幸せと引換えに 4
「待って、やめて! やめてよ!」
絶叫とともに、彼が離した距離を数歩で飛び越え、鍵を開けさせないよう、彼が出て行ってしまわぬよう、右手で彼の手を包むように握り締め、左手で少女は彼に抱きついた。するりと取っ手から手が抜けると、こちらを向かない彼の瞳に自分が映るよう、細い肩を握り締め、力強く揺さぶり、彼女は無理矢理彼を振り向かせる。驚く程、がくがくと揺れる彼の体に力はなく、負う鞄の重みに潰されないのが、不思議なほどだった。
「そんなわけないじゃん……! あんたに……あんたに死んでほしいなんて……そんなこと、思ってる訳ないじゃんか!」
「……嘘、つかないでください」ぽとりと、呟く声。
「嘘なんだよ! 全部、全部うそ! 嘘なの、反対なの! あんたまで死んじゃったら……死んじゃったら、私は絶対、幸せになんてなれない……。笑うことなんて、もう二度とできないよ!」
彼を突き放したものとは正反対の言葉と共に、縋るように少年を抱きしめ、少女は懸命に首を振って全てを否定した。だが、あれ程の台詞に対し、今になって掌を返されても、すぐに理解などできるわけがない。
「だけど、あなたが……」
「ごめん、ごめんね……! 本当に、ごめんね……」
ドアに背を向けさせ、憔悴に肩を落とす彼の体に両腕を回し、鼓動を感じられるほど強く抱きしめながら、謝る彼女の声には涙が混じる。彼女自身、滅多に流すことのない涙が、声の中に、遂には目の淵に滲む。
「馬鹿なのは、私の方だった。下手な言葉しか言えなくて、気づけなかったんだ……。あんたが……あんたが、こんなに、私のこと好きでいてくれてるなんて、気づけなかったんだ……だからあんな、無茶苦茶言っちゃったんだ……!」
もう少しで、今腕の中にある彼の温みが、消えてしまうところだった。その瞳は、二度と星空どころか、深海すら宿さなくなり、彼が持つ優しい言葉も、微笑みさえも、この世界から失われてしまう寸前だった。自分が言い放った結末を思うと、彼女の背筋は凍りつき、そんなのは絶対に嫌だと、彼の温かな頬に頬を押し当て、痩せた体を抱く腕に一層の力を込めた。
「お願い、死なないで……私は、嘘つきだから……。そんなこと、本当は、少しも思ってないんだ……。ほんの少し、離れて欲しいだけだったの……」
「……離れてって……」
抱きしめられたままの少年は、ようやっと、掻き消えそうな声を零し、小さく頭を動かして、彼女の顔を見ようとする。戸惑い、疲れきり、死の淵を覗き込んでいた彼の瞳に、なんとか涙を拭い、震える口元を動かして笑おうとする彼女の姿が映った。
「私、もう、駄目みたいなんだ。あんたと一緒にいるのも、無理みたい。だからさ、離れてよ、私のこと、嘘吐きだって、嫌いになってよ」
理解し難い彼女の説明で、彼が納得するはずがない。表情の抜けた、疲弊した表情をぴくりとも動かすことなく、彼は首を横に振る。
「ぼくは、嫌いになりません」
じっと自分を見据える彼の頬に手をやり、彼女はふふっと笑った。
「わからず屋」
そんな彼が、やっぱり大好きだと、少女は自分の気持ちを確認し、彼の額に額を当て、もう一度強く抱きしめると、鼻のてっぺんに唇を軽く当てる。照れてしまうより、呆然としている彼の両腕を握り締め、数歩後ずさり、出口から遠ざかる。あれほどのことを言ったのだ、万が一を思うと、いくら今更否定をしても、心の奥に、彼が思い直してしまう恐怖はこびりついていた。
「嘘だよ。あんたに悪いところなんてない、嫌いになんかなってないよ。全部、ぜーんぶ嘘。真っ赤な嘘。何があっても、あんただけには生きてて欲しいし、どうしても大好きだよ。変わんない、大好きなままなんだよ」
ようやく、彼女の酷すぎる言葉が、全て嘘であったという可能性を信じ始めた彼は、安堵するくせに顔を僅かに歪めてしまった。よかったと口にさえしないが、「大好き」という言葉の苦しさに、見えない涙の流れる顔を見せた。
彼が流せない分、細く流れる涙を、彼の腕から離した右腕で拭いながら、彼女は彼の愛する笑顔を見せる。唇の隙間から入り込む涙を飲み、それでも頬を上げて美しく笑った。
「ほんとはね、私だって、ずっと会いたかったよ。この二週間、ずっと寂しかった。ひと目でも会いたくって、それが無理なら、声だけでも聞きたくって。だけど、どうしたらいいか分からなくなって……。情けないよ、何度も泣いちゃった」
部屋の明かりが、彼女の涙に反射する。頬を伝い落ちる雫は、ぽたりぽたりと、硬い床に光の粒を重ねる。「だけどね」最後のひと雫を、彼女は拭った。
「もう、一緒になんていられないの」
会いたいのに、大好きなのに、一緒にはいられない。そんな矛盾した気持ちに、ようやく彼女の本音を理解した彼は、不安げに眉尻を下げ、心配そうに彼女の濡れた瞳を見つめた。
「どうしたの」
悲しい全てを教えて欲しいと、優しい声で様子を伺う彼の腕を引き、肩から鞄を下ろさせると、並んでソファーに座らせた。二人分の重さで、ようやくソファーはまともに沈み込む。燃え上がっていた少女の心、全てを打ち捨てる少年の決意、二つの波は時間をかけてようやく収まり、彼女はぽつりぽつりと話し始めた。




