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深海の星空  作者: ふあ
宣戦布告
56/63

海の底から

 腹がくちると、少女はパソコンのスイッチをいれ、インターネットを立ち上げた。画面右下のデジタル時計は午後の六時を過ぎている。先ほど水を求めて廊下に出てみたが、一階で本棚の間を彷徨う大学生風の青年とすれ違ったのみで、ほかの客はブースに引きこもっているのか、そもそも客数も増えてはいないのか、静けさは夕刻同様に保たれていた。


 何よりもと、これからのことを話し合った。相手を上手く撒けたのなら、今は今後の話をしなければならない。

「私の学校、基本バイト禁止だったから考えたりしなかったけど」

「高校生なのに」

「一応進学校だって名乗ってるからさ、よっぽど理由がないと出来ないし、それより勉強しろって。だから、中学生のくせに、バイトなんかしてるあんたが珍しかったのよ」

「まあ、学校でも、他に見たことないです」

「だろうね」


 だから、漫画みたいだと初めに思ったんだ。随分変わったなと、彼女は半年前のことを思い出した。目を伏せたままの少年は、ちっとも笑わなかったし、自分も深海魚の名前なんて一つも覚えていなかった。隣にいて安心できる相手が現れるだなんて、これっぽちも思っていなかったんだ。

 笑顔も、泣き顔さえも。滅多にない怒りや、相手の不幸を悲しむ哀愁、もどかしい戸惑い、困りきった苦笑いなど、当時では考えられなかった数の表情を見せる彼の傍にいると、神経を張り詰めて周りの声を無視する心が柔らかくなるのを感じる。今は、すぐに触れられる場所で、変わらず伸びた前髪に隠れる瞳にパソコンの明かりを映し、彼は画面を興味深そうに眺めている。


 スクロールバーを下方に繰りながら、「高校生 アルバイト」の検索結果を彼女も一つずつ目で追っていく。

「なんか、高校生だと色々あるね」

「あなたなら、賢いから、何でも出来ますよ」

「成績の良さと、社会でやっていく賢さって、違うみたいだけど」

「それでも、計算が早くて困ることは、きっとないですよ」

「でも、接客とか無理だわ。変な客来たらブチ切れる自信しかない」

 コンビニ店員の募集を見て、彼女はひらひらと片手を振った。客として訪れても、珠にわからず屋の客の対応へ苦労している店員を見かけるのに、その当事者になるなど、とんでもない苦行に思えた。それなら、表に出ない仕事を探してその分苦労をする方がいい。


「意外と我慢強いから、大丈夫だと思うけど……」

「意外ってなんだマセガキ」

 思わず本音を漏らした彼の頬をつまんでやると、痛いと情けない顔を見せる。

「それより、私は何だっていいけどさ。あんたはどうすんの。中学生って、普通バイトできないじゃん」

「……新聞配達は許されてるんですよ。健全だから」

「健全ね。まあ確かに」

 ぐっと、少女は少年に顔を近づけ、彼の顔を覗き込む。ぎょっとして目を見開き、咄嗟に視線を泳がせてしまう彼を見て、ううんと首を傾げた。

「配達が見つかんなくても、あと半年ぐらい、誤魔化せるんじゃない。履歴書も嘘書きまくれば。住所とか親の名前とか、嘘ついたって分かるもんじゃないでしょ」

 彼の容姿は、どう見ても年相応だ。それなら、あと半年分ぐらい、子どもっぽい高校生だと言えば相手を騙せるかもしれない。問題は、正直者の彼が嘘をつき通せるかどうかにかかっているが。


 様々なアルバイト情報を口にし、これは合うか合わないかと勝手な憶測を語り合っていると、不思議なことに、本当にそれが上手くいく気がしてくる。隣同士、いつだって傍にいれば、これ以上の悪いことなど起きやしない、耐えられないわけがないのだと。

「保証人って、そんなに重要なのかな」検索結果を眺めながら彼女は腕を組む。「そんなのがいれば、苦労なんてしないってのに」

「どこか、住み込みってあれば、ちょうどいいんですけど」

「でも、そしたら一緒にいられないよね。ならさ、どっちかに、こっそり忍び込んでやろうか」


 無茶を言うと笑いながら、彼は困った風に首を傾げる。彼にとっても、彼女と離れ離れになるのは本意ではないのだ。見知らぬ土地まで来た挙句に、働くだけ働いて、彼女が無事でいるかと不安に苛まれる日々を送るのは、本来の目的から外れている。

「生きにくい世間だよ、ほんとに。お金があってもなくても、未成年なら部屋一つ借りることだってできないんだから」


 様々な条件にため息をつく彼女は、画面に散らばる様々な情報の中から使えそうなものを拾っては口にする。

「結婚してたら、少しは条件軽くなるんだって」

 だが、予想外の言葉に、彼は目を丸くし、台詞の意味に戸惑っては、結んだ口元、頬のあたりを赤くしてしまう。

「ほんっと、すぐに照れんだね。赤くなっちゃって。女の子か」

「別に、照れてなんかないし……」隠すようにこぶしで頬のあたりを擦る。「あなたこそ、よく平気で言えますね」

「あんたがガキんちょなだけ。私はもう、許される歳だし」

 なのにさ、と前で腕を組み、彼女は倒した体をテーブルにもたせかけると、どこか大人びた、余裕に満ちた表情で彼を見上げた。

「そっちはまだ、三年もいるんだよね。長いよ、三年って。中学入りたてが、卒業するまであるんだからさ」

「仕方ないですよ。十八なんて、今のあなたより年上ですよ。ぼく、二か月前に誕生日来たばかりなのに」

 僅かに膨らんだ頬をつつくと、口を尖らせる十五の少年は堪えきれずに、ふふっと笑い声をこぼした。あはは、と彼女が笑うと、首を傾け、前髪を流し、鏡の様に同じ表情で笑った。


