双澄海岸 3
数件先の雑貨屋の前に設置された自動販売機で、それぞれペットボトルのお茶を買い、水分補給をした。流石に、百三十円払えば、それなりの味だなと、五百ミリリットル入りのボトルに巻き付くラベルに、見知ったメーカーの名前を見つけて少女は思った。
それでも、南中を越え、一日で最も暑い時間を迎える真夏の日差しは耐え難い。八月五日の天気は、良すぎるほどに晴れ渡り、店先に繋がれた中型犬も、地面に伏せって舌を出し、腹を大きく動かして熱を逃がしている。
「クソ暑い」
人間だって堪らない暑さだと、彼女が同じ台詞をぼやき続け、それが十回目に達すると、聞かされ続ける彼はどこかに入ろうかと提案した。
何かを買う予定はなく、時間が経つ毎に増えていく観光客に混ざり、日影を求めて土産物屋を渡り歩く。
「これ、かけてみてよ」
その中の一軒で、海が近いおかげか、あちこちで見かける魚のぬいぐるみを眺めている少年を少女は呼んだ。
「眼鏡?」
訝しみながらも、あっさり近寄ってくる彼に頷き、少女はそれを突き出す。
「ぼく、目いいですよ」
ありふれた銀色のフレームに細い蔓の眼鏡を受け取る彼は、裸眼でも十分の視力を持っており、眼鏡とは縁遠い存在だった。
「いいから。かけてよ」
「でも、必要……」
「いいの。つべこべ言うな」
必要ないと言い掛けた彼は、相変わらずの、そして最近では慣れ始めてしまった彼女の勝手に、渋々でも口を閉じてしまう。
土産物屋の安っぽい眼鏡でも、レンズに触れないよう、蔓を摘んだ指を控えめに顔に近づける。そんな少年の顔をのぞき込み、目を合わせた少女は、咄嗟に口元を抑えたが、ふふっと笑い声を漏らしてしまった。
普段眼鏡をかけている人が外すとき、また眼鏡をかけない人がかけるとき、何故あれほどまで違和感を覚えてしまうのか。その違和感が、彼の場合はどれほどかと、不意な興味を抱いただけだったが、彼女にとっては想像以上のものだった。
きっと、出会ったときから彼の目が悪く眼鏡をかけていれば、何の疑問も抱かなかっただろう。今だって、一般的には何一つ問題などない。だが、幾度も顔を合わせ、普段の表情を知っていれば、人工的な付属品がくっついている姿は随分おかしく思えた。
「……そんなに、おかしいですか」
遂に腹を抱えてしまった少女に、少年の声は温度をなくしてしまう。
「だって、似合ってないんだもん」
必死で抑えながらも、少女は喉の奥から声を漏らして笑ってしまう。似合ってない。そう、とにかくそうなんだ。思い知った。彼に眼鏡は似合わない。
「鏡見てみなよ、鏡。笑えるから」
「嫌です」
彼の背後にある陳列棚に据えられている鏡を、少女は笑いながら指さすが、彼は何が何でも振り向こうとはしない。これほどまでに笑う彼女の隣にいる少年が笑っていれば、どれだけ幸福な光景だったろう。だが彼は、決して笑うまいと表情さえも消してしまった。
「じゃあさ、へこんだときに笑いたいから、それ買ってよ」
「絶対嫌だ」
「そんなら私が買ったげる」
「二度とかけない」
彼らしくなく、口をとがらせ、さっさと眼鏡を元の場所に返してしまう。勿体ない、と至極心のこもった声をこぼす彼女から目を逸らし、彼は不満を露わに背を向けてしまった。
だが、いつまでも不機嫌を継続せず、相手に悪意がなければすぐに感情を切り替えるのが、少女が認める少年の良いところだったし、彼女が本心から彼をいじめたいなどとは思っていない証拠だった。
「これ、被ってください」
