さっちん。幸子でさっちんか、随分ひねりがないなと彼女は思った。その栗本という女子生徒の両脇にいる二人の名前は、まだ覚えていない。クラスの女子AとB。分別できれば十分だろう。クラス替えの後、同級生に興味を持たない少女が、クラスメイトの名前を覚えるのは約半年かかり、顔と名前がようやく一致する頃には再びクラスは変わってしまう。栗本幸子は、それに何の不便も覚えない少女が、名前を覚えている数少ない人間だった。
だが、それに反して気分の良い記憶など、彼女は持ち得てはいなかった。
ほんの三ヶ月ほど前、二月の下旬頃だ。
少女が、自席で教科書の英文を和訳し、ノートに書き付けていると、今とは異なる友人を二人引き連れて、彼女は持ち主が席を外している正面の椅子を勝手に拝借し、馴れ馴れしく声をかけてきた。
「桜庭さん、中間結果出たんだけど、気になる?」
小顔に備わる、くりっとした目で上目遣いに見上げる彼女は、確かに小動物のような可愛らしい部類に入る。髪を留めるのでなく、何故か挟むだけの赤いピンを二本挿した、肩までのショートカットを揺らし、顔をのぞき込んでくる。
「中間って、何の」
面倒くさくとも、秩序は必要かと、少女は指からペンを離さずに顔を上げた。
「アンケート、この前取った分ね。あたし集計してるの」
にこにこと文字の見えそうな見事な作り笑いと共に言うと、栗本幸子は制服の腕から、桜色のセーターの袖を手の平まで伸ばした、不便そうな所謂萌え袖で、数枚のルーズリーフを机の上に置いた。
良くも悪くも、客観的な評価に必要以上に怯える年代で、中学校のあたりから、年度末には自己主張強めな主に女子生徒が、勝手に作ったアンケートをクラスに配り、半強制的なそれの結果で冊子を作るのが、恒例行事だった。頼まれたわけでもないのに、奴らは暇なのかと、少女はそれに否定的な意見を持っていたが、それを青春と呼んで好む生徒は多かった。
目を落としたが、今だって、大概趣味の悪い項目が多い。笑顔が素敵な人、出世しそうな人、このあたりはまだありだろう。しかし、居眠りと言えば誰某、赤点が多そうな人、これを知って、いったい誰が得をするのか。
「桜庭さんはいいよね、大人っぽくてさあ」
鬱陶しそうな袖で頬杖をつくのに、紙に目を通していた少女は、このクラスメイトがわざわざ席にまでやってきた理由を知った。
枕を並べたい人。瞬時に理解できないほど遠回しな言い方だが、これを思いついた人間は大層下品な思考の持ち主だ。その真下に、桜庭菜々という文字を見つけた少女は、顔色一つ変えずに思った。
「別に、そんなことないよ」
「あるよお。背高くて、スタイルいいし」
平均身長を数センチ下回る相手の名前は、その次の項目に見つかった。
彼女にしたい人。上から二人目の二位。
「栗本さんだって、名前載ってるじゃない」
二位というのが、如何にもリアルだな。しかし、相手は、そんな少女の心の声を気にする風などまるでない。
「でも二位だしねえ。子どもっぽいからかなあ」
「二位じゃだめなの」
「うーん。そーいうわけじゃないんだけど」
くるくると指に髪を絡ませている相手の見せない言葉が、少女には喧噪から聞き取る現実の声よりもよく聞こえた。つまり、お前はそうした目で見られてるんだ、所詮下衆な下心の的なんだ、調子に乗ってんじゃねえぞ。そんな隠すべき言葉を、この女は声高に叫んでいるのだ。
この項目を作ったのはこいつだな。投票した奴らや票数など気にならず、少女はただそう思った。桜庭菜々が人目を引く理由は、総じて動物的な観点に収束するのだと、発行後の暁にはクラス全員に知らしめるつもりだろう。
「ならいいじゃない」
「そうだけど。もう少し、この幼児体型どうにかなんないかなあ」
「さっちん、気にしすぎじゃん」
それまで立ったまま成り行きをみていた女子生徒Aが口を挟んだ。
「そうはいってもさあ、あたし、誰ともつきあったことすらないし」
「私も、一度もないよ」
「だって、桜庭さんは高嶺の花だから」
人気者の桜庭菜々に、今まで彼氏という誰かは存在しなかったという話は知れ渡っていた。これまで、言い寄られる度に相手を振ってきたという事実は、周囲の女子生徒を必要以上に刺激した。
その棘を過敏に捉えるのが、栗本幸子という女子生徒だった。
「言い過ぎだよ」
「そんなことないよ。桜庭さんなら、その気になればすぐできるんじゃん。あたしには、そんな兆候すらないしさあ」
わざとらしく口をとがらせるのに、気の毒な女子生徒Bが取り繕う。
「でも、彼女にしたいって言ってんだから、いるんじゃん、そういう奴」
「出てこないんなら、しょうがないじゃんか。あーあ、あたしも可愛くなれたらなあ、桜庭さんみたいに」
うんざりした。まだチャイムは鳴らない。こんなに昼休みを長く設定した偉い人間を、少女は恨んだ。
「さっちん、ゆるふわで可愛いじゃんか。そんなこと言ったら、うちなんてどうなるよ」
「ええー。ゆきっちだってさ、髪さらさらで、羨ましいよ」
「大してさらさらなんかじゃないし、毎朝苦労してんだからー」
「素材がいいんだよ。いーなあ、言ってもあたしじゃさあ」
ため息を堪え、少女はペンを筆入れにしまい、ルーズリーフの下敷きにされていた教科書を引き抜いた。
「いいじゃん。栗本さん、可愛いから」
そうして、栗本幸子が求める台詞を口にする。
「ほんとに? 桜庭さん、ほんとにそう思ってる」
「うん」
ルーズリーフを押し返し、教科書とノートをあわせて、軽くとんとんと机に立てる。
「そのうちさ、誰か告ってくるよ」
英語の教科書を机にしまい、次の時間に備えて国語の教科書を取り出し、異様に目を輝かせる相手に視線を合わせた。AとBの安堵が見なくても感じられる。
「桜庭さんが言うんなら、説得力あるなあ」
「それは勝手だけど。……まあ、言うならね」
ただ、全てに迎合し、流されれば、それは桜庭菜々という少女ではなかった。
「覚えておいた方がいいよ。wantとdoは違うってこと」
だから彼女は、自分の名前を守った。
瞬時に意味を理解できない三人を一瞥して、こいつらはやっぱり馬鹿なんだと彼女は思った。こんな悪趣味な集計をする間に、世界史の年表をまとめた方が余程役に立つのに、この歳になっても気づかない。
愛らしさを認めてもらえない不憫なクラスメイトが、ルーズリーフを握りつぶす音など、聞こえてしまう必要などなかった。




