覚悟
「終わりなんだ。まあ、せっかくだしさ、勉強頑張ったし、ここまできたし……卒業ぐらい、したかったかな」
学校のことなどではない、あの日、二週間前、迎えに来た叔父に運ばれた先で起きたことを、彼女は余さず少年に語った。
あの晩、そこには叔父を除いて、知らない男が三人もいた。幾ばくかの金を出した彼らに手加減など存在せず、彼女は一層の地獄を見ながら、これからの自分が突き落とされる悲惨な運命を知った。
「つんぼのカタワだって」
聞こえてないと思われ、叔父に吐き捨てられた台詞を教える。すると、少年は絶句し、瞳を揺らしたかと思うと、瞬く間に表情を悔しさで埋めた。少女の障害の理由を知る、優しい彼にとって、信じられない台詞だった。
「そんなひどい言葉、信じないでください。あなたは何も悪くないし、足りないものなんて、何ひとつないんだから」
やはり彼は、自分の知る誰とも異なる人間だと、懸命に否定を絞り出す彼を見て彼女は思った。あの場にいた人間は、誰もがその台詞に可笑しさを見いだして笑っていた。何が面白いのか、彼には生涯理解できないだろう。ヒトという形態のみが一致するだけの彼は、あの生き物たちとは何もかもが違う。
「警察には、言わないの」
沈んでしまう、暗く光を失った深海のような世界で、彼が一縷の望みをかけて尋ねた。
だがここは、いつもとは異なる、淀んだ海の底。見上げても光など見えない世界に、望みなどかけられない。
「言ったって、私の話なんか誰も信じないよ。証拠もないのにさ。私一人が何を言ったって、誰も味方なんてしない。お母さんだって、いざとなったら、絶対に叔父さんの方に行くよ、惚れてんだからさ、馬鹿だよ」
「ぼくは、ずっと味方でいますよ」
「わかってるよ。でも今言ってるのは、そういうことじゃないの。わかるでしょ、大人がいないと、太刀打ちできないってことぐらい」
何でもない風に首を振って素っ気なさを装うが、彼は誤魔化されることなく、どうしようもない落胆に押し黙ってしまう。自分が大人であればと、彼がこれまでになく、後悔に似た感情に襲われているのは、目に見えて明らかだった。
「……もし事件にできても、下手に知られればさ、学校の奴ら、さぞ楽しむだろうね。こんな汚いことしてる同級生なんてさ、いじりがい満点でしょ」
「いじめって、ことですか」
「その言葉、嫌い」
「……そうですね」ぼくも嫌いです。わざと、つんと横顔を見せる少女から視線を外し、少年は繋げた。道徳に反した話題に飢える傍観者たちは、倫理を足蹴にした出来事が大好きだ。当事者がその事件を提供などすれば、忽ち授業を受けるどころではなく、骨さえ余さず貪り尽くし、学校内外問わず煽り続けるだろう。そうなれば、いくら周囲の目から気持ちを切り離す少女であっても、とてもではないが、自席に着きノートを広げる日常は瞬く間に失われてしまう。
録音でもしとけばよかったかな。不意に思い、スマートフォンの入った鞄を少女は見下ろし、彼女はその発想を持たなかった自分を少し後悔した。だが、ここまで事態が悪化することを想定しなければ、誰がわざわざこっそり録音ボタンを押し、自分の醜態を来るべき時まで保存しておきたがるだろうか。
「あいつらさ……叔父さんたちのことね。悪い大人だから、誤魔化すのなんて大得意だよ。そうすれば、その後で私は、もっとひどいことになる。……想像もつかないよ。あいつらのとこでさ、手足でも切って、ダルマにでもされるかもね。一生遊べるしさ」
返事をできない少年が、笑わない彼女の顔を見て、息をのむ。彼女の手足が切り落とされるなんて。そんな非道い話はないと、よろめくように首を振る彼が望むまま、少女は笑った。ただそれは、力のない、薄く消え入りそうな、口元に浮かぶだけの、辛うじての微笑みだ。