果たして、仕返しの可能性も捨てきれなかったが、数分後に彼が手にしたのは、変哲のないつばの広い白い帽子。
「なにそれ」
「帽子です」
普段は制服を除けばスカートさえ履かない少女は、こうした女の子らしいものに興味を持たず、自分には向いていないと敬遠すらしていた。女の子だから、という台詞がかけられそうなあれこれを、無意識に排除してきた結果だ。
そのおかげで、これが自分自身に合うのか全く想像できなかったが、先程自分がいたずらした彼が勧めるのなら、と受け取り、さっと髪を手で梳くと、乗せる程度に、つばを両手でつまんだまま、軽く帽子を被ってみる。
滅多に見せない、迷いの色を浮かべる彼女の顔を縁取る、夏らしい白。
「似合ってますよ」
少し大人しくなってしまった少女に、少年は嬉しそうに笑った。散々彼女に笑われた彼に、その台詞に裏を与える性根はなく、心底そう思って口にする。恥ずかしがり屋のくせに、時折少女が軽口を叩けなくなる褒め言葉を躊躇いなく声に出す。
実際、彼女にその帽子はよく似合っていた。爽やかな白色は、少女の整った顔立ちを際立たせつつも、儚さを感じさせるのに十分で、少年に促されて鏡を覗き込む姿は涼やかに夏を彩る。
「……いらない」
だが彼女は、素っ気ない言葉とともに、さっさと帽子を頭から下ろすと、棚に戻してしまった。
「嫌でした?」
「似合ってるとか言われたから」
そう言い放つあまりの天邪鬼っぷりに、慣れているはずの少年も思わず言葉をなくすと、口元で笑う少女に対し、口をへの字に曲げてしまった。必要以上のへそ曲がりを見せる少女は、何でもない顔を貫き、棚の前を歩き去る。
そうして彼女は、心中で嘆息した。悪い気など全くしなかった、むしろ、嬉しくて、笑顔さえ溢れてしまいそうだったのに。せっかく、似合ってるだなんて、言ってくれたのに。せめて、あんなすげない態度を見せず、黙っていても笑えばよかった。
言葉を交わしながら、彼女は心の奥で後悔を呟き続けていたが、すっかりひねくれてしまった性格では、やっぱり気になるという台詞を口にすることができなかった。呆れ果ててしまった少年は、彼女が並べられたぬいぐるみを指さし、会話を始めると、彼女の気のない一部始終を忘れてしまった風に、それまでをあっさり流し、返事をする。
そうして、軽くふざけ合い、店から通りに出ようと足を踏み出し、彼の後に続きながら、彼女は視線だけで店内を振り向いた。自分の失った素直さが形をとった、白く可愛らしい帽子を、次に見かけたときに決して見逃さないよう、覚え込む。
口でひねた文句を言いながらも、あれを買って外で被れば、きっと彼は、さっきのように笑ってくれただろう。自分が笑いたいから買えなどと自分勝手な台詞を吐き、似合わない眼鏡を勧める相手にでも、少年は似合ってると言って、褒めてくれたはずだ。
今すぐ言えない自分の幼稚な意地っ張りを噛み締め、悔やみながら少女が顔を向けると、先に店を出ていた少年が振り返った。
「少し、涼しくなってますよ」
軒先に据えられた温度計の前で、店に入った三十分前よりも一度だけ気温が下がっていると、素晴らしい発見をしたといわんばかりの顔をする。そんな、相手の未練になど微塵も気が付く気配のない彼の様子を目にすると、少女の顔にも、先ほど見せられなかった笑顔が浮かぶ。
だから次はと思う。もう一度あの帽子を見つけたら、例え彼がからかったとしても、やっぱり欲しかったんだと笑ったとしても、必ず手に入れて被ってみせよう。
「行こ」
駆け寄って少女が袖を引くと、伸びた前髪の向こうで、少年は目を細めて笑った。




