手話と公園 1
苛々する。苛々する。見上げる空は、青くて高い。当てつけか。あの木板の天井が見えれば、数を数えて誤魔化せるのに。
二十分ほど乗った電車を降りて歩きながら、鞄から取り出した赤いケースのスマートフォンで、彼女は時間を確認し、画面の緑色のアイコンに数字が点っているのに気がついた。またクラスの連中の誰かがメッセージを送っているのだろうか。とても見る気になどなれず、少女はそれを鞄に突っ込んだ。多数の人間に同時にメッセージを送りあえるアプリケーションは、その便利さから、実質学校の連絡網として使われているおかげで、不用意に消すことができなかった。何も知らずに学校へたどり着いた後、今日は休校ですと張り紙をされていては堪らない。
少女にとって、緑色のアイコンの役割はそれだけで、彼女自身がクラスメイトに向けてメッセージを書き込んだことなど一度もないが、クラス全体用と、女子専用のグループでのやり取りは、カースト上位の人間のおかげで、時折動いていた。
その内容など見た瞬間から忘れてしまう彼女は、自分を除いた連中同士のグループが存在することぐらい楽に見通していた。今頃は、さぞかし愉快に、さっきのやり取りの詳細が書き込まれているのだろう。
くそったれ。吐きたくなる唾を堪え、滲み出る汚い想いだけを千切って、彼女は地面に放った。胸の奥を、極太のマジックで、ぐしゃぐしゃに塗りつぶされている気分だ。擦っても落ちない真っ黒な油性のやつで。
中型の犬を連れた若い女とすれ違う。いかにも雑種の犬ですね、さぞ頭も悪いんでしょう。そう思った。
奇声をあげて走り回る子どもたちが追い抜いていく。少しは大人しくしろ、いっぺん轢かれないとわかんないのか。そう思った。
二十歳そこそこのカップルが手を繋いでのろのろと歩く。周りを見ろ、恋人繋ぎなんかしやがって、どうせ来年までもたないだろうに。そう思った。
彼女の中で、どくどくと汚い想いが溢れていた。道を歩く若い母子が、大学生風の青年が、初老の女性が、ひどく幸福な存在に見えてしまい、憎らしさに見上げる度に心の奥で罵声を響かせた。いっそみんな死んじまえ。消えていなくなれ。
これではいけないと、道端のポストを殴りそうになり、少女は帰る道を変更することにした。普段は真っ直ぐ行き過ぎる道を、一つ手前で左へ折れる。このまま帰ってしまえば、家に帰ってきた母親に八つ当たりして、ドメスティックバイオレンスに陥りかねない。不幸にもあの叔父が姿を見せれば、怒りに我を失い包丁で腹を突き刺してしまう。ここまできて、そんな不手際はごめんだ。わざと大きく深呼吸をし、真っ青な五月の空を分断する飛行機雲を見上げ、頭を軽く振った。
遠回りになるが、無駄に犠牲を増やすよりはずっとマシだろうと、幾分人の減った住宅街を歩きながら、彼女はふと目を凝らした。そのまま歩を進めて近づいても、相手がこちらに気づく様子はなかったが、彼女にとっては十分に見覚えのある横顔だった。
「何してんの。誘拐現場?」
唐突に少女が投げかけた言葉に、人通りのない道に片膝をついていた少年は驚いて顔を上げた。真っ白のシャツに、黒い長ズボンの制服姿を、少女は初めて見たが、白いエナメルの通学鞄を肩から下げている格好は、成る程、どこからどう見てもただの男子中学生だ。
開かれた小さな手帳と細いペンを持った彼の両手の先には、まだ幼稚園でも年少の時期だろう、小さなビニール袋を持った幼い女の子が立ち尽くしている。今にも泣きそうに顔を歪めているあたり、彼の仲良しではなさそうで、彼自身も困りきった表情をしている。遠目からでも、彼が何やら身振り手振りで女の子に話しかけているのは見えた。覗き込んだ手帳の真っ白なページには、「どうしたの?」と丁寧な字で書かれていた。
「あの、多分、家に帰れなくなったみたいで……」
普段新聞を配っている時とは異なる種類の、自信なさげな声色で、彼は彼女を見上げる。
