89.良かったと
二畳ほどもある巨大な鉄板の上には、食べやすい大きさに切り分けられたステーキ肉が乗っている。
6人分の肉は両面がしっかりと焼かれているが、中は赤みが残る程度にレアだ。
その絶妙の焼き加減が損なわれないよう、既に鉄板からは取り除かれて皿の上に乗せた6枚切りくらいの食パンに鎮座している。
鉄板をぐるりと囲むように肉が置かれているので、自然と食卓を囲むような座り方になった。
四角い鉄板の一辺に着くと、右隣にイサナが座ってくる。正面にはモカさんと妹が座り、向かって右側に季節王が気難しい顔をしながらも着席をしている。
そういえば安田君はどうしたのかと思ったところで、ストンッと軽い音を立てて安田君が落ちてきた。
今もなお崩壊した季節城はゆっくりと落下し続けているが、落下するものの上に落ちてくるとはなかなか器用な真似をする。
「あいたー。ひどい目にあったよ」
尻をさすりながら立ち上がった安田君がこっちに気づいて左側の席に座った。
「何これ、ステーキ?」
「昔、安田君が奢ってくれたステーキだ」
このステーキを食べたときの衝撃は今でも忘れることができない。
この世で最も美味いと思えるものの一つだ。
箸を手に取り、パンの上に乗っている肉片をつまみ取り、手元の皿の上に乗っている粗塩に軽くつけた。
赤く輝くルビーのような肉の上にダイヤモンドの如き塩が輝き、その魅力を何倍も引き立たせている。
香りを吸い込むように大きく鼻で呼吸をしてから、肉の半分ほどを口の中に入れておもむろに噛み切った。
ガツン、と。
ボクシングのヘビィ級チャンピオンに殴られたような衝撃に襲われる。
力を入れずとも噛み切れる柔らかい食感を感じとると共に、叩きつけられる肉のインパクト。
ただひたすらに「牛肉」であるという主張が味蕾からつきぬけて脳天を駆け巡る。
それでいて舌で感じる味覚は脂の甘みを、優しく脳髄に伝えた。
これが牛肉。
これこそが真の肉の味であるという無言の圧力。
本能が実感する絶対正義。
まさに本物。
今まで食べてきた肉は全て肉モドキでしかないのだという喪失感。
まるで水で薄めたような、味の薄い肉を食べていたのだという羞恥。そして後悔。
なぜ、この味を今まで食べていなかったのか。人生の損失であるという焦燥感。
この肉を食べるのは二度目であるというのに、まだ一口目だというのに様々な感動が一度に押し寄せる。
「おぉ、これは凄い」
「うわぁ、美味しいですねぇ」
モカさんとイサナも違和感無く箸を使いながらモグモグと肉を食べている。
妹は無言だがひたすら肉を食べているが、その瞳が輝いているのできっと気に入っているのだろう。
安田君は穏やかに肉を味わっている。元々が安田君に連れて行ってもらった店の味だから、何度か食べたことがあるのかもしれない。
そして、季節王は……腕を組んだままむっつりと肉を睨みつけていた。
睨むような目つきだが内心は食べたいのだろう。怖い顔をしているのに口の箸から涎が垂れている。
さっきまで大見得を切っていた以上、立場的に手をつけられないに違いない。
「これは肉を焼いただけだ」
「見ればわかる」
「美味いぞ」
「見ればわかる!!」
季節王はまだ食べないようなので自分の肉に手をつける。
食べさしの肉を口に入れれば、ほろりと蕩けるように口の中で肉が崩れる。
それでいて身が弱いということもなく、噛み締めればしっかりと歯ごたえがある。
その癖、口の中では瞬く間に解け、身に凝縮した肉の甘みがどこまでも放出される。
ただ美味いのでは無い。ものすごく美味いのだ。
これこそが肉の王。逆らえるものなどいない。
少しでも多くの味を奪い取ろうと唾液が分泌される。舌の味覚を感じる部分が覚醒する。
目の前がチカチカと瞬く。人間の原初の欲望が呼び起こされる。肉の味が生物の本能を呼び覚ます。
塩も美味い。
舌先に触れるざらりとした塩が肉の身に溶けてコーティングされる。
薄く張った塩の辛味が肉の甘みを引き立たせ、奥深い旨味がふんわりと鼻腔へと広がった。
