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46 新しい朝


 霞みゆく月を見上げれば、黎明を告げる橙に白い息が浮かぶ。月と星の別れを眺めるサディアの鼻先がほのかに赤く染まる。冷気に晒された指先を絡めると少しばかり温かかった。サディアが自らで暖をとろうと手のひらで指を包み込んでいると、肩に乗っていたフェリクスがとんっと彼女の手元に降りた。

 咄嗟にその小さな身体を受け止めた途端にシマリスのふわふわとした体毛が凍り付いた指先を溶かしていく。


「ジーノはどんな反応をするだろうな」


 シマリスの柔らかな毛の感触に気を取られているサディアにフェリクスが笑いかける。恐らく彼にはもうジーノの反応が目に見えているのだろう。叱られることを覚悟し、どうしたものかと困った顔をしていた。


「ジーノはフェリクス様の決断を尊重してくれます。ですが彼はフェリクス様と仕事をするのが楽しそうでしたから……同時に、少し寂しく思うかもしれませんね。怒ったとしても、それは決して失望ではないと思います」

「そうだと少し心が楽だが……」

「きっとそうです。彼と一緒に働けばすぐに分かります。ジーノの顔に書いてありますから。あなたに仕えることが誇りだと。私もその気持ちは分かるような気がします」

「宮殿で働くのは窮屈ではなかったか」

「いいえまったく。私が入れるはずのない世界を知ることができたのです。戸惑いはありましたが、とても貴重な経験だったと今は思えます」

「そうか。俺も君が言うことは理解できる。もとは俺も皇帝なんて大層な器に適した人間じゃない。運はいたずらだ。巡り巡って手にした機会だからと背伸びをしてきたが、実際のところ不安は拭えなかった。だが光の祭典で花火に照らされた皆の笑顔を見ると、もう少し背伸びをしていたいといつも願った。皆が迎えてくれるなら。迎えてくれる場所があるならば、その期待を裏切りたくはないと」

「フェリクス様……」

「でも今は肩の荷が下りたように気分が軽い。宮殿に戻ったらミンカたちに事情を話す。俺は皇帝を下りる。それが、案外楽しみなんだ」


 くりっとした瞳を輝かせ、フェリクスはサディアを見上げる。


「サディアはどうだ。早朝の街並みは静かだが美しいだろう。これから始まる一日を祝福しているように見えないか」


 フェリクスの問いかけにサディアは清らかな朝靄に包まれた街を見回す。商店も家も扉は閉め切られまだ寝息を立てている。鳥たちが奏でる歌声だけが街に音を与えていた。街が目覚めるにはもう少し時間がかかる。眠っている人たちにしてみればまだ半分、夜みたいなものなのだろう。

 足元に目を向けると、石畳を踏みしめるその行為に多少の違和感を覚える。この時間に人間の姿でいるのはいつ以来か。もはや記憶が遠かった。


「なんだか、まだ、不思議な気持ち」


 サディアがぼそりと呟くとフェリクスの大きな瞳が優しく垂れた。新たな一日を迎えた彼女を温かく見守る眼差しだった。慈愛の滲むその瞳にサディアの控えめな眼差しが向く。


「フェリクス様はこれからどうなさるのですか」

「とりあえず宮殿にはいられないだろう。まだ何も考えてはいないが──この目線で、旅をしてみるってのも悪くはないかもしれないな」

「危険ではないですか」

「確かに君の言う通り天敵は格段に増えてしまった。が、これまでもそうだった。どこにいても結局は誰かしらに狙われる。そう思えばあまり大差はないんじゃないか」

「──心配です」

「はは。サディアには前に助けてもらったこともあるからそう思われても仕方がないか」


 サディアとの出会いを思い出したのかフェリクスは情けなさそうに苦笑する。ダリアニと城跡で別れてからフェリクスはずっと笑顔のままだ。サディアもそれには気づいていた。きっと自分を気負わせないためなのだと。彼の心構えは嬉しかった。だがフェリクスが明るく笑うたびにサディアは胸が締め付けられそうだった。

 自らの手の中で気丈に振舞う小さな彼。できることなら彼を元の姿に戻してあげたかった。けれどその反面、どこか嬉しいと感じてしまう自分もいた。


 フェリクスは皇帝を辞める決意をしている。彼の話を聞けばまだ志半ばだということはゆうに察せられるというのに。そんな悲しい決断をほんの少しでも喜んでしまう自分に嫌気がさした。

