彼の真実
「叔父さんて、どんな人」
テーブルに転がるビニール袋に突っ込まれたペットボトルの麦茶で、それぞれ乾いた喉を潤すと、立ち上がって背を伸ばす少女に少年が問いかけた。テーブルの上で、キャップの閉まったボトルの中身が、置かれた名残で軽く揺れている。
「見たことなかったっけ」
「ぼくは隠れてたから、はっきりとは見たことない」
一度目は、ヘッドライトが眩しすぎたし、二度目は自動販売機の影に隠れっぱなしだったからと、彼は、彼女がしょっちゅう愚痴を口にする叔父の顔を知らないと言う。
「そっか。顔わかんないと駄目だよね。もし手違いでもあったら、笑い事じゃ済まないし」
ちょっと待ってと、鞄から取り出したスマートフォンでアルバムを探るが、元々写真を撮る習慣のない少女に、嫌悪すべき人間の写真が収まっているはずがない。左手を軽く腰に当て、片手で操作しながら、仕方ないと、親指で文字を打ち込む。
「ほんっとにクズだよ。前科持ちなんだ」
「前科って。捕まったの」
「そう」
「どうして」
「性犯罪」
彼のため息が、再犯への呆れか、それを超えた感嘆か、どちらを示しているのか、画面を見つめる少女にはわからない。
当時の事件について検索をかければ、今の時代、一度流れた犯罪者の顔写真など容易に見つけられると、彼女はほんの数分も待たせず、彼に画面を向けた。
「ちょっと画質悪いし、だいぶ前だけど、間違いないよ」
十六年も前の姿だが、しっかりと間違えようのない顔かたちは残っている。ただ、粗さの目立つ顔写真に、彼も立ち上がり、彼女に向き合うと、スマートフォンに片手を添えて顔を確認する。
「悪そうでしょ」
これで人違いの目には合わないだろうと、ふざけた口調で言い放った彼女は、彼の様子に首を傾げた。もういい時分なのに、片手から力を抜かず、目を見開いて画面を凝視している。前髪に隠れる瞳が揺れている。いつの間にか、血の気の引いた真っ青な顔色をしている。
ようやく手を離し、彼女に機器を戻した彼は、大きく瞼を開いたまま、震える唇を喘ぐように動かした。
「この人、なんて名前……」
見覚えでもあったのか。少女が記憶に留めてしまった、大嫌いな人間の名前を教えると、彼は絶望に表情を歪めた。頬を引きつらせ、乾いた変な声を漏らす様子は、すっかり憔悴してしまい、信じられないと、信じたくないと声なく叫ぶ。掠れた呼吸音ですら聞こえてしまいそうなほど、空気を吸うことさえ苦しげに見える。
そうして彼が振り絞る言葉は、彼女自身も絶望を覚える、信じたくないものだった。
「この人、ぼくの、父親だ……」
そんなの、嘘だ。
そんな言葉を咄嗟に放てない。理解が少しも追いつかない。
「ぼくの母親、レイプされたんだ……。それで、生まれてしまったのが、ぼくなんだよ」
わなわなと震える唇で、彼が小さく、ごめんなさいと呟いた理由が、彼女にはちっともわからない。真っ青な顔に持つ、深海の瞳まで波立って揺れている。
「なに、いってんの、いきなり……。そんな、そんなの、叔父さんが、犯人だって言うの」
失望にがっくりと肩を落とし、思い出したくない全てを思い出してしまった少年は、力なく頷いた。
「うそ、嘘でしょ、そんなの、冗談、でしょ。そんな……そんな偶然、あるわけない……」
これが漫画なら、事実無根の小説、まるきりのフィクションならば、どんなによかっただろう。今すぐにでも、彼に嘘だといって欲しいと、動転する気持ちで彼女は願った。酷すぎる冗談だと笑って欲しい。それならば、彼を一度殴って、笑って許して、終わることのできる話なのに。
「人違いよ、そんなの、流石に。名前なんて、珍しくもないし、そんなこと……。大体、レイプってなに、そんなの、聞いてない」