華やかで儚い、僅かに含まれる塩のミネラル。そこにも味はあるのだと実感する。
もう耐えられない。
季節王に焼いただけの肉と言った手前、塩だけで我慢しようとしたが無理だ。
薬味皿のおろしポン酢へと手を伸ばし、肉をつけて口に入れた。
痺れる。
ポン酢の柑橘酢が、肉の旨味によって広がりきっていた顔面の神経を引き締めた。
甘く、酸っぱい。爽やかに鼻先をくすぐる香り。引き締まっていた唇が再び緩む。
大根おろしのさっぱりとした食感が強力な肉の味を洗い流し、口の中をしゃっきりさせる。
口の中に残らせない見事な連携に、いま口の中に入れたものは幻だったのでは無いかと錯覚する。
確かめる為に、もう一度おろしポン酢をつけた肉を口に入れれば、また痺れてしまう。
何度食べても止められない。
そして中毒症状のようになった手が求めるのは柚子胡椒だ。
皿に盛られた柚子胡椒を、肉の上に乗せて落とさぬように慎重に口に運ぶ。
まず最初に舌が触れるのは肉。直後に柚子胡椒。
目から光線が出た。
人間は美味いものを食べた時、本当に目からビームが出る。
叫びこそしなかったが、不可視の光線が目から口から膨大なエネルギーとなって放出される。
美味い
心の声は周囲に伝播するように、全員が放心して中空を見上げた。
ただひとり、肉を口にしていない季節王のみが俺たちを見てソワソワと様子を伺っている。
「王よ、食べないのですか」
ふいに黙って食べていたモカさんが口を開いた。視線の先は手つかずのステーキだ。
季節王は目線を肉から逸らさずに口ごもる。
「こんな肉を焼いただけのものを……」
「では貰ってもよろしいですね!」
モカさんが返事を切るようなスピードで季節王の目の前にある肉に手を伸ばした。
「あ、待ってください。私も欲しいです」
釣られて妹も肉を取らんとステーキ肉に手を向ける。
「じゃあ俺も」
「せっかくなので私も」
貰えるのならば、と安田君を除く全員が手を伸ばしたところで上から強く手を叩かれた。
「だ、だめだ!! これは儂が食べる! 貴様らにはやらん!」
季節王が守るように腕で肉を隠した。だったら意地を張らないで最初から食べれば良いのに。
誰にも取られぬよう、急いで肉を口に入れた季節王はほぅと息を吐くと魂が抜けたように空を見上げた。
「これが……これは……今までの……なんということだ」
その呟きは本人にしか意味は分からないだろうが、何となく気持ちは察することはできる。
その後は無言で肉を食べ続け、時折薬味に手を出しては驚愕に目を見開いていた。
自分の分の肉を食べ終えてしまい、手持ち無沙汰となる。
周囲を見ても遅れて食べ始めた季節王以外はもうすぐ食べ終えようというところだった。
後に残っているのは肉汁の染み込んだ食パンが一枚。
「あ、これ私がやってもいい?」
黙々と食べていた安田君が立ち上がって食パンを鉄板の上に乗せた。
やはり前にも食べたことがあるのだろう、本当はプロの店員が焼くのだが今はいないので安田君に任せてみる。
いつの間にか確保していたバターで食パンの両面を焼き、斜めに半分に切るとその上からシナモンパウダーと砂糖を振りかけた。
程よくトーストしたところで自分の皿に帰ってくる食パンは、甘いシナモンの香りが芳しい
季節王以外のパンを焼き終わると安田君が座り直し、それを合図に皆が一斉にパンを食べはじめる。
「ふぁぁ」
「ほぉおう」
イサナとモカさんが声を上げるのを聞きながら自分のパンを口に入れる。
極上の肉汁が十分に染み込んだ食パンは、それ自体がひとつの肉であるかのような旨味を孕んでいる。
さらに砂糖とシナモンが絡み合うことで菓子のような食味を生み出し、簡易でありながら奥深いミートパイへと変貌する。
しゃりしゃりと砕ける砂糖の歯ざわりは心地よく、さっくりと軽く、じっくりと味わい、しっとりと食後を締める。
こちらがパンを食べ終わると同時に最後の肉に手をつけていた季節王が、恨めしそうな顔で安田君を見た。
「あー、なんだ」
「なに、どしたの」