 自分はこの国を出る。そして彼もまた、この国を離れるかもしれない。

 想像するたびにあんなに息苦しかった未来が形を変えつつあるのだ。彼とこれからも一緒にいられるかもしれない。その考えに行きつくとつい幸福感が胸を叩く。

 視界の先に宮殿の門が見えてきた。あの門を抜ければ彼はこの手を降りてしまう。

 サディアの足取りがゆっくりと止まっていく。どうしたのかとフェリクスがサディアを見上げると、彼女の瞳が切なく揺らいだ。


「フェリクス様。もし、ご迷惑でなければ──私」

「サディア‼」


 意を決したサディアの声は門から一目散に駆けてくるジーノの迫力満点の大声にかき消されてしまった。

 髪を乱し、服がぐしゃぐしゃになろうとも気にせず大胆な足運びでこちらに走ってきたジーノの切迫した息遣いに後ろめたさを感じたのか、フェリクスは反射的にサディアの腕に隠れる。


「サディア、あなた一人ですか⁉ 陛下はどうなされたのです⁉」


 昨夜、フェリクスがダリアニとともにカダリア城に向かったことはジーノも当然知っている。サディアは戻ったのにフェリクスの姿が見えないことにひどく焦っているようだ。


「あっ⁉ ちょっと待ってください。サディア? サディア⁉」


 そこでジーノは何かに気づいたらしい。サディアの顔を両手で包み込み、ぐにぐにと頬をこねた。


「この時間って、もうあなたこうでしたっけ? 確かに今も朝ですが……いつもはもっと遅くありませんでした?」

 さすがに数か月一緒に行動していたからかサディアの変身時間についてもおおよそ把握しているらしい。目ざといジーノにサディアは誤魔化しの苦笑を向けるほかなかった。

「あの……言いにくいのですが……」

「えっ? ああ! まさか、本当に呪いが解けたのですか⁉ それは喜ぶべきことです、サディア。ああでも、どうしてそれが言いにくいのです? 良いことではありませんか。あなたも望んでいたことでしょう」

「いえ……その、そうではなく」

「──こういうことだ」


 サディアがジーノの勢いに押されているところを見かねたフェリクスがひょこっと彼女の腕から顔を出す。


「ひゃあっ」


 するとジーノは素っ頓狂な悲鳴をあげて仰け反った。


「陛下、そこにおられたのですか。脅かさないでください。こういうこととはどういうことでしょう。陛下、あなたは────ハッ」


 そこでジーノの目がぐわっと開いた。大きく息をのんだ後、シマリスとサディアの顔を交互に見てジーノは恐る恐る人差し指でシマリスを指す。


「いつもなら──まだその姿ではないはずでは……?」

「こうするのが一番だった。ダリアニはサディアの呪いを解いてくれたんだ」

「ぃえっ、でも、それでは陛下は──」

「皆にも話がしたい。ジーノ、とにかく宮殿に入ろう」


 冷静なフェリクスとは対照的に驚愕のあまり固まってしまったジーノは人差し指を突き出したまま「へぁ」と力のない返事をする。


「サディア、悪いがジーノを頼む」

「はい……」


 フェリクスに頼まれサディアは微動だにしないジーノの身体を無理矢理回転させてからその手を引く。かちんこちんな動きではあるが、ジーノはサディアに導かれて歩みを始めた。

 宮殿の扉を開くと、広間には多くの使用人が待ち構えていた。宮殿の朝は早いようだ。皆、各々の仕事にとりかかろうとしていたらしい。そんな中に真っ白になったジーノとぼろぼろになった服を着たサディアが現れ、皆はハタと動きを止めて二人に注目する。

 唐突に皆の視線を浴びたサディアの眉間にぐっと力が入る。こわばった彼女の表情を隠れて見ていたフェリクスは、時が止まったように動きがなくなった広間に颯爽と飛び降りた。


「皆、驚かせてすまない。昨夜は神秘的な夜だった。その魅力に惑わされ、多くの予測できないことが起きたことだろう。俺はフェリクス・ミュドールだ。魔術師と出会い、今はこの姿だ」


 小さなシマリスの堂々とした宣言に広間がざわついた。花瓶を落としてしまった者もいる。衝撃が走った宮殿内には使用人たちの不穏な囁きが満ちていく。


「皆を失望させてしまったら申し訳ない。だがこれは俺の判断だ。どうか呪いを恐れないでほしい」

「陛下──」


 シマリスの切実な願いにジーノのぼんやりとした声が続く。サディアが隣を見やれば放心状態が解けた彼は胸に手を当てて複雑な面持ちをしていた。思った通り、そこに失望や怒りはない。ただあまりに突然でまだきちんと感情の処理ができていないだけだ。

 フェリクスの威風堂々とした態度にもざわめきはなかなか収まらない。それもそのはずだ。サディアは唇を噛みしめて俯いた。つい先ほどまで僅かでも喜びを感じていた自分が憎い。


 フェリクスが皆を宥める中、広間の中央に構えられた大階段に優雅な靴音が響く。砂漠に水が落ちたようなごく静かなその音に皆の意識が向けられた。階段を見上げれば、皆の注目を嬉しそうに受け止めるミンカの艶やかな微笑みがある。


「あら、兄様あにさま。本当にシマリスになっているのね」



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