02.魔術書
イサナにスクロールの具体的な説明を求めると、すらすらと説明してくれた。
「例えば、火の魔法を封じ込めたスクロールは、いつでもどこでも火の魔法を呼び出せます。水なら水、風なら風の魔法を持ち歩けます」
なるほど、便利なものらしい。
「他にも、魔法の道具や魔物を封じ込めることも出来ます」
「魔物を封じ込めるっていうのは、もしかしてさっきの」
「はい、シンタさんがオークをスクロールに封じ込めたのがそうです。
専用の道具を使うと、呪文で封じ込めることができます」
「専用の道具って、この包丁のことか」
「えっと、多分そうだと思います。杖や剣の物は見たことがあるのですが、包丁の形は初めて見ました。
魔力の流れ方が似ていたので、とっさに叫んでしまいましたが、当たっていたようです」
何だか色々詳しく教えてくれた。これもこの世界では常識なんだろう。
「じゃあ、さっきの紙片はスクロールというやつで、あの豚が封じられてるのか」
「普通はそうなんですけど、スクロールに書かれている呪文は、初めて見るんですよね。
今までに見たことの無い文字で、これを解読しないと中身は分からないです」
「これ、カツ丼だろう」
「え?」
イサナがスクロールと呼んでいる紙片には、どう見てもカツ丼のレシピが書いてあった。しかも日本語で。
「これが、読めるんですか?」
「うん、まぁ」
「何が書いてあるんですか?」
「カツ丼って……俺の故郷の料理のレシピ。超美味い」
「……料理?」
イサナは眉を寄せて困惑する。こればかりは常識外のようだ。
「料理は、普通はスクロールには無いのか」
「無い、ですね普通は。基本的には書かれている内容に沿ったものが呼び出されるんですけど」
今のは聞き捨てならない。
「じゃあ、もし。これが、本当に、料理のスクロールなら」
「は、はい」
「ここに書かれてる料理を、呼び出せるんだな」
「初めてなので分かりませんけど、他のスクロールに当てはめるなら、多分。
呼び出せると思います」
カツ丼が呼び出せる。天恵だ。神は俺を見捨てていなかった。
「呼び出してくれ、すぐに!」
「え、本当にいいんですか? もしかしたら違うかも」
「最悪でも、あの豚がまた出てくるだけだろ」
「その場合でも魔物を使役することが出来るので、襲われることはありませんが」
尚更構わない。ガンガンいこうぜ、だ。
「私はこのスクロールを読めないので、シンタさんに呼び出してもらいますことになりますけど」
「イサナさん、呼び出し方を教えてください。お願いします」
イサナは何故か嬉しそうな顔をしてスクロールをテーブルに広げる。
「スクロールに手を当てて、呼び出すものを強くイメージしてください」
「おう」
卵で綴じられた豚肉を想像する。
甘辛い出汁で味が付けられて、ご飯の上に乗っている。
揚げたてのカツは、中から肉汁が滴り落ちる。
あぁ想像してるだけなのに、腹が減ってきた。
「対象の名前を、声に出して呼んでください」
「かつどん!」
テーブルに広げられたスクロールが輝いたかと思うと、室内が光に包まれた。
思わず目を閉じてしまう。
恐る恐る目を開けると紙片は無くなり、代わりに水色の縞が入った丼が置かれていた。揃いの蓋に木の箸までついている。
この器の感じ、良くあるカツ丼の器だ。本当にカツ丼を呼び出したのか。
陶器の蓋を開けると湯気が顔を包む。
卵の柔らかい甘みと、喉の奥を刺激する出汁の風味。
卵に包まれた肉に添えられた三つ葉の爽やかな刺激が、全体的にやんわりとした香りを引き締めている。
立ち上る湯気が晴れると、そこには黄金色の世界がある。
両手にすっぽりと収まるくらいの、底の深い陶器の器。
その中に広がる黄金郷。震える手で箸を握り、そっと伸ばす。
まずは、そう。何が無くとも肉だ。
丼の中に綺麗に並んでいる、卵で綴じられたカツをつまむ。
半熟の卵が、とろり、と肉の上を滑り落ちた。
そうだ、これはカツ丼だ。何で行儀よく食べようとしてたんだ。
