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深海の星空  作者: ふあ
ノンフィクション
53/63

逃亡の朝 3

 朝靄の中から、長い影を引き連れてやってくる列車の姿はどこか幻想的だった。幻想など抱いちゃいられないと、大半の仕事人が重い足を引きずり、非日常を謳歌するのだと、スーツケースやリュックサックを背負った少人数の旅行者が足取り軽く乗り込んでいく。どちらにも染まれない、灰色の少年と少女も、時間ぴったりにやって来た電車へと足早に向かった。


 進行方向向きに座るサラリーマンから離れ、車両反対側の二人掛けの座席に並んで座ると、幾分も待たせずにドアが閉まり、列車が再び走り始めるのに、二人は安堵のため息をついた。こちらを気にする誰かの姿は見られず、目が合うのは、天井の中吊り広告に住む、車内美化を訴えるキャラクターのみで、ようやく窓際の少女は深く背もたれに背を預けた。隣では、あまりに時間がなく、荷物の選別など出来なかったと言う少年が、通学用の肩掛け鞄を、両足と座席の間に置き直している。


 窓の外を流れる風景は、見る間に、人の足では不可能な速度に達し、まだまだ大通りには少ない自家用車を凌いでいく。一定に刻まれるリズムと、極めて小さな振動を感じながら、彼女は頬杖をついた窓辺からビルやマンションの建ち並ぶ景色を見つめた。


 向こうに見える緑は、街で一番大きな公園だ。併走する銀色は、小学生の頃、遠足で土手を歩いた川の水。あそこで背を伸ばす、一際高いビルは、確か九階と十階のフロアが全て本屋になっていて、絵本から専門書、高校の教科書まで何でも揃えている。


 見れば見るほど、眺める間に、様々な記憶にくすぐられ、今とは違う時間や天候の下にある光景が窓の外に浮かぶ。

 だが不思議と、故郷の懐旧だったり、ふるさとという単語は、そこには相応しくないと思えた。確かにここは、帰ってくるべき場所。両親と過ごした毎日が存在する街並みのはず。それでも、戻りたいとか、また朝焼けをこの街で見たいだとかは思わない。


 幼い頃、まだ記憶もない頃にこの街に自分が引っ越し、それから十余年。父親が生きていた時から同じ家に住み続けていたことを、知っている。当時のそんな記憶には色が付いていて、鮮やかで、いつだって懐かしくて、優しく触れたいものであるのに違いはないのに。いくつかの嫌な思い出が、この街ごと、モノクロに染めてしまったのだろうか。色を奪い、帰ってきたいと思える故郷でさえ、奪っていったのか。


 それでもいいやと、彼女は窓枠から肘を落とした。いつか、また戻りたいと思える日が来るかもしれない。その時に、じっくりと感傷に浸ればいい。

 少しすると、アナウンスと共に段々と電車の速度が落ち始め、客の顔を入れ替えると再度電車は走り出す。明け方の五時半。ふたりが出会ういつもの時刻では、乗り込む乗客の数もまだ少なく、この車両の人口密度は変わらない。


「各駅より、特急の方が、よかったですね」ごめんなさいと、同じように窓の外へ視線をやっていた少年がすまなさそうに言うのに、少々驚きを秘めて彼女は振り向く。

「なんで謝るの」

 むしろ、果てしなく我が儘と言っているのはこっちだと、彼女が疑問を抱くほどに、彼は彼女が知らないほどに優しかった。

「早い方がいいって言ったのは、私だよ」

「でも、特急は調べなかったから……」

「そんなに変わんないよ、きっと」

 彼が手帳に時刻表を書き付けていた理由は、今では楽に推測できる。おそらく彼は、何があろうとも、特急の速度でこの街を去るつもりはなかったのだ。得意の早起きを駆使しても、鈍行の各駅停車の列車で十分なはずだった。

「……ほら」

 彼とは反対側、左手側に置いていたショルダーバッグから取り出したスマートフォンで、特急電車の始発時刻を調べ、彼に突き出した。「鈍行でも、こっちの方が、ずっと早いんだし。電車の速度より、朝の早さの方が大事だったんだからさ」そう言われ、彼はようやく安心したように力を抜いた。


「それにさ、特急って高いじゃん」

 学生の身として決して避けられない問題に少女は肩を竦めてみせる。

「交通費って、仕方ないから払うけど、結構どこ行くにもかかるんだよね」あの日、行き先を海岸に決めた理由の一つを彼女は思い出す。「私、お金持ってないよ。お母さんの財布から、ちょっと盗んできただけ」