「言ってないから、当たり前だよ……」
彼の言葉は、潰れ収束し、消え入ってしまう。彼女と関わるに当たって、それ程に惨たらしい事件を持ち出す必要など、あるはずがなかったのだ。
顔を引きつらせる彼は、震える指先を制服のズボンのポケットに伸ばし、いつもの黒い手帳を取り出した。大事に、決してなくさないようにと、名前まで書いて大切にしているそれを両手で開き、革のカバーをめくる。育ての父親から貰った、使い続ける大事な手帳がぱさりと音を立てて床に落ちてしまったが、それに構う様子もなく、カバーとの間に入れていた一枚の紙を引き出した。ぶるぶると、もう指先まで震わせながら、挟んでいる新聞のスクラップは、先ほど少女が見せたものと全く同じ男の顔写真。
十六年前の、事件の詳細と、犯人の男の写真と名前が乗せられた、手のひらに収まるほどの記事だった。地方に住む、当時十九歳の女子大学生を、二十七歳の見知らぬ男が強姦したという、痛ましい事件だった。刃物で被害者を脅し、最後には財布から金まで奪って逃走したという、許しがたい事実が記載されている。
「ぼくは、覚えてるんだ。忘れられないんだ。忘れちゃ駄目なんだ……!」
十一年前、まだ幼かった少年に、母は言った。タンスの引き出しの奥から一枚の新聞の切り抜きを取り出して見せた。まだ四つだった彼には、いくつかの平仮名を音として読み取ることが出来るのみで、飛び飛びでも理解することなど不可能だったが、文字の脇にある写真だけ、怖そうな人だと理解した。時折訪れては、母と長い時間話をして、よく自分も構って遊んでくれる男の人とは、全然違う人だと彼は思った。
顔を上げると、母は目に涙を浮かべていたが、その理由さえ彼には分からなかった。だが、尋ねる言葉を考えている内に、みるみる母は嗚咽を漏らして涙を零し始め、強く抱きしめてくれる腕は細かく震えていた。
「広樹だけは、お母さんの気持ち、わかるよね。あなただけは絶対に、忘れないでね……。お母さんは、忘れられないから、お願いだから、一緒に……」
母が目を真っ赤に腫らして泣いてしまう理由は分からなかったが、母を苦しめ、泣かせる理由が、この紙の中の人物だと少年は理解した。だから、手にした白黒の写真を見つめ、名前の文字の形を覚え、決して忘れぬよう、その後も幾度か、仕舞われたスクラップを取り出しては、覚え込むことを繰り返した。
息子を抱きしめた翌日、母親は、現在の少年の父親と籍を入れた。そうして、苗字が変わった。ひと部屋だけ多い、離れた団地に引っ越した。
母は、耐えられなかったのだ。あの時、その瞬間、誰よりも傍にいたのは、味方となり得るのは、少年だけだった。この世でただひとり、母の傷をともに背負うことができるのは、自分だけだと少年は心に決め、思いを悟った。母親は、共に地獄にいて欲しかったのだ、たった一人では耐えられなかったのだ。
だから、忘れてはならないと、決して忘れなかった。やがて数年が経ち、一人で向かった図書館で、当時の新聞を探し当て、自分の存在理由を切り取ると、母の苦しみを分かち合えるよう、肌身離さず持ち歩いていた。
だから間違いない。この男は、自分の父親だ。
叫ぶように訴える彼の瞳から、ぼろぼろと涙が溢れだした。
「ぼくの半分は、この人なんだ。あなたを傷つけて汚した犯人は、半分がぼくなんだ……!」
彼女の前で、これまで泣きそうな顔はすれど、彼は一滴足りとも、涙を流したことはなかった。濡れた瞳を見せても、そこから溢れる雫の姿を、彼女の目に映したことは、出会ってから一度もなかったのだ。
