最善の殺しかた
ふうと長くため息をつき、少女は背もたれに深く身をあずけながら、もうじき夜の十一時を示す時計を見上げた。照度の変わらない部屋の中では、時間の感覚がすっかり狂ってしまう。その様子に、少年も腰をかけ直し、天井付近に視線をやる彼女に、流れるように問いかけた。今日は暑いね、そんな言葉が続きそうなほど、滑らかに。
「殺すって、どうするの」
「どうしようか。時間がないからね。穏便に、理科室から劇薬盗んで毒殺なんて、準備できないし。車で轢き殺してみるにしても、運転の仕方とかよくわかんないし」
「時間がないって」
「タイムリミットよ」
人を殺すにしても、簡単にはいかないもんだと、彼女は片頬を上げてみせる。その上、失敗できない今回には、時間制限が既に設けられていた。その時は、今も刻一刻と正しく、均等に迫ってきている。
「明日迎えに来るってさ。学校も辞めて、一緒に暮らそうとかほざいてたけど、つまり、そういうことよ。お母さんは、上手く言いくるめられるだろうし。あの人に嫌われたくないんだから」
だから彼を振るのなら、今日が限界だったのだと、少女は言った。
何も言わず、知らせなければ、すっかり家から彼女が姿を消してしまったことを知らず、彼は後半年間、答えを得られない不安を募らせたまま新聞を届けなければならなくなる。その寂しい姿を思うと、どうしても、彼には別れを告げ、離れねばいけないと、少女は考えたのだ。ただ、自分たちの家の問題に巻き込まない為にと、普段見せない優しさを存分に出してやったのに、こいつはそれさえも許してくれなかった。本当に、もの好きで、お人好しで、臆病なくせにちっとも揺らいでくれないんだと、少女は幸福を噛み締める。
「やっぱり、直接やるしかないのかな」
「多分ね」
「家とか、分からないの。そこに行って、上手くいくチャンスを探せば」
「まあ、そりゃあ、変わってなければ知ってるけど。けどね、さっき言ったでしょ、叔父さん以外に三人もいた。あの時も車に乗ってたし、多分、あいつらの誰かの車だよ」
三人を強調し、彼女は人差し指から薬指までの三本指を立てて軽く振ってみせる。
「碌でなしどもだからさ、当日だし、集まって家に入り浸ってる可能性大ね。そこにわざわざ行くなんて、まさに飛んで火に入るってやつじゃない」
「不意打ちでも、やっぱり敵わないかな」
「おっさん四人よ。私はもうやられてるからしってるけど、怖いぐらい身体でかいし、力も強かった。骨折られるかと思った。だから私は勝てないし、あんただって、まだこんなに細いじゃん」彼の腕を取り、軽く振ってみせる。「せいぜい中三のガキんちょなんだからさ。二人合わせても、大人一人分になるかも分からない。もし叔父さん一人だったとしてもさ、一か八かで失敗したら全部終わり。なんにもしないより、ずっとひどい終わり方」
「……」
手を離され、彼女の正論に、彼は悔しげに項垂れて黙ってしまった。膝に垂らした両腕を見つめ、どんな意気込みがあれど、敵いはしない時の残酷さに、どうしようもない無力さを感じて打ちひしがれてしまう。「こんな終わり、あんまりだ」ぽつりと床に落とした言葉は、はっきりと形をとって転がった。
「ひとつだけ」
「ひとつだけ……?」
そう、と彼女は頷き、たった一つ思いついた、人を上手に殺す方法を口にした。
「最後の最後。本当のぎりっぎり。明日の夜、うちに来るじゃん、叔父さん。その時に、やっちゃうの」
決して聞き逃さないよう、真剣に向き合う彼に、彼女も真っ直ぐに顔を向けた。重すぎず、だが、決していつものように冗談で茶化す空気など持たず、彼の前髪を透かして瞳を見つめる。
