双澄海岸 2
海岸に沿って水族館に至る、約一点五キロの南北へ延びる街並みが、双澄海岸が観光名所たる所以だった。両脇に軒を連ねる店が、どれも古く、景観を損ねない低い造りであるおかげで、歩行者天国の広い通りは、その時代を知らない若者にも、古き良き時代、という言葉を思い起こさせる。雲一つない真っ青な空を背景に、和やかに人々が行き交う今日の風景は、写真に収めればそのまま土産物屋のポストカードに並べそうだ。
夏休みの時期に突入しているせいか、二人が通りの始まりに添えられた地図を見上げている傍を、幾人もの人々が横切っていく。中高生の友人グループに、大学生風のカップル、四人の親子連れ、初老の夫婦から、カメラを首に下げたおひとり様まで、多様性に富む観光客がそれぞれ楽しげに歩いていく。
「人、多いですね」
母親同士に子ども数人という、夏休みらしいグループを見送る少年を、宙に浮かせる人差し指で地図を辿っていた少女は振り返った。
「水族館閉まってるのにね。こんなに人気だなんて、思わなかった」
案外、自分たちのように行き場を失ってたどり着いた人は多いのかもしれない。提案した少女も、自身で思いながら、行こうと向こうを指し、彼を促して歩き始めた。
「でも、普通のとこでしょ。安心した?」
「安心した」
即答する背を力強く叩くと、いたいと声を上げる彼は困った風な笑顔を向けた。
「全部任せておいて、言えないですけど……。何も、予想つかなくて」
「予想って、どこいくのかってこと」
「その、特に、女子高生って」
「まあ、あんたとは、生態が違うからね」
自分を棚に上げれば、今隣で息をする少年と、教室に生息するクラスメイトは、まるで違う種の生き物だと少女は思う。属や科へと遡れば、どこかで一致するだろうが、それには、何百年、何千年、何万年必要になるのか。
「普通って言えば……カラオケとか、ゲーセンとか?」
「そうですね」
「あんなんさ、連中もよく行くよ。でっかい音でさ。頭おかしくなるっての」
彼らの存在を思い出してしまい、うんざりだと肩を竦めて言い捨てる少女に、少し考えた風の彼も頷いた。
「前通るだけで、すごい音ですよね」
彼女の左耳の問題を忘れているのか、彼は納得したような顔をする。今朝通ったばかりの、駅前にあるゲームセンター。あそこの自動ドアが開く度に、中の人間の鼓膜は無事なのかと疑う音の奔流に巻き込まれてしまう。恐らく彼は、そういった若者らしくない感覚を共有しているのだろう。
「でしょ。私も大概だけど、あんたにも似合わないし。そんなんね。だから調べてやったんだから、感謝しろよ」
可愛げなど微塵も存在しない、恩着せがましい彼女の台詞に、それでも彼は怒らない。
「してますよ」
困ってうっすらと笑いながら、礼さえ言う少年は、やはり全く違う生き物だ。どちらの進化が、人間社会により適応しているのか、そんな問題は問題ではない。ただこれだけで、全ては間違いではなかったのだと、何万年もの奇跡を思って、少女も同じように笑うことができる。
買ってもらったソフトクリームを手に、小学生が走り回っている。古着屋の前で、女子中学生の集団がはしゃいでいる。街並みに向けてカメラを構える初老の男性の脇を、壮年の女性が連れる小型犬が跳ねていく。
屋根瓦が日差しを眩しく反射する通りを、きょろきょろと見回していた少年は、ふとズボンのポケットに手を入れると、隣を歩く少女を振り向いた。
「おなか、空いてないですか」
「おなか? 別に、大して空いてないよ。空いたの」
「そんなに」
「何で言い出した」
取り出した安っぽい腕時計の黒いベルトを、右手首に巻き付けながら、彼は文字盤を見せる。
「もう、お昼過ぎてるから」
時刻は、十二時十分を示している。すっかり太陽は頭の上に昇っており、通りには、店先に徐々に列ができているうどん屋や定食屋が目に付いた。
「なんか食べたいもんある?」
「なんでも……」
「言うと思った」
少し不満げな少年の鼻先に、立てた人差し指を向け、少女はいつもの、いたずらっぽい笑みを見せた。
「じゃあ、次に見えてきた屋台。取りあえずそれ食べようよ」
何が出ても文句は言うな。そんな無言の台詞が続くのに、彼は迷いながらも頷いた。
涼しげなかき氷や、冷えたジュースの紙コップを手にする人たちとすれ違いながら、そうして現れる十字路の右手に、赤く短いのれんが見えてくる。
「あっつ」
一言漏らす少女に、少年も呟いた。
「有効ですか」
「もちろん」
「通り、逸れてますよ」
「見えてきたって言ったじゃん。この道とは言ってないし」
「なんで……」
ひねくれた女子高生の思考を理解することなどできず、無意味に我を張る彼女に、思わず少年は声をこぼした。