そんな少年は、今となっては、止まらない大粒の涙を両目から流し、それを拭う仕草さえできないままでいる。ぼたぼたと、流れる涙は頬を伝い、制服を濡らし、無機質な床に注がれていく。
「ぼくが、あなたを……あなたを、汚したんだ。何も知らないままで、ぼくはあなたに、好きだなんて言った。同じだよ、ぼくも、この人と同じなんだ」
「そんなわけない……あんたが、おじさんと同じなわけない!」彼の悲痛な叫びに、彼女も声を大きくして、必死に否定する。
「だけど! 忘れたりなんてできない、この人は、ぼくの父親だ! ぼくを作った人間だ! 同じ血が流れてるんだ! ぼくは……ぼくが……!」
遂に立っていられなくなった彼は、力なく膝をつき、泣き崩れてしまった。跪き、懸命に泣き声を殺し、それでも背を震わせ、呻くようにしゃくり上げる隙間で、彼はごめんなさいと幾度も謝り続ける。耐えない涙を流し続け、罪のない少年は、ごめんなさい、ごめんなさいと懺悔する。
彼は、決して望まれて生まれた子どもではなかった。生んでしまった母親の情けによって、この世に生かされていた。そんな孤独な少年は、それでも今はひたすら、涙を流して謝り続ける。
せめて、謝罪という名の自傷行為を止めさせようと、深く項垂れる彼の前に彼女も膝をつき、彼の摩耗したぼろぼろの心に届くよう、懸命に心を振り絞った。
「あんたが言ってくれたんだよ、私は私だって。何があっても変わらないって。あんたが言ったんじゃない。私は、その言葉が、嬉しかったんだよ。本当に、泣きたいぐらい、嬉しくって、今だって、ほんとに……」
どんな罪があろうとも、その人がその人である限り、自分の心は変わらないと、彼は一ノ瀬広樹という人間を表す優しい言葉を、嘗て彼女に訴えた。その声は、彼女の心に深く刻まれた傷へ、決して傷めないよう優しく触れ、滲む涙を拭っていったのだ。
だから自分も変わらないと、喉を震わせる彼女の頬を、涙が伝った。
顔を突き合わせ、ふたりの少年少女は、互いに跪いて泣きじゃくる。若すぎる歳にそぐわない、深すぎる傷から血を流し、致死量に達するそれを必死に塞ぎあっては、止まらない血流を嘆き続ける。
「でも、それでも……だから、ぼくは、殺せないよ……。ぼくの体の、半分だから、できないよ……憎いのに、あなたを傷つけて、苦しませる人間が、こんなにも憎いのに……!」
肩を震わせ、涙声を振り絞る優しい彼にとって、ここまで誰かを憎むのは、初めてのことだった。それ程に憎らしい相手であっても、傷つけられず、刃を向けられないことが、心を抉っては傷を深める。止まらない涙が流れる、くしゃくしゃに歪めた顔で、彼女の顔を仰ぎ、彼は悲しいと言った。大好きな彼女が、目の前で苦しみ、自分と同じ血を持つ人間が汚していくのに、耐えられないと言っては泣く。
「ぼくは、あなたが好きなのに」
少女は、少年を抱きしめた。縋るように彼は彼女に抱きつき、彼女は彼に縋って抱きしめる。温かで、愛しくて、何があろうと離れたくない相手を、確かに両腕に感じながら、離さないようにと、手を繋ぎ合う。
それでも、少年は選ばなければならない。
「ごめんね」
涙の粒が幾分小さくなり、それでも細いそれを頬に伝わらせる彼が上げた顔に、同じように雫の流れる顔を見せ、彼女は儚く笑う。
「ごめん、変なこと言って。私は大丈夫、ちょっと魔が差しただけなんだ。こんなの、きっと最初っから決まってたのよ。いつかはこうなるって、私だって気づいてたんだから。覚悟ぐらい、できてるよ」
それでも、そんな言葉を信じて甘える無責任さなど、彼は持ち合わせてはいない。
少年は、少女の言葉に涙を止め、唇を噛み締め、決意を固めた。
「一緒に、逃げよう」




