母の弁当
持ってきたコップに入れた水をそれぞれ飲んだ。ジュースや紅茶といった、味のある飲み物も常備されていたが、歩き続けていた二人には、純粋な水分が必要だったのだ。
「しまった」
一息つき、バッグのチャックを閉めた少女は、再びそれを開けて中身を確認する。「どうしたの」と背中から尋ねる少年に、やっぱりないと肩を落として振り返った。
「これの電池。換えもってくるの忘れた」
左手側に座る彼に、自分の左耳をつついてみせる。肌色のおかげで見た目にはわかりにくいが、随分低下した聴力を手助けする補聴器が、彼女の左耳には鎮座している。急ぐあまり、財布とスマートフォン、充電器といった、普段持ち歩いている物しか、バッグに詰め込なかったのだ。
「電池、もう切れそうなの」
「変えたばっかだから、切れることはないと思うけど。でも勿体ないから、切っとく」
どこか不安げな彼の前で、さっさと機械を外して見せ、バッグの底に転がっていたケースを開けた。これは律儀に持ってきていたのかと、苦く笑い、電池を外した補聴器をティッシュで軽く拭いて仕舞う。壊れないで、少しだけでも保っていてくれと、無意識に願ってしまう。
「ぼくの声、聞こえる?」
「聞こえないわけじゃないよ、ただ、左耳だと聞き取り辛いってだけ」
「じゃあ、こっちにいれば、よく聞こえるかな」
狭いブースの中、彼は立ち上がり、左に寄るよう彼女に促すと、その右手側に改めて座り込んだ。ショルダーバッグを手渡し、代わりに自分の鞄を引き寄せ、満足そうな顔をする彼と彼女の、肘のぶつかる距離は、先程までより幾らか縮まっているようだ。
「ぼくも今、思い出しました。忘れてたわけじゃないけど、タイミングが分からなくって」
家にいる時間は更に短かったはずの彼が、一体何を持ってきたのかと待つ彼女が目にしたのは、大人びた群青色と、子どもらしいキャラクターの袋に包まれた二つの弁当箱だった。蝶結びされた紐を解いた弁当袋を脇に下げ、大と小の弁当箱を、テーブルのノートパソコンを押して遠ざけたスペースに置く。
「母が、早出の日があって。その日は、前の晩の作り置きとか使って、四時前から起きて家事始めてて」
「これ、お父さんと弟の分」
「ぼくは、給食だけど、二人には必要だから」
悪いことをしたと、反省に沈みかける表情をなんとか浮上させ、困ったように彼は笑う。
「早出だから、弟を保育園に連れてくの、今日はぼくのはずだったんだけど……」
みんな、困っただろうな。軽くかく頭を傾げる彼は、それでも一度息を吐く間に迷いを断ち切ると、群青色に包まれていた弁当箱を彼女の方に押して近づけた。
「保冷剤入れてたし、日光当てなかったから、大丈夫です」
「いいよ、私が女なの忘れてんの」大きな方を貰う必要はないと押し返すと、彼は更に押してくる。
「でも、年上なんだし。おなかすいたってさっき言ってたから」
「あんただって、朝から殆ど食べてないんじゃん。男ならさ、ちゃんと食べて、早く大きくなってよ。さっさと私の背抜いてくれないと、私、チビな男はやだからね」
すっかり手から力を抜いてしまった彼に、形勢逆転をばかりに弁当箱を押し付ける。そう言われたら、と口ごもる彼の様子があまりに情けないので、相談した挙句に決めたのが、二人には当然となった半分こだった。
「ここまで来たら、頭おかしいよ」
長い一本と短い一本を組み合わせた箸を右手に握り、動かしてみせる彼女と、同じように左手の箸を開いて閉じる彼は、顔を見合わせてくすくすと笑う。
歪な組み合わせの箸を向ける先には、海苔を巻かれたおにぎり、綺麗に巻かれた卵焼き、ケチャップの絡んだ小さなハンバーグに、甘く煮絡めた人参といったおかずが彩りよく並んでいる。並べた大小の弁当箱から、一つずつ、同じ数だけおかずをつまみ、二人は空っぽの胃を満たす。
「おいもの天ぷらとか、ないんだ」
不意に箸を止めて呟いた彼女を、彼は訝しげに見やった。
「弁当に入れたら、湿気てぐしゃぐしゃになっちゃうよ」
「そうだよね。普通は入れないよね」
ほら、こう言ってるよ。心の奥で、少女は両親に告げた。やっぱりさ、うちだけだったんだよ。
「美味しいね、お弁当」
美味しくないはずがない、人が人を想って作るもの、その健康を願って詰めた弁当だ、誰が食べても美味しいと口にするに決まっている。だがこれは、際立っていると彼女は思った。こんな美味しいものを、毎日口に出来る彼の家族を羨ましくさえ感じる。
「弁当なんて、久しぶりだけど」卵を咀嚼して飲み込んだ彼も、大きく頷いた。「やっぱり、美味しいです」
互いに箸を伸ばす左手と右手がぶつかった。普段、彼女の左側にいる彼が、極力衝突を避けているおかげで、滅多にないことだった。ふふっと彼女が笑うと、彼も前髪の向こうで、目を細めて可笑しそうに笑う。声が大きくなりすぎないよう、けれど無表情では耐えられない幸せに、ふたりは寄り添って笑いあった。