少女も少年も、互いに小食である上に、それほど腹は空いていないと相談し、道端に出店を構えるたこ焼き屋にたどり着く間に、ひとパックを半分に分けることに決めた。
威勢の良い若い店員は、やってきた二人の注文を聞くと、出来合いではなく、今まさに焼き上がる分をトレーに分けてくれた。半球の穴が規則正しく並ぶ、変わった形状の鉄板は音を立てて湯気を上げる。半球に材料が流し込まれ、タッパーに積められたタコの破片がそれぞれに配られると、店員が千枚通しの先を隙間に差し入れ、器用にひっくり返していく。慣れきった手際の良さで、あっという間に見覚えのある丸いたこ焼きが並んでいく様子が、少女にとってはなんだか懐かしく、たこ焼きなど最後に見たのはいつだっけと、つい考えてしまう。しかし、小学生の遠い記憶を引っ張り出す彼女以上に、熱心にそれを見つめるのは隣にいる少年だった。
「兄ちゃん、そんなに面白いか」
日に焼けた陽気そうな店員の声が、自分にかけられていると気づくと、彼は驚いて顔を上げた。根付いてしまった人付き合いへの苦手さは、少年が見知らぬ相手へ気の利いた解答を咄嗟に出せないよう、長年邪魔をし続ける。
「はい……」
「面白いなら、いつでも代わるぞ。バイトが足りなくてな」
「いえ、あの……」
前髪に隠れてしまいそうになる姿は、数ヶ月前に少女に見せていたものと同様で、それでも何とか踏みとどまろうと視線を泳がせる。彼が会話の端々に見せる思慮深さは、本人が軽口を叩くことを困難にし、過度な真面目さは瞬時の判断を酷く鈍らせるのだ。
「ここ、地元じゃなくて……。ぼく、新聞配達のバイト、してるので……」
この下手くそ。しどろもどろな隣の彼の様子に、全てを知っている少女にはおかしさがこみ上げる。
「冗談に決まってるでしょ」
あははと彼女が笑い、おまけに店員まで愉快そうに笑い声を上げると、彼は戸惑いを露わにし、また失敗したのかと口を引き結んでしまった。いつも馬鹿にする少女だけでなく、初対面の人間にまでからかわれ、実に居心地悪く口の端を下げ、苦虫を噛み潰したような顔をする。
「ほんっとに、くそ真面目だね。そんなん生き辛くてしょうがないでしょ」
「……そこまで真面目じゃないです」
少年の様子に苦笑する店員から受け取ったパックを手に、元の通りのベンチを目指しながら、少女が顔をのぞき込もうとすると、彼はわざと明後日の方向に視線をやってしまう。
「嘘ばっか」
「嘘じゃないです」
「ほらほら、休憩。拗ねんなってば」
「拗ねてないし……」
明らかに拗ねてしまった少年を空いたベンチに座らせ、少女は尚も笑いながらその隣に腰を下ろす。何故だか彼女自身にも分からないが、こういった彼の姿を見ると、顔が笑ってしまうのを抑えられないのだ。
「はい。あんたの好きな、半分こ。三つずつね。四つ目欲しけりゃ千円払いな」
「計算がおかしい……」
せいぜい数百円のひとパックに、律儀に言葉を返しながら、彼女が片膝の上、左手で支える容器に彼は右手を添えた。それぞれ一本摘んだ爪楊枝を、少女は上段の右側、少年は下段の左側の一つに突き刺す。
天辺から穴を開け、軽く横から押し、焼きたてのたこ焼きを少女が冷ます横で、彼は安易に一つを口に入れてしまい、噛み潰す喉で小さく呻いた。
顔を背けてむせながらも、吐き出すに吐き出せず、いっそ全て飲み込んでしまおうとする姿がまたおかしい。
「動揺しすぎでしょ、さっき焼いてるの見たじゃん。落ち着きなよ」
笑っていると、いつになく子どもっぽい失敗を繰り返す彼は、なんとか飲み込んだ喉元をさすり、大きく安堵の息をついた。どうやら火傷はせずに済んだらしい。
「おいしい?」
そうして彼女が尋ねると、表情を緩めて笑った。
「おいしいですよ」
苦しんでたくせに。そう思うが、相変わらず彼の台詞に嘘は見えず、表情は強がりにも思えない。
「今まで食べた中で、いちばん」
「そんなに。最後に食べたのいつよ」
「覚えてないです」
「ばか」
それならばと、少女は冷ましていた一つに改めて爪楊枝を突き刺し、彼の目の前にずいと突き出す。咄嗟のことに目を丸くする彼の口元に無理矢理押しつけ、口の中に押し込んでやった。
「こっちと、どっちがおいしい?」
引き抜いた爪楊枝を指に挟んだまま、にこりと笑ってみせる。
食べさせられた一つを咀嚼する彼は、笑顔を失い難しそうな顔さえ見せる。飲み込んで間を空けるその表情は、見た目には愛想のない無表情だとさえとられるだろう。だが、彼女は知っていた。
「……こっち」
こうして短い台詞を呟く様子は、コミュニケーションの苦手な彼が照れている、そのくせ、懸命にそれを隠している不器用な姿。その証拠に、こちらが笑えば、同じように力を抜き、少年らしい穏やかさで笑う。これなら、千円払わずとも四つ目以降を食べさせてやってもいいかな。そんなことさえ、少女は思ってしまう。




