深海 3
慣れないことに、心身ともに疲れきってしまった少年は、ぐったりと少女の横に転げてしまった。どこか強がっていた気の張りもすっかり消えてしまい、真っ白なシーツに埋もれ、どこか眠たげなとろんとした目を半分だけ開いている。赤らんだ顔に、未だに肩で呼吸をしている。
「気持ちよかった?」
しかし、少女がいたずらっぽく問いかけると、閉じかけていた瞼をはっきりと開き、口をぎゅっとつむると、血色のよい顔を更に赤くさせた。転がる答えを探すように、横になっているおかげで隠せない瞳を上へ泳がせる。どこにも答えが見つからず、次は足元を向き、困り果てて視線を左右へ巡らせ、頬を押し当てるシーツを見つめ。
答えが見つかっても、彼女が許して、何か話し始めてくれないかと黙ったまま、シーツにしがみつくように懸命に隠れてしまう。それでも見えてしまう頬は、あまりの恥ずかしさからもう真っ赤だ。
そんな子どもじみた誤魔化しを、少女は意地悪く許さないまま、穴があったらすぐさま潜ってしまうだろう少年の返事を待った。顔の右半分をすっかり埋めてしまった彼は、このまま黙っていても、彼女は決して妥協してくれないことをようやく理解した。決して目を合わせず、左手で無意識にシーツを握り締めた彼は、弱々しく喉を震わせる。
はい、と蚊の鳴くような、今にもぶれて消え入りそうな声だった。
大体自分も意地悪だな、と少女はこれがいつも叔父から自分にかけられる台詞だと思い出し、僅かな自己嫌悪を抱く。だが、男なんてどれも変わりない生き物だというこれまでの常識からかけ離れた、恥ずかしさに震えてしまいそうな少年を見ると、思わず笑ってしまう。
「このマセガキ」
目を瞑る彼の鼻先をつついてやると、流石に、怒らない彼もそっぽを向いてしまった。文句を言う代わりに、寝返りを打って背中を向けてしまった。
怒ってもいいのに。そう思いながら、少女は少年の背を眺める。
抜けない興奮を逃がすように、静かに彼は大きな呼吸をする。切らす息の音を聞かせることさえ、彼にとっては恥ずかしい姿だった。大人には幾年か及ばない少年の背はまだ薄く、はっきりと突き出る肩甲骨と、枕元の明かりに照らされ、うっすらと浮き出るあばらから落ちる影が、息をするたびに揺れている。少年は、少女が思っていた通りに痩せていて、体の中心を通る背骨は凹凸を作っている。だが、彼は細身だが、ただ骨ばって痩せているのではなく、毎日早朝に起きて新聞を配り、その後学校に通い放課後は家の手伝いをする体力があることを、少女は知っていた。脂身の少ない、食べたら不味い部類だな。少女は、幼さの残る、しかし、確かに目の前に存在する背を眺める。
人工的な明るさと暗闇の狭間にある、少年の背を指で辿った。彼の中心、浮かぶ背骨の輪郭を指先でそっとなぞった。
突然触れられ、驚いた彼が顔を後ろに向ける。ようやく呼吸の落ち着いた少年の、ほんのり朱に染まる頬に手をやり、少女がこちらを向かせると、彼は大人しく振り返った。優しく頬を撫でてやり、顔を覗き込んで、少女は少年の瞳がいつもより輝いて見える理由に気がついた。彼の瞳は、濡れていた。
「怖かった?」
穏やかな口調で尋ねると、彼は首を小さく横に振る。
「泣いてる」
「泣いてないよ」
「嘘つき」
「泣いてないってば」
瞬きをする彼の瞳からは、涙は溢れない。軽く閉じられる瞼を指で撫ぜ、再び開かれる深い黒を見つめ。
「そうだよね。あんたは、望んでるわけじゃないんだもんね」
少女は優しく言った。
そう、全ては少女の思いどおりだった。彼の休日を聞き出し、ここまで誘い、シャワーを浴びせ。キスから始まった全ては、彼女自身が望んだことであり、彼は促す言葉すら一つも口にはしていないのだ。
こんなの、あの男と同じじゃないか。少女の中に、罪悪感の芽が生える。天井を向くことができない彼は、もし逆の立ち位置なら、天井のしみを懸命に探し、数えていただろうか。全てが終わってしまう時間だけを待ち望んでいても、その優しさが仇となり、今も文句一つ言えないのではないか。