「多分ね、敷地に入るのは、叔父さん一人だよ。全員で入ってくる必要ないし。その時さ、私、二階で寝たふりしてるから。お母さんには、具合が悪いとか何とか言って。だけど、あの人が私の部屋まで呼びに来るの、お母さんは拒否しない、反感買うの嫌だから」
菜々ちゃんに用事があると、どうでもよい理由をつけて、叔父は母が呼んでも出てこない彼女を、自ら迎えに来るだろう。それに例え不審感を抱こうとも、少女の母親がそれを嫌がり、追い返すはずがないのだ。
「それで、私の部屋まで来るじゃん、叔父さん。その時ね、あんたに刺して欲しいの」
「ぼくが……」いよいよ自分の出番が来たことに、彼は続きを言えない声を零した。
「あの人、脳みそ猿未満だからさ、私がベッドに転がって、弱々しくしてたら、ちょっとぐらい手出してくるよ、クズだから。お母さんにバレなきゃさ、そんぐらいする。それで近寄ってきたとき、私が刺してもいいんだけど、正面からじゃ、気づかれたら御終いだし。後ろから思いっきりって方が、ずっと確実でしょ」
彼女の言いたいことを理解し、少年は自分の役割を把握する。
「あんたが部屋に隠れてて、叔父さんが私を襲おうとしたら。その時がきっと、最後のチャンス」
予め、母に気づかれないよう、彼が部屋に隠れ、後に叔父がやって来る。逆らうことを諦めた少女は、遂にその気を見せたのだと、具合の悪い体で、ベッドの上から叔父を呼ぶ。そうすれば、倫理感など元来捨て去った男は、自身の欲望に忠実に、手にしたい少女に触れようと手を伸ばすだろう。その頭にあるのは、彼女を汚すことだけ。無防備になるのは、脂の乗ったその背中。刺して殺すには、もってこいの、唯一の隙。
「私、あんたが聞きたくない台詞、いっぱい垂れ流すからさ。演技でも、いっつもやってるから、自信あるし。本物にしか聞こえないよ。それまで、耳塞いどいていいから」
「大丈夫です、それぐらい」
今更、耳に届く言葉など、どうということはないと、彼は大きく頷いた。それ以上に、自分が相手を刺し殺す感触を想像しているように、無意識に左手を軽く開いては握り締めている。
「あーあ。根本的に、こうするしか、もう思いつかないや」
横を向いて向き合っていた顔を正面に戻し、彼女は勢いよく背もたれに背をぶつける。足を軽く跳ね上げ、うんざりだとばかりに挙げた両手をぱたりと下ろすと、彼の方をちらりと見て軽く笑ってみせる。
「心配しないでよ。大丈夫だから。勝手に私だけ逃げたりして、あんた一人のせいになんて、絶対にしない。ただの私の手足だったんだからさ。殺人教唆ってやつ」
「同じだけって、さっき言いました。あなたと同じじゃないと、同罪の共犯じゃないと嫌だ」
いつまでたっても、真面目すぎるマセガキめと笑い、彼女は、そうだと脇に置いてあるカバンのチャックを開き、右手を突っ込んだ。ポーチや数冊のノートを掻き分け、滅多に触れない底板を手探りでめくると、目当ての物を取り出した。
「使ったことないけどさ」
唯一の武器として、これまで隠し続けていたナイフの存在に、彼は一度目を見張ったが、今となっては文句を言うほど驚きも不満も抱くことはしなかった。いつでも相手を、または自分自身を終わらせられるという、彼女の心に長年平穏をもたらしていた、あまりに胸の詰まる悲しい武器だった。
「貸してください。ぼくが持っておきます」
これが最初で最後の使い道だと、彼は彼女の返事を待たずに、鞘に入ったままのナイフを、手から引き抜いてしまう。
「あんたに、ナイフなんて似合わないね」
一度だけ左手で柄を握り、鞘を抜いて、新品の様子を確かめている彼は、顔を上げると、きょとんとした表情から、そうだねと笑ってみせた。その笑顔に、とてもではないが、刃物など似合わない。あの眼鏡よりも、遥かに浮いた存在だと少女は笑った。