「冗談だよ、流石に。もし死んじゃったら面倒だし、そんなの抱いたって、面白くないでしょ。でもまあ、精々、足の骨ぐらい折られるだろうね。私、生意気だしさ。逃げられないようにって」
「そんなの、絶対に嫌だ」
「嫌だって言っても、仕方ないのよ」
先程よりもずっとリアルで、あり得てしまう未来に、彼は頭を振って嫌な想像を消し去ろうと努力をする。目を覆う前髪が揺れ、光が彼の髪を滑って流れる。
「どうにか……どうにかできる方法が、あるはずだよ。あなたのこんな終わり方、あまりにひどすぎる。許せない」
「あんたが許せないって、よっぽどだね」
「滅多にないです」
「滅多にはあるんだ」
彼女の軽口に惑わされることなく、髪の揺れが止まると彼は唇を軽く噛んで考え込んでしまった。大人になれない自分が使えるやり方で、彼女が傷つくことなく、傷つけられる未来から逃れる方法を、懸命に思案する。左手を口元に当て、足下を睨みつけ、何も思いつけずに肩を落としては、髪に指を埋めて考える。自分がもっと勉強していれば、と至極真面目に呟くのに、わざと明るい笑い声で応えながら、彼の様子を見る彼女も床へ視線を落とした。
壁の掛け時計の秒針が、いやに大きく響く。彼女の残酷な結末へのカウントダウンを楽しむように、絶対に止まるもんかと豪語し、何もできない子どもたちを嘲り笑う。
時間だけが無情に流れる。二週間考え抜いた彼女の横で、必死にあれこれと思考を巡らせる少年が、自身の身を抱き、俯いたまま小さく呻いた。
「ねえ、それならさ」
苦しげな彼に、至って明るい声をかけ、少女は顔の横で人差し指を立てる。
「私たちで、殺しちゃおうか。叔父さん」
常軌を逸した台詞に、両腕を身体に回したまま顔を上げた少年は、目を見開き、瞼をひくつかせた。
「あんな人間なんだから、神様だって大したばちは当てないよ」
まるで冗談のような台詞に、冗談のように彼女の顔は笑っているが、その瞳を見つめた彼にはわかってしまった。
彼女は、本気だ。
それを知った少年は、あまりに過激な言葉に戸惑いを隠しきれず、何か言おうと唇を震わせたが、結局拒否の意見を口にすることはないまま、表情を緩めた。
「そうだね、殺そうか」「やっぱり、だめだよ」どちらの答えも言えず、それでも逃げようとはしない彼の姿が、少女には嬉しくて、その優しさが悲しかった。
「人間は、ばちは当てるよ」
ただ、現実の問題として、人を殺せばどこに行けども避けられない罪状を、向かい合う彼女に確かめる。
「でも、今が一番お得だよ。少年法ね。未成年でさ、殺人って、どうなるんだろ。死刑にはなんないよね、多分、無期にも。けど当分、塀の中だろな」
「その方が、ずっとマシだよ」心底参ったという風に、自分にやがて課せられる罪に向き合う彼女に、少年は優しく頷く。罪を償い続ける生涯と、やがて訪れる気の狂いそうな生涯。前者を選ぶことは、言うまでもない。
当然のように、運命を共にしてくれる彼に、彼女はにっこりと笑いかけた。
「ふたりでやったら、罪は半分とか、ならないかな。ひとりでやっても、ふたりでやっても、同じだもん」
「そんなこと、できるかな」
「それでも、あんたと同じならいいや。同じ分だけかぶっちゃうなら、それでいい。二倍あったほうがいいよ」
「本当に、半分こ、出来たらいいのにね」
半分に分け合い、背負えないのなら、同じ分を二つだけ。例え苦しくとも、ふたつをひとつずつ分け合えるのなら、それが一番だと、顔を見合わせるふたりは笑い声など上げないまま、笑いあった。ふたりの覚悟は、既に固まっていた。




