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深海の星空  作者: ふあ
ノンフィクション
43/63

幸せと引換えに 3

 ここに来て、彼の想像に沿った事柄は一度も起きなかったが、彼女の台詞はこれまでとは一線を画して常軌を逸していた。

 目を見張り、呼吸さえ止めてしまった少年に、少女は酷薄に続ける。


「そんだけ好きだって言うんならさ。私が死ねって言ったら、あんた、死ねる?」

 少年は決して思い上がりなどしなかったが、そんな常識さえも少女の言葉は超えていた。そこまで嫌われていたのか。予想だにしなかった言葉に、彼は閉ざした唇を微かに離した口で、乾いた呼吸をやっとの思いで繰り返し、頬を引きつらせた。右頬がひくひくと不随意に動く顔で呆然と彼女を眺め、あまりに非道な台詞を、頭の中で幾度も反芻する。


 好きだ好きだというのなら、相手の願いを祈るのなら。それが、本気だというのなら。

 お前は、死ねるのか。


 ひくと、一度だけ、彼の喉が鳴った。それは落涙による嗚咽などでは決してなく、酸欠に陥りそうなショックに由来する喉の動きだった。

 少年は、なんとか返事をしようと努力を見せるが、それは、唇の端の痙攣という形になるだけ。体の横で両手を垂らした棒立ちのまま、勝ち誇った顔をする少女に、何一つ言葉を返せない。


 それでも、なんとか動く両手でズボンの脇を擦り、手にかいた冷たい汗を拭うと、悔しさに顔を歪め、苦しげに歯を食いしばった。返事をしたい。ただそれだけの為に、時間をかけ、思いを込めて、悲しみに浸り込み。沈黙にも掻き消えそうな声を、喉の奥から落とした。


「……はい」

 ただ一言。


「嘘ばっか。調子いいこと言うなよ、この馬鹿野郎、クソガキめ」

 だが、彼にはもう、そんな意味のない幼稚な悪口など、聞こえてはいなかった。

「……そうしたら、あなたは、幸せ、なんですか」

 切れ切れの言葉を結びつける声は、震えていた。


「そうしたらって」

「ぼくが……ぼくが死ねば、あなたは、幸せでいられますか」

「かもね。清々するよ、鬱陶しいやつがいなくなってさ。でも無理でしょ、あんたでも流石に。死ぬのって相当だから。あんたなんかじゃ想像できないだろね」

 一度死を目前とした彼女だからこそ、その台詞は確かな意味を持つ。

 肩を竦め、わざとらしく両手を広げ、やれやれと首を振る投げやりな少女に対し、少年は情けなく眉尻を下げ、言葉もなく、力なく首を横に振った。この部屋にやってきて、何度目か分からない仕草だが、彼のそれは既に、否定のものではなかった。


「本当ですか。ぼくが死ぬことが、あなたの幸せになるんですか」

「しつこいな。そうだって言ってんじゃん」

「ぼくが、死ねば……あなたが」

「ああもう、うるっさい! そんな鬱陶しいやつだと思わなかった」

 苛立ちに足を踏み鳴らしそうになる彼女が睨みつける顔を、縋るように見つめ続ける。どうかどうかと、まるで、祈り続けるような、彼の思いつめた表情は、彼女の煮え立った勢いを静かに削いでいく。


「約束してください。絶対だって、言ってください。ぼくが……ぼくが、この世から消えたら、必ず、今よりも幸せになるって」

 少女の前で泣いたことのない少年は、今にも泣き出してしまいそうに、顔を歪める。そうして、振り絞る声で、必死に、精一杯に向き合う姿は、いつもと寸分違わないものなのに。

「……なるよ」少女の声から力が抜けていく。

「絶対ですよ」

「わかってる……」

「今だけは、嘘なんて、吐かないでください。後出しで、ほんとは嘘だったなんて、言わないでくださいね」

 声を震わせる彼は、気丈にも、引きつる頬を不器用に上げて微笑んでみせた。泣きそうな顔で、彼女に確かめながら、彼女の愛する、愛した優しさで笑う。


 そう、少年は全てが本気だった。嘘を吐けない、真面目で素直すぎる彼は、いつだって本気で、それは今となっても変わる様子さえないのだ。どれだけ彼女に突き放され、酷い台詞を叩きつけられようとも、彼の気持ちは微塵も変わらない。


