5-1
赤ん坊が突如しゃべりだすという非現実的な事態を、明良と果歩は理解できなかった。二人はあっけにとられ、沈黙した。思考が停止し、ただただ果歩が抱いている赤ん坊を見つめるばかりだった。明良は眼鏡のブリッジを右手中指でくいっと持ち上げた。
赤ん坊はそんな二人のリアクションに、ハッと一声笑った。
「上島竜平は亡くなってしもうたから、出川哲郎でも良かったか。ワシャ出川哲郎か!」
そう高い声で続けたので、果歩が、
「いや、問題そこじゃないでしょ」
とぼそっと言った。
そのやりとりを端で見てようやく頭の働き出した明良は、反射的に店の厨房を振り向いた。マスターがこの事態に気付くとややこしいことになると思ったからだ。マスターは厨房の中でスツールに腰掛け、縦長に折り畳んだ新聞を読んでいた。明良たちの座る席から厨房はけっこうな距離があったし、マスターは赤ん坊がしゃべりだしたことには気づいていないようだった。
明良が赤ん坊に視線を戻すと、赤ん坊は、
「お姉ちゃんありがとな。でもずっと抱かれてんのもけっこう疲れんねん」
と言ってむくりと上半身を起こし、果歩の膝上でいったんお座りした。それから四つんばいになって果歩の左側にハイハイして行き、空いているソファーの座面にお座りした。明良と果歩はただそれを見守っていた。
「ハッ、鳩が豆鉄砲食らったような顔しとる!」
赤ん坊はいたいけな顔に笑みを浮かべた。
「……なんで」
果歩が哺乳瓶を右手に持ったまま呟いた。これに対して赤ん坊は待っていましたと言わんばかりに、
「なんでしゃべれるかって? そりゃあワシ、人生二周目だからや」
座ったまま言った。声はどこまでもキーキーと高く、その高い声から使われる関西弁が異様な雰囲気を醸し出していた。彼はむちむちした小さな両腕を胸の前で組んだ。笑みを浮かべた顔の上の頭には薄い髪がふんわり載っている。
「バカリズムの『ブラッシュアップライフ』、お前ら観とらんのかい」
「ああ……」
果歩と明良は同時に理解した。明良は再びマスターが気になって厨房を見た。マスターは先ほどから全く変わらない姿勢で新聞を読み続けていた。ガタガタ、店のガラス戸が強風で鳴った。
「簡単に言うとあれやあれ。ワシ、前世の記憶が丸々あんねん。人生二周目やねん。いや、別の人間として生まれ変わっとるから、正確には二周目じゃなく二回目、か。いやあきつかったで、生まれてこちとら八ヶ月か、ずっと黙ってんのも。まあ生まれてすぐはなんや目もよう見えんしよう腹は減るし夜中目が覚めるとむしゃくしゃして泣きとうなるし、しゃべるどころやなかったけれども」
赤ん坊が関西弁をしゃべり続ける世にも奇妙な光景に、果歩と明良はまだ思考が完全にはついていけなかった。黙って赤ん坊をしゃべらせ続けた。
「そんでお前ら」
赤ん坊は続けた。
「頼みがあんねん。ワシを引き取って、しばらく育ててくれへんやろか」