42 城の主
フェリクスの息遣いが跳ねる。先刻までの深沈としたそれとは違い、呼吸が躍動的なものに切り替わった。彼の瞳は虎視眈々と臨戦の時を待っている。青緑に沈んだ刺々しい心火にグラハムが苦々しそうに顔を歪めた。
「気に食わぬ。皇帝、ただ守られるだけのお前にワタシを止められるはずがない」
「長生きしているならその分知ってるはずだろ。物事は思った通りに進むとは限らないと」
「フン。言ってろ。ワタシはダリアニのような臆病者とは違う。ワタシにはすべてを操る才がある。運が……何もかもがワタシの味方をしてくれるからね」
グラハムは笑いを抑えながら右手で十字を切った。すると地鳴りが響き、城内が一度大きく揺れる。
「直接術を使えぬのなら駒を使えばいい」
轟音がホールを駆け巡ると同時にグラハムが腕を組んで得意気に微笑む。実に愛想のない笑みだった。彼が真顔に戻ると聴覚を奪う雑音も去っていく。
足元を揺さぶられ軸足に力を込めたフェリクスが彼の意味深な呟きに警戒を向けるや否や、静寂を迎えたホールに一段と大きな衝突音が落ちる。フェリクスが音の方向を振り返れば、背後の巨大な漆黒の塊と目が合った。
鉄骨のような十本の細い脚で図体を支え、グリッとした奇怪な瞳を赤く光らせている。一目では全貌が掴めない。が、よくよく見れば、その見上げるほど大きな生物が蜘蛛だということが分かる。自然界には存在しない唸り声でフェリクスを威嚇する蜘蛛は屈強な大男を五人は背中に乗せられそうな逞しさがあった。
再び大口を開けて絶叫を上げた大蜘蛛からは大量の液体が飛んでくる。それが何かはあまり考えたくはなかった。フェリクスは様子を窺いつつもこちらを敵視していることは確実な大蜘蛛に身体を向け天井に視線を上げる。
ホールの天井はダリアニがレースと勘違いするほどの糸が張られている。察するに、普段は無人のこの場所を住処とした蜘蛛がグラハムの術を浴びて姿を変えたのだろう。フェリクスは蜘蛛の巣の主に意識を戻し、左右をちらりと一瞥した。ホールの隅それぞれには二人と一羽が倒れている。彼らに危害を加えるわけにはいかない。
そう判断したフェリクスは考えることを止めて服に隠していた短刀を抜く。
目の前の大蜘蛛に恨みはない。しかしグラハムは容赦なくこの蜘蛛を駒としてフェリクスたちを殲滅させるつもりだろう。彼は駒に愛着を持つタイプでもない。蜘蛛に遠慮をしている場合ではないのだ。
フェリクスが月明りを短刀で弾くと、一瞬の眩しさに視界を塞がれた大蜘蛛の体勢が僅かに伏せられる。フェリクスはその刹那の隙に大蜘蛛に向かって助走をつけてから飛び上がった。見事に大蜘蛛の身体の上に着地したフェリクスは、突然の出来事に混乱し暴れ回る大蜘蛛に振り落とされぬよう大蜘蛛の図体に刃を突き刺して自らの身体を支える。
大蜘蛛にしてみればほんの少し針に刺されたくらいの傷みだった。が、身体の異常を察知した大蜘蛛は喚き声を上げて怒りを表明する。
「喚くばかりか。情けない奴め」
大蜘蛛がフェリクスを見失ってぐるぐるとその場を回転し続けるのを見たグラハムはやれやれと肩を落としながら手を叩く。彼の手が空気を弾くとその度に空間に波が打ち上がる。その波にふるい落とされ、無数の蜘蛛の巣が床に向かって降ってきた。
蜘蛛の巣は気を失ったままのロザリアとダリアニの身体をも包み込んでいく。ベタベタとした不快な網は暴れるほどに身体に纏わりつき身動きを封じられてしまう。
主であるはずの大蜘蛛もそれは例外ではなく、フェリクスを見失い、正体不明の痛みに興奮状態の大蜘蛛は瞬く間に糸に覆われていく。大蜘蛛の背に乗ったフェリクスも抵抗する間もなく糸の渦に巻き込まれていった。
「落ち着け、暴れてはお前も死ぬぞ」
呼吸が制限されていく中、フェリクスは大蜘蛛の背を撫で厳しい口調で宥める。しかし耳を裂くような大蜘蛛の嘆きにかき消され、フェリクスの声は糸の大群へと吸い込まれていく。
糸の隙間からグラハムを見れば、彼は片手の指をひらひらと躍らせて楽しそうにこちらに手を振っていた。