「多分って、どういうこと」
「それは、えっと……この子、多分、耳が……」
彼は口ごもるが、そういうことかと、少女は納得した。まだ読み書きもできない年齢ならば、意思の疎通は困難を極めてもおかしくない。いくら紙とペンを差し出されても、この子は自分の思いなど伝えられないだろう。
突然増えた知らない誰かに対し、不安を一層募らせる女の子の方を向いて、軽く屈むと、少女は今日初めての自然な笑顔を見せた。そうして、立てた人差し指を左右に振ってから、女の子に差し出すように手を向ける。
それを見ると、目に涙をためた女の子は、ぱっと目を見開き、小さな両手を動かしだした。
「あんたが言いたかったこと」
理解が追いついていない少年の方をちらりと見やり、少女は軽く言い放つ。そうして始まるやり取りを、目を丸くして見ていた彼は、少女が手の動きを止めるとようやく口を開いた。
「手話、できるんですか」
「まーね。この子、お使い行ってて、ちょっと遊びに行こうとしたら、家が分からなくなったんだって。……郵便局、近くにあったよね」
彼女の言葉に、地面に膝をついたままの彼は頷いた。
「そこの裏、本屋さんと……お菓子屋さん?」
少女が手を使って確かめると、女の子はこくこくと首を縦に振って肯定する。
「私、詳しくないんだけど、すぐそばだって。行ってみれば分かるかな」
「そこなら、通ったことあるから、分かります」
幾分ほっとした風の少年が先導するのに、少女は縋るようにくっついてくる女の子とついて行くことにした。目の淵の涙をようやく乾かし始めた幼い子は、ろくに前も見ず、話しかけてくるから危なっかしくて仕方がない。
通りすがる自転車に轢かれないよう、軽く頭を押さえて少女が女の子を引き寄せると、数メートル先を歩いていた少年が立ち止まった。同じように右手を見ると、玄関前に立つ背の高い木に隠れがちな建物が、郵便局という三文字を掲げていた。
「こっちです」
彼が指差す方向には、見落としがちな狭い路地裏がある。静かな住宅街では、それはまるで、異なる世界を繋ぐ通路のようだ。
現れた砂利を踏んで歩いて路地裏を抜けると、平屋の建物が入口のガラス戸を大きく開け放っていた。古本屋だろう、中では堆く積み上げられた文庫本が、今にも雪崩を起こしそうになっている。
二三軒、一般住宅を通り過ぎると、次は古ぼけた小さな店が現れた。今時非常に珍しい、駄菓子のみを扱っている店だ。一つ百円に満たない小さな菓子が、ガラスの向こうで綺麗に整頓されて並び、軒下には、硬貨を入れればランダムにおもちゃが出てくる機械が数台、静かに肩を並べている。これは、小さな子どもは特に喜ぶだろう。現に、少女の傍らに居る女の子が手首から下げている小さな袋には、軒先に掲げられている看板と同じ名称が印字されていた。
「あ、ちょっと、危ないから」
途端に駆け出す女の子に、少女は慌ててついて走る。先程までの悲しげな様子は何処へやら、女の子は子どもらしく目を輝かせ、更に数件先を右手に逸れた。
四階建ての小さなアパートが、その子の家のようだった。駐車場へ駆け込み、我が家の姿を目にすると、立ち止まった女の子は元気に飛び跳ねて振り返る。喧騒のない静かな空間で、軽いビニール袋がカシャカシャと鳴る。
もう大丈夫かと少女が尋ねると、嬉しげに体を揺らしながら、大丈夫だと答える。胸の前に出した小さな左手の甲を、右手で軽く叩く。
「ありがとうって。よかったね」
横に突っ立ったまま、見慣れない光景を眺めている少年に、少女は教えた。いつも伏せさせている目を、珍しくきちんと上げている彼は、その目を丸くして少女と女の子を交互に見る。
じゃあねと少女が手を振ると、同じようにした女の子は踵を返そうとくるりと体を回転させた。
「待って」