要件は分かっているのだろう、ニヤニヤと笑いながら安田君が聞く。
「今までのことを謝る」
「そうなんだ。私が悪いのに?」
「こちらも大人気なかった」
「じゃあ、お互い様だね」
「だから、ひとつ相談なのだが」
「いいよ」
季節王が下手に出てきたことで満足なのか、安田君は笑顔で季節王のパンを鉄板の上に乗せて焼き始めた。
数分でトーストを完成させると、それを皿の上に戻して季節王差し出す。
「パンを焼いただけのものです」
「もういい。儂が悪かったからやめてくれ」
安田君がいたずらっぽく笑い、季節王はバツの悪そうな顔で皿を受け取った。
季節王は満足げに微笑みながらサクサクとトーストを食べ、それが終わる頃に城の残骸が地上へと到着した。
「いやぁ、見事になくなりましたね」
妹が巨大な木の枝から降りて周囲を見渡す。
空に浮かんでいた城は周囲の僅かな木を残して、全てステーキ肉になってしまったようだ。
沢山いただろう兵士の姿もどこにも見えない。
「ところで、ここはどこですか」
城に乗ったのは王都の学園の上だったはずだが、この周辺を見る限り王都の影は見えない
季節王なら分かるかと見てみたが、残念そうに顔を振るだけだった。
「あの、今更ですけどお城を無くしてしまって大丈夫でしょうか。まだ夏を迎えていない国があるんじゃ」
イサナが心配そうな顔で尋ねると、そちらには微笑んで頷く。
「案ずるな、門さえあれば城だけなら2日もあれば作れる」
2日で作れる城というのは、どんな突貫工事で作るのだろう。
妹が買ってきた姫路城のプラモデルでももう少しかかった気がする。
「門というのは?」
「城の根源となる神具だ」
「えっと、それはどこに……」
見る限り、そんなものは一緒に落ちてきていないようだ。
もしかすると城と一緒にステーキになってしまったのかもしれない。
「門は私が持っている。城が空に戻れば現在地も分かるだろう」
懐に入る門とはどんな物なのかと見せてもらうと、手のひらに収まる金属製の輪だった。
「これでどうやってお城を?」
「見ているといい」
季節王が輪を持った手を前に突き出すと輪が光を放つ。それを放り投げると、輪が大きく広がりながら地面に落ちた。
手に乗るサイズだった輪があっという間に乗用車がすっぽり入るくらいの大きさになる。
投げた後も光は収まらずに輪の中へと集まると、シャボン玉を作るときの膜が張ったように空間が歪んだ。
歪んだ空間からせり上がるように、次々と鎧姿の兵士が姿を現してくる。
「城の材料もここから出てくる。城を覆っていた植物や、周辺の国に巻いている肥料もここから出したものだ」
城の兵士はここから呼び出したものだったらしい。
それにしてもステーキを食べてからの季節王の態度が随分と軟化している。
「今日中には寝泊まりする部分が出来るだろう。お前たちは邪魔になるから離れていなさい」
不機嫌そうだった態度から一転、見た目こそ若いものの好好爺のような態度になっている。
城を失くしたショックでボケ始めているのではないかと心配になってきた。
「そうだ、ユニコーンを呼んでやろう。モカはあれが好きだったろう」
「え、季節王それは」
「遠慮するでない」
「そうではなく、王よ! やめてください!」
必死に止めようとするモカさんを他所に、季節王が地面に置いていある輪へと意識を向ける。
「お前はユニコーンに好かれているからな」
「王よ、その話は……」
「今でも思い出すぞ、お前の周りにユニコーンが集まって」
「その話はやめ……! やめてくだ、やめろじじい!」
季節王へと詰め寄っていたモカさんが季節王の首根っこを捕まえて引き摺り倒した。
前にもイーズィさんを投げ飛ばすのを見たことがある、何か武術の覚えがあるのかもしれない。
あまりの出来事にモカさんを凝視すると、こちらに気づいて気まずそうに視線を逸らした。
「あ。いや……違うんだ。何というか」
挙動不審な態度で首を左右にふり、何かを諦めたように俯いてから季節王に指先を向ける。
「隠していたわけではないんだが……祖父だ」