それを見たフェリクスの口角がゆっくりと持ち上がっていく。相手はすっかり勝ち誇った気になって油断している。そんな時こそ彼の闘志に火がつくのだ。
「悪いがこれも運の巡りだ。君にも協力してもらう」
胸底から本能に突き動かされるようだった。湧き上がる活気に全身が漲っていく。息吹を取り戻したかのように生き生きとした瞳は真っ直ぐに目標を捉えた。
フェリクスは短刀で蜘蛛の糸を切り裂き、俊敏な動きで何かを作り始める。あっという間に手綱を拵えたフェリクスは続けて器用な手つきでそれを蜘蛛に括りつけていく。大繩のようにしめられた蜘蛛の糸は思った以上に頑丈だ。大蜘蛛の興奮を鎮めるために優しく背中を撫でたフェリクスは、大蜘蛛のしなやかな脚を縛り付けていた糸を断ち切った。
「馬とは違うが、乗り心地は悪くないな」
少し落ち着きを取り戻した大蜘蛛の背中で、フェリクスは糸の手綱を握ってその出来を確かめる。すると糸という無数の障壁から解放された大蜘蛛はフェリクスの指示通りに身体の方向を変えた。彼に助けられたことを理解しているのか抵抗する素振りは見せない。ぎょろりとした瞳でフェリクスを見上げはしたが、彼の姿を捉えても威嚇することはなかった。
「いい子だ。君の家を荒らして悪かったな」
「ぐええぇぇ」
フェリクスの謝罪に応えるように大蜘蛛がガラガラ声を出す。身の毛もよだつもの恐ろしい唸り声とは違い、間の抜けたような低い声にフェリクスは思わず笑みをこぼす。
「奴の自由にはさせまい」
再びの覚悟を告げると同時にフェリクスは大蜘蛛ごとグラハムへ突っ込んでいく。蜘蛛を手懐けるとは思わなかったのだろう。意外な展開にグラハムは舌打ちをして指を鳴らす。彼の合図に呼応した術は、次々にホールの柱を壊していった。一本、二本、と崩れていく柱による石の雪崩で視界は埃に塗れていく。
「皆を避難させないと──」
崩落してくる瓦礫を避けつつ、フェリクスは近くで倒れているダリアニとロザリアを拾い上げる。大蜘蛛が糸を使って救助を手伝ってくれたおかげで無事に二人を廊下の入り口まで運ぶことができた。
休む間もなく、フェリクスは先ほどの蜘蛛の巣に巻き込まれ身動きがとれなくなったサディアを抱き上げる。蜘蛛の巣が防御壁となってこの混乱から小さなフクロウの身体を守ってくれていた。フェリクスは急いで蜘蛛の巣を剥がし、萎びてしまった羽を撫でる。
「サディア──サディア無事か」
フェリクスの呼びかけにフクロウの瞼が持ち上がっていく。
「ほ……ホー……」
弱弱しくもこくりと頷くサディアを見たフェリクスの頬が柔らかに綻んだ。緊張の糸が切れたのだろう。言葉も出ないままにフクロウを優しく抱きしめた。
「ホー、ホー……」
フェリクスの息が体毛の表面を撫で、サディアは恥ずかしそうに鳴く。その間にもグラハムは城の破壊を止めることはなく、むしろ新しい遊びを覚えたかのように荒廃してく光景を楽しんでいた。
「ぎぐえええぇええぇ」
大蜘蛛の焦った声にフェリクスとサディアは我に返ったように顔を上げる。
もはや目の前の人間を痛めつけるよりも城の崩壊に熱中し始めたグラハムを見やり、フェリクスは再び手綱を握りしめた。サディアも彼の腕から降り、翼が動くことを確認してから鋭い眼光でグラハムを捉える。瞬き一つないその様相はまるで狩りに出た強者のようだった。
「グラハム‼」
フェリクスの雄々しい声にグラハムがガラの悪い声で返事をする。邪魔をするな。彼の瞳は鬱陶しさを隠さずにそう訴えかけていた。
「見たか? ワタシの力を……‼ 全身を駆け巡る血が燃えているようだ。この城はかつてワタシたちが魔術を込めて建設したもの。無論、壊すことなど出来ない。傷はすぐに修復されるよう設計したからな。だが見ろ──‼ 今、ワタシの力はそれすらも上回っている。いくらでも破壊し尽くせる。この過去の忌まわしき遺物すらも──完全に葬り去ることができる──‼」
破壊音の爆発とともにグラハムの高笑いが響く。金継で繋ぎ合わされていたホールのヒビが露わになり、あちこちで壁が崩れていった。もはや自然治癒の効力など失われているようだ。