少年が、ふっと笑った。口の端を緩め、静かで緩やかな、少女にとって愛おしくて仕方のない笑顔を見せた。
「悲しまないでください」
決して大きくない声は、少女の耳にはっきりと響く。彼女が自分自身でも気付けなかった心と表情の変化に、少年はきちんと気がついていた。
細い腕が伸ばされる。少年の手が、少女の肩にそっと触れる。体温を分け合うように身を寄せ、確かに少女を抱きしめた。
「ぼくは、あなたが好きなんです」
思いがけない言葉だった。だが、少女は聞き直すという無粋な真似などしなかった。彼の声は鼓膜を震わせずとも、たった一度で、胸の奥に、心を通して染み込むように響いてくる。
胸が詰まる。苦しい。だが、これまで知ってきた、痛みや辛さ、そんなものには由来しない、胸の奥が熱くて熱くて、締め付けられる苦しさだった。嬉しさだとか、喜びだとか、確かにそれらに近しいのに、正しく表現する言葉を見つけられない、少女の十七年という人生で、始めて抱く感情だった。
「泣かないで」
優しい声とともに、指先で目元を拭われる。そうして少女は、自分が涙を零していたことに気が付いた。悲しくなんてないのに、辛さも苦しさも寂しさも、今は何一つ感じられないのに、熱い胸の奥から、熱い涙が零れてくる。頬を流れる雫の熱で、少女が火傷してしまわないうちに、彼の細い指は、目元を撫でるように動いては涙を掬っていった。
「だいすき……」
彼女の声は震えていた。こみ上げる涙に、頼りなくぶれてしまうそれを、少女は少しだけ大きくして、もう一度、彼に訴えた。
「大好き」
いつも遠くへ離れて行く彼を、毎朝見送るだけの身体を、両腕を伸ばして抱き寄せて。今は、彼は隣にいる、どこにもいかない、いかないでほしい。嬉しさに涙が溢れてしまうほど、彼が大好きなんだ。
抱きしめてくれる少年を、少女は抱きしめた。好きだと言ってくれた彼に、本当の気持ちを伝えて、少しだけ泣いた。胸に溢れる幸福のせいで涙が溢れてしまうなど、初めてのことだった。
彼は何も言わない。もう、泣かないでとは言わない。彼女の涙を全身で受け止めて、ただただ、限りなく傍にいる。だから少女は、自分の涙を押し殺すことなく止めることができた。
「ぎゅってして」
寄せた顔で、小さな声で少女は囁く。
「少しでいいの。離れないで。思いっきりでいいから、苦しくなんてないから、抱きしめて。一緒にいて」
言葉の代わりに、彼は一層強く少女を抱きしめる腕に力を入れた。加減はしっかりされているが、全身の温もりが、命の鼓動が、これ以上なく少女へ伝わる。その温もりに、少女は心の底から安堵し、同じように強く彼を抱きしめた。痩せた細い体、少し高い体温、まだ湿っている髪を撫で、自分が本当に望んでいたことを知った。
無条件に愛し、無償で抱きしめてくれる愛しい誰かが、これまでずっと欲しかった。
望まない人間などとは、いくら体を重ねても、温もりどころか体温そのものが消滅すればとも思ったし、言われた通りに腕を伸ばすしかない、力のない自分に対する巨大な影のような劣等感や不甲斐なさにも押し潰され、これまで、本来の涙さえ失っていた。
決して忘れない。少女は強く強く、心の底で繰り返す。好きだと言ってくれた今の彼を、背に回る腕の強さを、全てを受け入れてくれる途方もない優しさを、傷跡でもいい、残しておきたい。傷だなんて思わないから、目に見えなくとも、体に刻まれた証として、一生残しておきたい。
今この瞬間、ひとりではない、ひとりとひとりでもない、ふたりなんだ。ずっと願っていた、祈って諦めて、ひねくれて、それでも本当は幾年も叫び続けていた。ひとりではいたくない、誰かに、抱きしめてもらいたい。それが今は、自分の愛する相手がいて、その相手までも、自分を好きだと言ってくれているなんて、夢を見ているようだった。夢ではないのだと、少年の存在は、確かに語っていた。