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深海の星空  作者: ふあ
邂逅
20/63

深海 4

「私ね、息が、苦しいんだ。病気とか怪我とか、そんなんじゃないよ。いくら吸っても、酸素が体に入ってこないの」


 少年の耳元で少女が囁くのは、誰にも聞かせたことのない話だった。少女だけが見ている、彼女だけが存在し、感じている世界の話だ。


「なんだかね、水の中にいるみたい。いつからかは、覚えてないんだけど。それでね、いつの間にか、息継ぎが、上手くできなくなってたんだ」


「それでも、溺れたりはしない。水の中にも酸素はあるから、ただ足りなくて、苦しいだけ」


 驚きに、少女は軽く首を動かした。自分が続けようとした台詞を、何故だか、何も知らない彼が静かに語っている。

 話ができるよう、顔を動かして、少女と少年は目を合わせた。向き合えるよう、互いに僅かだけ腕の力を抜くと、彼はある世界の話を、彼女の代わりに続ける。


「まるで、海の底なんだ。だけど、上手に泳げない。そのうち、もがくのにも疲れてしまって、歩くのがやっとなんだ」

「そう。水面に上がろうって気も、最初はあったはずなのに。いつまでたっても、どうしても届かないの。気づいたら、上がるどころか、どんどん遠くなっていって、沈んでいって。海の底を、ひとりで歩いてる」

 歩くのだって、楽ではない。軽々となんて動けないし、走るのなんて尚更だ。水の中なんだから。そのくせ、泳げもしないまま、途方に暮れて、ただ足を動かしているだけ。


「いつの間にか、水深が二百メートルを超えてるんだ。深海だよ。たった一人で、深い海の底にいるんだ」

 そうか、深海だったのか。少女はいたく納得した。知らない内に、手を伸ばせば、少し泳げば水面に到達する距離ではなく、深い海と書かれてしまう、深海にまで、たどり着いていたのだ。


「静かで、誰の声も聞こえない、姿もない。深くなる度にね、全部が遠くなってくの」

「だけど、分かってるよ。上には光があるんだ。今が朝か昼か、それとも夜なのかも分からないけれど、もしも、上まで泳ぎきれたらって、思うんだ」

 やっと分かった。少女は頷いた。自分ひとりが存在しているのだと思っていたが、彼も同じ世界に生きていたのだ。深海に、彼もたった一人で、潜っていたのだ。


 少女は頬を緩めて、小さく笑った。

「でも、可笑しいよね。光があるって分かるなんて。深海って、真っ暗なんでしょ、光なんて届くはずのない世界なのに」

「完全に真っ暗になるのは、水深千メートルからなんだ。それまでは、光はゼロではない。人の目には分からないだろうけど。でもね、どれだけ潜っても分かるんだ、光のある方向が。千メートルを超えても、遠くなってしまっても、見えなくはならないんだ」


 それは、求めている光だから。どれだけ遠のいてしまっても感じられるのは、いつかは触れてみたいと願い続けているから。

「泳げなくて、浮かべないのに。呼吸すら難しいのに。底にいるくせに、ずっとね、見上げてるんだ」


 少年のいる世界は、少女のいる世界だった。それを語る彼の声は、遠い昔に聴いた子守唄のように穏やかで、読み聞かせられる絵本のように優しくて、少女の心に涼やかに触れる。静寂に満ちた孤独の世界の物語。それぞれが見続けていた、自分しか知らない幻影と、仕様のない現実との交点にある青い世界。


「時々、ほんの珠に、生き物が通りかかるんだ。触れたことはないけど」

「深海魚?」

 柔らかな表情で頷く彼に、少女は笑いかけた。

「私は、見たことないや。あんたとは、いる海が違うのかな」

「でも、海は全部繋がってるよ」

「なら、いつか会えるかな。ずっと歩いて、珠にもがいて探してたら、海の中で、会えるのかな」

「無理なんて、しなくていいよ」


 優しい言葉とともに、少女を見つめる、とても綺麗な彼の瞳。海の底のように、深く、孤独で、美しい。


「迎えに行きます。そしたら、一緒に上がりましょう」


 ひとりでは上がれない、少なくともこれまでずっとそうだった。しかし、ふたりならば。共に手を繋ぎ合うことができるなら、水面まで泳ぎきれるだろうか。顔を上げて、胸いっぱいに空気を吸い込むことができるだろうか。それはどんなに、幸せな未来の世界だろう。


 顔を寄せて、少女は彼の額に額をくっつけた。彼の小さな笑い声が聞こえる。

 真面目で素直で、一生懸命な少年は、嘘など吐かない。だからこうして、傍にいれば、いつか本当になるだろう。手を繋ぎ、共に呼吸ができるだろう。

 出会えてよかった。本当に、彼と同じ世界にいられてよかった。心の底から、少女は思った。

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