「これこそが求めていた愛──‼ ヴェネシアからの、ワタシへの真の愛だ……!」
恍惚とした表情で術に酔いしれるグラハム。フェリクスは大蜘蛛に耳打ちしてからサディアに目配せをした。彼の意図を察したサディアは迷いなく頷く。彼が頭に描いている作戦を疑いようがなかった。フクロウの瞳一杯に滲む信頼の情にフェリクスは目を細めて微笑む。彼を初めて見た祭典の日、天空で皆を見つめていたあの夜の眼差しに似ている。皆の期待を背負った希望の皇帝。サディアはもう一度彼を見た後で勢いよく飛び立つ。
サディアが飛び立ったのを確認し、フェリクスは好戦的な笑みを浮かべて大蜘蛛に囁く。親しみに満ちた声色だった。
「あともう少しだ」
「ぎぐうぇぇっ」
大蜘蛛の気合いの入った返事を狼煙にフェリクスはグラハムの名を呼ぶ。
「グラハム! まだ次の遊びに切り替わるのには早いんじゃないか」
「はああぁ⁉ 何を言っている。お前らなどこの城とともに沈めてしまえばいいだけだ──グガぁッ⁉」
望んだ答えを決して言わないフェリクスに痺れを切らし憤怒の表情で振り返ったグラハムは突如として目の前を覆った漆黒の幕に声を裏返させる。同時に濁った音で鼻が鳴った。あまり上品ではない響きだった。
「な……っ! 今のはワタシが発した音ではない‼」
気品のない自らの反応を認めたくないグラハムは咄嗟に言い訳をする。が、その声もまた別の遠吠えにかき消えてしまう。
「ぎぃわわわわっ‼」
グラハムの動きを封じようと大蜘蛛が彼にのしかかったのだ。当然グラハムは抵抗し、両手で丸を作り術を溜め込んで空気を破裂させ大蜘蛛を押しのけた。ひっくり返った大蜘蛛はじたばたと脚を動かし暴れる。グラハムは乱れた髪を整えつつ、面倒くさそうに大蜘蛛を睨みつけた。
「まったく……駒の癖に生意気な」
ぶつぶつと恨み節を唱え、グラハムは大蜘蛛を焼き払おうと手のひらに炎を浮かび上がらせる──が。
「ホー‼」
大蜘蛛に気を取られたグラハム目がけ、フクロウが弾丸の如く飛び込んできた。
「なんだ? 次はお前の反逆か。お前もこの汚らしい蜘蛛と同じワタシの駒でしかないと何故分からない⁉」
狙いをフクロウに変えたグラハムは炎の玉を自分に向かって飛び込んでくるフクロウに投げつける。フクロウはぎりぎりのところでそれを避け、一直線にグラハムの顔面へと突っ込んでいった。
「ぎゃあああ‼ 何をする──ッ! 何をするこの獣め──‼」
嘴で鼻を噛まれたグラハムは痛みに身悶えて雄叫びを上げる。サディアは暴れるグラハムの耳や額、こめかみをつつき、グラハムは片手で目元を守りながらがむしゃらにもう一方の腕を振る。すると目に見えぬ棍棒がフクロウの身体を玉の如く容赦なく打つ。強烈な打撃にサディアは成す術もなく遠くへと飛ばされてしまった。
「オイ……その獣、ワタシに何をした──? ワタシの、この美しい顔に──傷を負わせただと──?」
「ほー……」
瓦礫に叩きつけられたサディアは力を振り絞って再び飛び上がる。
「ふざけるな……ほら、血が出てるじゃないか──ワタシの、この完璧な顔に……血が……」
怨念が彼の瞳を支配していく。こめかみから血を流した彼の表情は、色があるはずなのに真っ白で、何色にも流されぬ非道なものへと移ろっていった。
「サディア──!」
「黙れ! 腐れ皇帝が‼」
フェリクスがサディアのもとへ駆け寄るとグラハムがぴしゃりと言い放つ。怒りで焦点を失った彼の眼差しは虚ろだ。だが、確かに一つの獲物を捉えている。標的を隠そうとするフェリクスを睨みつけ、散らばった窓の破片を彼へと飛ばす。
「ホー‼」
数多のガラスがフェリクスを的に切っ先を向け飛んできた。不意の出来事に身動きが取れなかったフェリクスの前にサディアが立ち塞がった。ガラスの破片が盾となった翼に刺さり、サディアは儚くも床へと崩れ去る。ついでと言わんばかりにグラハムはフクロウの身体に圧をかけ、抉れた床へとめり込ませていった。