一度、肉を離して左手で丼を持ち上げる。顔の前まで引き寄せる。
逃げ場の無い香りが鼻腔を襲う。早く、とねだるように、腹が鳴った。
「いただきます!」
先ほど離した肉を再度つまむ、思い切り齧り付く。
卵を纏ったカツの衣は、ザクっとした食感を保ったまま噛み切られる。
肉は驚くほど柔らかい。噛むたびに染み込んだ出汁が溢れてくる。
3度咀嚼し、耐え切れず飲み込んでしまった。
「……ぁ」
思わず声が漏れる、まだ飲み込むつもりは無かったのに。
気を取り直して二口目に手を付ける。
次は、米だ。
出汁と卵に浸ったご飯が妖しい輝きを放つ。
吸い寄せられるように、箸の先にちょこんと米を乗せる。
間違いなく、この米は俺を誘惑している。
文字通り据え膳に違いない。口の中にそっと入れた。
ほろりと米が解ける。同時に米自体の甘みが口いっぱいに広がる。
甘い。懐かしい米の甘みだ。
それが卵を纏っているのだから、たまらない。
そっと、やさしく米を噛む。
ささやかな弾力で押し返してくる。
それを無視して、噛み締める。
じわり、と甘みが増す。
もう、止まらない。
カツを摘み、大口を開けて放り込む。
咀嚼すると肉汁が舌の上に零れ落ちる。
すかさず、米を頬張る。
衣の食感が肉の柔らかさを引き立てる。
卵の柔らかい甘さが、肉汁の旨みを倍増させる。
自己主張しない白米が、濃い味の出汁を染み込んだ肉を
絶対的な高みへと押し上げる。
口内で踊り狂う肉の味に翻弄される。
掻きこむ。
丼の底をさらうように、口に押し込む。
手と口が別の生き物のように動く。
ひたすら口に詰め込み、全自動で咀嚼する。
舌は味蕾をフル稼働させて脳に情報を送る。
丼は、あっという間に空になった。
「……ほふぅ」
水を飲んで、やっと落ち着いた。
「あの、どうでした?」
イサナが話しかけてくる。今まで何も言わずに、俺が食べるところを見ていたらしい。
邪魔してはいけないと思ったのだろうか、不安げな顔をしている。
「成功だ。間違うことなきカツ丼だ」
イサナの顔に喜色が浮かんだ。
「凄いです! こんなの本にも載ってないし、話にも聞いたことありません!」
椅子から立ち上がって大喜びしている。
今更だが、イサナは結構可愛いらしい顔立ちをしていた。
今までよほど切羽詰っていたんだろう。
初めてまともにイサナの顔を見た気がする。
くりっとした大きな目は好奇心が強そうで活発さを感じる。
ブラウンの髪の毛を丁寧に三つ編みにして左側の肩から垂らしていた。
飛びぬけた美人ではないけど、親しみの持てる愛嬌のある可愛さだ。
何となく村娘だと思っていたけれど、どことなく上品な雰囲気を漂わせている気がする。
農作業をしているようにも見えないし、もしかするとここは別荘地みたいな場所でイサナはどこかの才媛なのかもしれない。
「イサナは詳しいのか。スクロールのこと」
「はいっ! 私、これでも王立の学士なんです!」
よく分からないけど凄そうだ。
「それは、どういう……」
「あ、えっと。国で一番大きい、魔法を研究するところで、
魔法の才能がある子は17歳まで国の援助を受けて魔法を学ぶことが出来ます」
国立大学で特待生とか、そんな感じだろう多分。じゃあ結構凄いのか。
「この家は、その王立の機関の寮みたいな場所なのか。
俺は、ここにいたら拙いか」
「ここは違います。王都の端っこの村です。
私は、空いてる家を借りて住んでるので、大丈夫です」
何となく学校のような場所をイメージしたけれど、自宅学習だけでがんばるような、もっと違う雰囲気の場所なんだろう。
「15歳までは、王都の中の宿舎で一緒に生活するんです。
それで、そこから2年間は自分で研究をして何か結果を出さないといけないんです。
図書館に通いつめて魔術理論を研究する人もいますけど、大体の人は王都を離れて迷宮に入ります。
迷宮に入れば、古代の魔法道具が沢山落ちてますから。
珍しげなものを見つけて、その使い方を解明すれば晴れて免状を貰えます」
卒業試験、卒業研究のようなものらしい。