彼が足を踏み出すのを見て、女の子は背中を向けるのをやめて振り向く。普段より少し大きな彼の声に、いきなり何だと、少女も目を見張る前で、少年は数歩歩くと、女の子の前で膝をついて目線を合わせる。
そのまま彼は、肩から下げた通学鞄のチャックを開き、手を突っ込んだ。ガサガサと袋の擦れるような音に、何事かと少女も上から覗き込む。ノートや教科書の隙間に入り込んでいるビニール袋から、彼は更に小袋の連なりを引っ張り出した。
五つの小袋から一つを丁寧に千切る。指先ほどの大きさをした、クリーム色の粒がいくつか入っているそれは、少女も遠い昔に口にした記憶のある、卵ボーロだった。
残りを元通りにしまうと、彼はその一つを、女の子に差し出した。躊躇いがちに伸ばされる小さな手が駄菓子を握る。
「泣かないで、えらかったね」
伝わらないもどかしさを忘れるように、少年は頬を軽く上げて目を細めた。それは、幾度早朝に顔を合わせても、彼が一度も少女に見せなかった笑顔だった。
女の子は、貰っていいのかと逡巡していたが、彼の隣に屈んだ少女が手を動かして彼の台詞を伝えると、五月の青空のような屈託のない笑顔でそれを受け取った。
ありがとうと再び礼を伝えた幼い女の子が、軽い足取りで駆けていく様子は、まるで無邪気な蝶々のようで、少女も頬を小さく上げて、それを見送った。
「おやつ買いに行ってたんだけど、冒険したくなったんだって」
郵便局のある元の道に戻り、少女は、自分だけが聞いた話を、隣を歩く少年に伝える。
「大胆だよね、まだ文字も書けないのに」
やれやれと、大げさに両手を体の前で開いて見せた。
「多分、生まれた時から、聞こえないんだろうね。すっごく上手でさ、喋るの早すぎて、半分くらいしか分からなかった」
少女の意外な告白に、少年は驚きの色を見せた。
「そうなんですか」
「まあ、最低限しかわかんないからね、私も」
「でも、ぼくには一つも、わからなかったから……」
「それが普通じゃない? 大抵さ」
軽く笑う少女に、少年は少し迷うように、掬い上げた視線を向ける。
「あの、どうして、手話できるんですか」
彼の疑問は、彼女の台詞を踏まえれば、当然のものだった。短い横断歩道の赤信号で立ち止まり、少女は左手で軽く自分の左耳をつつく。
「あたしも、こっち側悪いからね」
え、と少年が声を詰まらせる。
「右はちゃんと聞こえるけどさ、普通に。補聴器ってわかる? 左は入れてんのよ。年寄りくさいでしょ」
咄嗟に、彼は首を横に振った。信号が青に変わり、少女が歩き始めるのに慌てて歩調を合わせる。
「でも、いつも、普通に喋ってるように見えて……」
「聞こえないわけじゃないしさ、単に悪いってだけで。ちょっとした事故ね。そんで、昔少しだけ勉強したのよ。もし朝起きて、右まで悪くなっちゃってたらさ、何も言えなくなるのかとか考えて、怖くなったのね。今んとこ、そうなる兆候なんてないし、もう飽きちゃったけどさ」
少女の左耳は、音を拾うことに幾らかの困難を覚えてしまうが、全く聞こえないわけではない。しかし、当時、以前よりも遥かに聴力が落ちてしまったことに、言い知れない不安感を抱いたのは確かだった。
「どう、手話のできる女子高生って。暗くない?」
黙って聞いている少年を、少しからかうように、彼女は口元で笑う。
「いえ」
だが、彼女の自虐にも満たない笑みに、彼は首を横に振った。
「あなたが話してくれて、助かりました。ぼくだけだったら、もう、交番まで連れて行くしかないと、思ってましたから」
そうすれば、あの子はきっと、更に怯えて挙句には泣いてしまっていただろう。迎えに来る親に、勝手な冒険を知られて叱られるかもしれない。彼は、そんな未来を望んではいなかった。
どんだけ真面目なんだ。少女は若干の呆れと共に、彼は間違いなくいつも新聞を届けてくる相手だと思い直す。だが、今目の前にいる少年の目は、伏せられてなどはおらず、しっかりと彼女の姿を映していた。