「お金、持ってるから大丈夫ですよ」

「嘘つけ。新聞配達なんて儲かるわけないじゃん」


 彼女の軽口に笑いながら、屈んで鞄から二つ折りの財布を取り出すと、先程切符を買う時に見せたばかりのそれを、彼は彼女に差し出した。

「持っててください」彼女の手にあるスマートフォンから下がるものとお揃いの鈴が、チャックに結ばれた組み紐の先でちりんと鳴る。

「こう見えて、ぼく、お金の管理下手なんです。家計簿つけられる人なんて、本当に尊敬する」

「女々しいから、つけてるように見えるけどね」

「そういうとこなんだ」

 馬鹿にした台詞も、今やさっさと去なし、冗談ではないのだと、財布を持った手をもう一度動かす。冗談だろと手を出しかけていた彼女の右手に、それを握らせると、これでいいんだと頷いた。


「私だって、家計簿なんかつけてないよ。八十円使った日のかけ算しかしてないし」

「それでも、ぼくよりずっと頭いいんだから」

「あんたの偏差値知らないけど」

「全校最下位ですよ」

「全校? 嘘つけ」

「嘘です」

 このやろう、と彼の頬をつねろうとし、それが出来ない右手を少女は見下ろした。それなりに厚みがあり、重くはなくとも、決して軽すぎはしない。それだけで、毎朝積み上げ乗り越えた、努力や寂しさや、孤独の塊を、彼は全て詰め込んでやってきたのだと彼女は悟った。

「持っとくだけだよ。年下の貯金使っちゃうとか、最低じゃん、私」

 それでもと、嘘をついたばかりの少年は財布を取り返そうとはしない。彼女が決して、自分を失望させる不義理な真似などしないと、信じるが故の、柔らかな表情。


 彼の想いへ対する嬉しさに、緩みそうになる頬を誤魔化すため、彼女は身体ごと背を向け、預かった財布をバッグにしまった。はみ出た組み紐を中に滑りこませると、女の子らしい微笑を消して、年上らしいいつもの表情を取り戻し、ひとつ思いついたことを、彼に教えた。

「もし危なくなってもさ。お金がなくって」

 仕方のないそんな状況は、最悪の場合ではないと、彼女は思う。最悪は、もっとずっと、悪いところにある。

「私、よく稼げる方法知ってるから。大丈夫だよ、何とかなる」


 彼は、残る幼さのおかげで、咄嗟には意味を理解できなかったらしい。

 だが、彼女の思う仕方のない状況は、彼の思う、最悪の一つだった。精悍な少女の瞳を見ている間に、言いたいことを理解した少年は、眉間に皺を寄せ、うっかりブラックのコーヒーや、炭酸飲料を口にしてしまったときとは、桁違いの心外さを表情に写した。

「絶対にさせない」

 彼女が心を壊し、天井を見つめて数を数える状況は、彼にとっての最悪だった。

「そうなる前に、ぼくが何とかする」

「根拠ゼロじゃん。男なんて、限界があるよ」

「限界は、ぼくが決めます。あなたはもっと、自分を大事にしてください」

 そう言う彼の台詞や瞳には、一点の曇りも躊躇いもない。素直で一生懸命な少年が、他人を傷つける嘘など決してつかないと知っているから、彼女は隠せない表情で嬉しさを見せてしまう。自分を大事にして、こうした自分勝手を今まさに突き通しているのに、彼はまだ、乗り込んだ電車でこんなことを言ってくれる。


 互いの優しさに触れ合ったおかげか、疲れたふたりは並ぶ相手にもたれかかり、手を重ねた。それぞれ、少年は左手を、少女は右手を。二つに折っても、決して重なり合わないシンメトリーで、強く固く手を握りしめ、愛しい人の体温を感じる。

 重い瞼を何とか持ち上げる車内の風景、六時を超え、行き来する人々に、見覚えのある制服の色を瞳に映しながら、彼女は目を閉じた。隣にいる彼となら、きっと全てが上手くいく。上手とは言えずとも、寒さや空腹といった、生活をする上の辛苦など、越えられないはずがない。おそらく、楽しいことがある。今まで知らなかったことが、きっと、そこにある。そうして、信じられる。

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