「ぼくが死んだら、また、前みたいに、笑っていてください」

「前みたいって……」

「いつも、ぼくをからかう時みたいに、一緒に星空を見上げた時みたいに。毎朝見せてくれたように」


 深海の瞳は濡れている。それでも、それが形にならないよう、懸命に涙をこらえ、彼は肩から力を抜き、少年らしい穏やかさを見せ、声もないまま優しく笑った。


「あなたが、少しでも笑っていてくれるなら、ぼくはもう、何もいらないんです」


 これが、彼の願いの全てだった。愛する少女が笑っている世界があるのなら、そこに自分がいないという条件がついていても、迷わずにそれを選び取ることができるのが、桜庭菜々の愛した、一ノ瀬広樹という人間。友達や恋や青春だの、そんなものと遠く離れて生きてきた彼が持つのは、純粋で真っ直ぐな愛情だけだった。


 すっと、彼は右足を一歩引いた。彼女と決別するため、永遠の別れの距離を踏み出すために、たった一歩退いた。

 その一足は、長い長い道のりだった。これまで、半年という時の中で縮めた全ての距離。不器用な少年と、ひねくれた少女が、互いに探り合い、それでも相手を求め、ようやく手を繋ぎ合い、笑い合うようになれた決して短くない道程だ。苦しい呼吸の中、懸命に駆け続けた、胸が張り裂けそうに愛おしいその距離は、彼のたった一歩で、いとも容易く彼女から遠ざかる。


 大好きな少女に永訣を告げる少年は、全てを受け止める優しさで、どこかあどけなさの残る笑顔を、最後に彼女に向けた。


「嬉しかったです。好きだって、言ってくれて。すぐ傍にいてくれて。ぼくなんかに、これまでずっと、付き合ってくれていて」


 ありがとう。


 それを最後の言葉として。


 そうして彼は、全てを忘れ、忘れようと努力して、消し去って、これから途方もない悲しみを考える。命よりも大切な、愛する人の幸せに繋がる、人生最期で最大の巨大な悲しみに襲われ、沈み込み、呼吸すら許されなくなってしまう。それは、どうやって人生を終わらせるのかということ。たった十五の若さで、愛しい全てと、世界そのものと決別する方法を考えて、実行する。その先に転がる最期の自分の姿は、きっと少女には見せないだろう。その顔が美しいのか、惨たらしいのか、そんな客観的意見など気にも留めず、彼女の知らない場所で、知らない間に終えてしまうのだ。


 いつもの朝のように小さく頭を下げると、彼は屈んで、通学鞄を拾い上げる。少し汚れた、白いエナメルのバッグは重たげで、細い少年の体は、肩にかかった重さにも潰れてしまいそうだった。だが彼は決してそれほどまでに弱くなく、しっかりと伸ばした背を彼女に向けた。


 一歩、また一歩と遠ざかっていく。いつもの朝のように。だが、いつもと違うのは、向かう先に、朝など二度と存在しないこと。彼が一人で見つめ続けた美しく静謐な世界は、その瞳には二度と映らない。彼が向かうのは、今度こそ、誰にも触れられない、生き物の鼓動のない闇の深海。ひとりきりの、絶海の孤独。


 背を向けた瞬間、伸びた前髪に隠れる彼の瞳から、あれほど愛した少女の姿は掻き消えてしまった。

 泣きたくなるほど、命をかけても幸せを願う人の影は、霧散するように、跡形もなく、彼の中から、消えてしまった。

 とん。とん。と、履き潰したスニーカーで硬い床を踏みしめ、自分が鍵をかけたばかりのドアへ向かう彼が、動作として目をやったのは、ソファーの背後にある窓の向こう。分厚いカーテンの隙間から視力の良い目で透かして測ろうとするのは、ここが何階の高さなのか、そういった悲しい事柄。上がっていくのか、いや、ここから出て行くべきだろう。彼は思ったに違いない。

 もう、彼は決して振り返らなかった。不思議なことに、彼女に拒絶された落胆も絶望も最早その姿からは見て取れず、ただただ、孤独な少年がそこにいるだけ。

 深海に掻き消える、躊躇いのない彼の指が、簡素な鍵に触れた。

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