朝焼けの街
早朝の薄闇の中、目を伏せて言葉を呟くだけの少年が、ようやく笑顔を見せたその日から、少女はいくつかのことに気がついた。
彼の目は、暗いのではない、深いのだ。黒々とした水面のような瞳の奥は、海の底の様に深かった。少女が前髪を通して覗き込むと、自転車にまたがったままの彼は、深海の瞳で瞬きをした。しかし、何も言わない少女が、自分を見ているのではなく、見つめているのに気がつくと、途端に目を逸らし、頭を下げ、慌てた風に右足を踏み込んでしまった。
相変わらず、安い缶コーヒーを手に、会話をする時間は三分にも満たない。誤差を一二分しか許さない、新聞配達の少年がやってくる五時半という早朝は、眠る時間が定まらず、真夜中や夜明けにようやくまどろむ彼女が起き出すには、あまり適さない時間だった。隣の部屋で眠る母を起こさないよう、目覚まし時計ではなく、小さな音で短時間だけ鳴るように、スマートフォンのアラームをセットしたことを、少女はきまぐれと呼んだ。五時二十分。この時間には、喉が渇くんだ。麦茶や牛乳では満たされないたぐいの、体に悪い味を求める時間。八十円の自販機の味を、体が勝手に覚えてしまったのだ。誰にも求められない説明を、自分に言い聞かせた。
少女にとって、朝は憎しみの象徴で、待ち伏せている今日という一日を考えては、夜明けを恨み、あらゆる結末を妄想した。予想されなかった大地震で全ての生活が覆る瞬間や、点滅の青信号で四トントラックに撥ねられる確率、人を刺し殺すのに最も手軽な体の位置など。現在の日常を一瞬で壊す方法を思い浮かべるのが彼女の日課と憂鬱だ。
しかし、鳴り始めたアラームを切ると、その日課の前に、少女はひとつのことを思いだした。今日は、なにを話そうか。体から毛布をはぎ、目をこすって、コーヒーに溶けるミルクのように、緩やかに差し込む朝日をカーテンの隙間に感じながら考えた。
家のことなどつまらない。学校のことなど、思い出したくもない。そうだ、それなら聞いてやろうか。あいつはいっつも真面目に答える。中三のくせに。反抗期のはの字もない。
全ては缶コーヒーのため。そうして少女は、階段を降りる。
五月も終わる季節になると、出会った約ひと月前より、朝の光は少しだけ強さを増し、夜から力を奪い始めた。それでも性懲りもなく居座る霧のような夜を、タイヤが切り裂く音が響く。
「おはよ」
しつこい低血圧のせいで、わざわざ外に出てくる少女の声に覇気はない。
「おはようございます」
自転車を止めて答える少年の声も小さく、夜明けの邂逅は短く囁かで儚い。ほんの数分、飲み物を買うついでの時間、ふたりは言葉を交わした。
「よくやるよね」
美味しくなどない缶の中身を煽り、新聞を取り出す少年に少女は言った。
「雨の日なんか大変なんじゃない」
「大変です」
彼はにこやかではない。少なくとも、いつも笑顔で元気いっぱいの少年には程遠い。だが、無闇に視線を逸らしはしなくなった。そのことから、この少年が、あの日公園で隣にいたのと同一人物であると少女は確信し、彼の本当の姿を考えた。表と裏、本音と建前、必ずこいつにもあるはずだと、少ない思い出を手繰ったが、紐の先に答えは結びついては来ない。試しにからかってみても、皮を脱いで嫌悪を向ける兆候すらなく、憮然とした表情さえしても、怒った姿など一度も見せてはこない。
「滑って転んだりしたら、もう……」
「死にたくなる?」
「そこまでは……」
ちょっとだけ笑ったと、少女は彼の頬が僅かに上がるのを見た。塀にもたれ、半分コーヒーの残った缶を右手に下げてふらふらと揺らし、新聞受けに腕を伸ばす少年を眺める。
「楽しいの、新聞配達」
「……楽しいとかは、あまり、ないですけど」
「楽しくもないのに、よくやってんね」
「悪いことだけじゃ、ないから」
少年の深い瞳が、彼女に向けられる。呟くような声量でも、彼の声は下に落ちず、穏やかに彼女の鼓膜を叩く。
「冬のまだ暗い時間は特に、専売所に行く途中の丘の上から、星が綺麗に見えるんです」
「星なんて、晴れてればいつでも見えるでしょ」
「特別です。それに、この先の坂の上から、振り返ったら朝日が見えて、街が照らされていって……。なんだか、この世界に、自分しかいないって気がして」
彼が前髪で隠す目を見つめると、心に思い浮かべるその光景が、まさにその中に見える気がする。
「みんなが眠ってて、この景色は、ぼくしか知らないんだって。ぼくだけの世界だって、思って。すごく綺麗で。後ろに白い三日月が上ってると、それだけで、十分で」
朝と夜の境目の、静謐な世界。足元に広がるこの街を、少年は一人で眺める。空には、型抜きされた月の跡。少女が憎む朝を、少年はそうして見つめている。自分しか知らない、誰の声も姿もない、孤独で美しい世界の様相。夜の星空を、冷たい空気を、迎える朝焼けを、薄まる月の影を、新聞配達の少年は、全身で受け止める。
言葉を交わす時間はそれがせいぜいで、少年はサドルから下りることもなく、間が空けばいつものように軽く頭を下げて、行ってしまう。全ての人間に横顔だけを見せ、自分だけが知る世界へ向かい、潜るように消えていく。毎朝。飽くことなく、毎朝。
少女の気まぐれは毎朝は続けられず、元々の不眠は底意地悪く身体を支配し、小さなアラーム如きでは瞼を開くに至らない日もあれば、世界への嫌悪が嵩ましし、苛立ちに潰される日もあった。特に、天井板を見上げた数時間後など、疲れ果てた身も心も、起きあがってたまるかとごねて仕方がない。それでも、夜行性の彼女にとって、飛び飛びであれど早朝の起床は随分とした快挙だった。憎々しい朝のはずなのに、ともすれば、彼の言った景色を見たいとさえ思った。頼めば、彼は連れていってくれるだろうか。自分だけの世界を、ほんの少しでも見せてくれるだろうか。誰も知らない、深海の瞳を持つ彼だけが、一人きりで潜り続ける世界を。
馬鹿馬鹿しい。思う度に、彼女は自分で自分を笑う。所詮はただの景色の話、網膜に写る像のこと、視神経が脳に伝えて見せているだけのもの。あいつは多分、年の割に感受性が子どものままなんだ。誰かに笑いながら、少女はアラームを止める。