「じゃあ、この包丁があればイサナは免状がもらえるのか」
「いえ、スクロールの文字も読めませんし、まだ研究する必要があります。
遠い国から迷宮に迷い込んだシンタさんが読めるのも、何か関係がありそうですし。
この1年間、何も進展が無かったんで、半分くらい諦めてたんですよ。
本当にシンタさんは色んな意味で恩人です」
それはいいんだけど、俺は家に帰れるんだろうか。聞いてみた。
「えっと、私がダメでも王都には優秀な研究者が沢山いるので、私の研究が認められれば誰かが引き継いでくれるはずです」
望み薄らしい。
とは言え、他に頼る人もいない。19歳が16歳に頼るって言うのはどうなんだろう……いや、ダメだ。
「じゃあ、俺は俺で帰る方法を探すから、何か分かったら教えてくれ」
「え?」
また眉を寄せる。イサナは困ったときが顔にすぐ出て分かりやすい。
「どこかに行っちゃうんですか?」
「いや、カツ丼出したスクロールは消えちゃったし、食い扶持を探さないと」
「私、お金ならあります。二人食べるだけなら、何とかなりますから」
「年下の子に養ってもらうわけにもいかない。この包丁は置いていくから」
「シンタさんがいないとスクロールも読めないし、とっても困ります!」
あぁ、そういえばそうだ。
俺もこの世界の常識を知らないし、イサナが日本語を読めないということは、俺もこの世界の言葉が読めないんだろう。
しばらくは、この村で雑用でもしながら知識を身に付けるべきだろうか。
マニ菜みたいのを口にして毒があったらあっさり死ぬだろうし。
「じゃあ、暫くこの村にいることにする。村の空いてる家を借りるとお金かかるのか?」
「そうですね。私は国の支援で無料ですけど普通に家ですから。
借りると結構するみたいです」
それなら野宿でも、まあいいか。
「雑用みたいな、誰でも出来る仕事ってあるのか」
「子供は薪を拾ったりしてるみたいですけど、大人の男性だと狩りをしたり、あとは野菜を育てたり……」
どっちも一朝一夕で稼げる仕事じゃなさそうだ。
この世界についての予習計画が早くも破綻しそうだ。
そうすると、やっぱりどこか違うところに行ってみるしかない。
いや、でも他のところに行っても何も出来ないし。
もしかすると先行きが既に詰んでるのか。
「えっと、あの。シンタさんが良ければなんですけど、この家に滞在して貰って、一緒に迷宮に行きませんか?」
「迷宮って、さっきの洞窟か」
「さっきのトーリ鉱山もそうですけど、この村の近くに他にもいくつか迷宮があるんです。
それで、珍しい魔法道具とかあったらお金になります。
私の研究も進みますし、あと魔物がいたらさっきみたいに包丁で
シンタさんの故郷の料理のスクロールに出来るかも知れません」
それは、結構魅力的な提案だ。空になったカツ丼の器を見る。
オークがカツ丼なら、ミノタウロスがいたら牛丼が食べられるんだろうか。
マニ菜の煮たのを常食するようなら、この世界の食糧事情には期待しないほうが良さそうだ。
何より、この包丁を使いこなせれば食費が浮く。
居住費も浮くが、いいんだろうか。年下の女の子の家に厄介になる。
外聞の良い話ではない。しかし事情が事情だ。
3歳下なら妹と同じだし、そんなに気にしなくても良いだろう。
きっとそうだ。今はそう思っておこう。
「わかった。行こうか、迷宮」
「本当ですか、ありがとうございます。
空いてる部屋は自由に使ってください」
ふいに妹のことを思い出したけど妙に懐かしく感じた。
まだこの世界にきて1日も経ってないのに、長い間会ってないような気がする。
先週もアパートに遊びにきたから、もしかすると今日も来ているかもしれない。俺がいなかったら驚くだろうか。多分、怒るだろう。
この世界と元の世界は同じ時間軸なんだろうか。日本に帰れたとして俺がいなくなった時間の5分後くらいに戻れれば問題は無い。
もし行方不明として扱われたら、あの地獄のような妹は何をするだろうか。考えるだけで胃が痛くなる。
早く帰ろう。心からそう思う。