 どこで働くにも暮らすにしても、この少年と話し合い、想像する将来の話は楽しかった。これまで彼女にとって、未来の話とは、大嫌いで嫌悪すべき憎たらしいものだったが、二人で話すことは、まるで幼い子どものようにわくわくと胸が高鳴った。

 ひとりじゃないと思えた。怖いぐらいに幸せだった。これがずっと、永遠に続くものだと、永遠などないと知っている彼女は、心の底から奇跡として信じた。




 いつの間にか、少女は眠ってしまっていた。掘り炬燵から出した足を曲げ、胎児のように小さく丸めた体には、知らないうちにブランケットが掛けられている。これほどよく眠ることができたのは、いつぶりだろうか。電車に乗っている時もそうだった、彼が隣に居ると、知らず知らずのうちに、体も頭も、不眠を忘れ、安心に満ち満ちて深く眠り込んでしまう。


 ほんのりとした温みを感じながら、床のマットに転がったままでぼんやりと視線を向ける先、変わらず傍にいる少年は、背筋を伸ばし、何かを書いている様子だった。電源を落としたパソコンは奥へしまい込まれ、スタンドの明かりに彼の横顔が照らされている。その左手に握るのは細く短いボールペン、手元に広げているのは、大切にしている黒い手帳。残り少ない手帳のページに何を書き込んでいるのかは、下から眺めているおかげで見やることはできない。幾文字か書いては考え、考えてはペンを走らせる。


 真剣に文字へ向き合う横顔。彼はその横顔で、今まで何を見てきたのだろう。

 じっと、少女は少年を見つめる。


 彼はこれまで、その真っ直ぐな瞳で、どんな辛さを背負って、明けない夜空を、暗い海の底から見上げていたのだろう。


 しかし、その心をどれほど知りたいと願っても、知ることなどできない。違う人間である以上、例え同じ海底に潜っていたとしても、同じ景色を見上げていたとしても、瞳に映る光景まで重ねることなどできないのだ。それでも、それはきっと、不幸な事ではない。違う人間であるからこそ、出会うことが出来たのだ。


 彼の手が止まった。ぱらぱらと紙のめくれる音と共に、ページが後ろから前へ繰られていく。

 スタンドに照らされる瞳が、濡れているように見えるのは、光の加減なのか。

 ふと、彼はこちらを振り返った。


「ごめん、眩しかった?」

 そんなことないと首を振る彼女に、優しく笑いかける彼は、泣いてなどいなかった。

「私、どれだけ寝てた」

「そんなに長くないよ。一時間くらい」

「あんたは眠くないの」身を起こすと、はらりとブランケットが身体から滑り落ちる。

 眠たく目を擦り、テーブルの上に置いてあるコップを手に取ると中身を飲み干す。冷たいとは言い難い、ぬるい水だったが、眠っていた体の細胞一つ一つに染み込んでいくようだった。

「うん。電車で寝られたからかな。座ってるだけでも休めたし、大丈夫」

「何してたの」

「見直してただけだよ」

 一度閉じた手帳を開き、中の数ページをめくってみせた。配達のシフト表が貼り付けられ、学校の時間割が書き付けられているページで、彼は、はたと手を止める。


「もう、いらないかなって。破って捨てちゃおうか考えてた」

 目元まで上手に笑えていない彼は、哀愁を湛える口元で笑う。同じ中学に通うことも、専売所に赴き、早朝からあの街で新聞を配ることも、二度とない。それならば、と彼は考えたに違いないのだ。


「おいときなよ。捨てる理由なんてないじゃない」

 だが、彼が歩んできた道のりの全てを綴ったのが、肌身離さず持ち運ぶ、一冊の手帳なのだと彼女には思える。

 毎日通い続ける学校で、酷い言葉を投げつけられる苦しみも、決して楽ではない配達で、打たれる早朝の雨の冷たさも、これまで積み重ねてきた毎日が、詰め込まれているのがその手帳。同級生がまだ眠る明け方、一人働く坂の上から眺める日の出の美しさ、心の震える光景こそ、捨ててはいけないものだ。例えそれが、紙切れ一枚の思い出であっても、彼の心の底に、永遠に忘れずに深く刻まれていたとしても、わざわざ、思い立って破り捨てる必要性など、彼女には見つけられなかった。


 「それもそうだね」父親から貰った大切な手帳を見つめる彼は、その通りだと頷くと、ぱたりと開いたページを閉じる。普段の彼なら決して、大事な手帳を破ろうなどとは思わない。恐らく、さざめく心は詰め込めきれない不安の象徴なのだろうと、その手に軽く手を重ね、これでいいんだよと、彼女は頷いてみせた。

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