最期の願い
「これが、『絵空事の世界』か。いやあ、さすがゲルテナ先生だ。実に素晴らしい。」
どこからか男性の声がする。イヴとメアリーが声のする方を向く。そこには、黒いスーツを着た男が立っていた。
(この人、たしか美術館で揉めていた人だ。)
そう。この男は、美術館で他にも作品があるはずだと叫んでいた男だ。この男も、この不思議な美術館に迷い込んでいたのだ。
「急に人がいなくなったと思ったら、こんな素晴らしい世界に招待されていたなんて。やはり、ゲルテナ先生の本当の理解者は私だということだ。そうだろう、メアリー?」
メアリーがイヴの後ろに隠れる。この人、どうしてメアリーのことを知っているの?
「ダメじゃないか。君はゲルテナ先生の最期にして最高傑作なんだから。おとなしくしていなくちゃ。大丈夫。おじさんが一緒にいてあげるから。なんなら、そこのお友達も一緒でもいいんだよ。」
男が歩み寄る。不気味な笑みを浮かべて。イヴには、この男の言っていることが全く理解できなかった。
「君、メアリーの友達になったんだろ?ずっと見てたよ。何度か君たちに見つかりそうになったこともあった。ところで、本当にメアリーの友達なら、もうここに残るしかないよ。」
「それ以上言わないで!」
メアリーがイヴの前に立ち、声を荒らげる。
「幼いお嬢さんに教えてあげるよ。現実とは残酷なものなのだよ。メアリーは、ここから出ることはできない。さっき、若い青年がここを出てしまったからね。」
「やめて!」
「残された選択肢は三つだ。友達を裏切って自分だけ脱出するか、友達のために自分を犠牲にするか、友達とずっとここで暮らすか。いや、これは選択肢ではないな。君にも、大好きなお父さんとお母さんがいるんだろう?だったら、賢い君は、答えが分かるはずだよ。」
男は、笑みを浮かべる。優越感をにじませた嫌な笑みだ。イヴは、メアリーを見る。メアリーは俯いたまま、顔を上げようとしない。
イヴは突然選択を迫られ、混乱していた。メアリーが脱出できない?どうして?
なかなか絵に飛び込もうとしないイヴを見かねて、男はさらに畳み掛ける。
「友達思いの優しい君に、もうひとつ助言をしよう。メアリーがあの青年を追い詰めたのは、友達を取られた嫉妬のためなんかじゃない。自分がここから出るためさ。彼女が外に出るためには、身代わりが必要なんだよ。」
「違う!」
「違わない!さあ、どうする?君の大切な人を陥れようとした自分勝手な少女を、それでも君は助けるのか?」
男の勢いに、メアリーは押され、再び俯く。追い詰められたメアリーの体は、小刻みに震えていた。
「イヴ。お願いだから、ここから出て。」
メアリーは俯いたまま、イヴに弱々しくそう伝える。イヴは、男を真っ直ぐ見る。男は薄気味悪い笑みを浮かべている。
イヴは迷わなかった。イヴはメアリーの腕を掴むと、絵に飛び込もうとする。
「イヴ!?」
「約束したから。一緒にここから出るって。」
「でも―」
「大丈夫。私を信じて。」
事態に気が付いた男は駆け出す。そこに、絵の中からボロボロのコートの袖が出てくる。腕には、白いレースのハンカチが結ばれている。
「捕まって!」
絵の中からギャリーの声がする。イヴは絵の中から出ているギャリーの手を掴む。すると、後ろでメアリーの小さな叫び声が聞こえる。男がメアリーの腕を掴んでいた。
「逃がしはしないぞ。ゲルテナ先生の、生涯最後の、最高傑作は、誰にも渡さん。」
男が顔を歪め、メアリーの腕を渾身の力で引っ張っていた。そうこうしているうちに、絵の額縁が徐々にはっきりしてくる。額縁がはっきり現れてしまうと、きっと、もう元の世界には戻れない。早くしないと、イヴも取り残されてしまう。
「しつこいな。離さないか。」
男がそう言って取り出したのは、パレットナイフだった。さっきまで、メアリーが持っていた、パレットナイフ。男はそれを拾っていた。男はナイフを振りかざし、イヴに襲い掛かる。
「イヴ!」
ギャリーとメアリーの声が重なる。それでも、イヴは手を離さなかった。恐怖のあまり目をつぶっても、手だけは離さなかった。
いつまでたっても、どれだけ待っても、痛みが来なかった。イヴは、おそるおそる目を開ける。
「な、何だ、おまえら!?」
大勢の石膏像や絵画たちが男を取り囲んでいた。この美術館にいたゲルテナの作品たちだ。作品たちは、男の腕を取り、足をつかみ、胴にしがみついていた。ひとりの青い鬼の人形が、メアリーの足元に立つ。
「行ってきなよ、メアリー。ずっと、ずっと待ち望んでいただろ。いつも僕にそう言っていたじゃないか。外の世界に行ってきなよ。」
「このガラクタどもめ!」
男は体中にしがみついている作品たちを振りほどく。しかし、次から次へと作品たちは男に飛びかかり、男は身動きが取れなくなっていった。
「それが、ワイズ・ゲルテナの最期の願いでもあるからさ―」
「赤いバラは、情熱。青いバラは、奇跡。黄色いバラは、嫉妬。同じバラでも、いろんな花言葉があるのよ。」
ゲルテナの作品を見に来たある娘は、彼の作品の一つを見てそう言った。金色のウェーブのかかった髪に、青い瞳が映える美しい女性だった。彼女は小さい頃から、ゲルテナのアトリエを訪れては、彼の作品を褒めてくれた。その頃、彼の作品はあまり評価されていなかったが、彼は彼女の賞賛の言葉がもらえれば、それで十分だった。
ある日、彼女は彼に別れを告げに来た。遠くにお嫁に行くという話だった。彼はそれを心から祝福した。お腹に赤ちゃんがいるので、名前をつけて欲しいと頼まれた。彼は喜んでそれを引受け、赤ちゃんの名前を考えてあげた。その子のために、小さな人形も作ってプレゼントした。
それから、ゲルテナはその娘と会うことはなかった。あの娘は元気だろうか。子供は元気に育っているのだろうか。作品を創作しながら、そんなことを考えることもしばしばだった。
ところが9年後、彼はその娘の訃報を聞いた。彼女はなんと、9年前に事故で亡くなったということだった。嫁ぎ先に行く途中、乗っていた船が沈没し、遺体が今頃になって発見されたらしい。その間、その娘は行方不明ということになっていたが、アトリエに籠っていたゲルテナは、そのことを知らなかった。
彼は、突然の悲しい知らせに塞ぎ込んだ。その頃、彼の作品は評価され始めていたが、どの評価も彼の納得のいくものではなかった。彼の遺産を求めて、言い寄ってくる女性も出てくる始末だ。彼女たちは、彼の作品を金としか考えていなかった。バラの花言葉を教えてくれた彼女だけが、彼の作品の唯一の理解者だった。
その日を境に、彼は作品を作らなくなった。あるひとつの絵を除いては。
ある日、完成したその絵を前に、ゲルテナは独り言をつぶやいた。
「もし、君がここから飛び出してくれたなら、どんなにうれしいことか。たくさんの友達に囲まれて、元気に遊ぶ君の姿が見られれば、私はすべてを投げ捨ててもいい。」
そうして完成したのが、緑のドレスを身にまとい、こちらに微笑みかける金髪の少女、『メアリー』だった。この世に生まれるはずだった、この世に存在しない少女。
それが、私だった―
「早く!もう時間がない!」
絵の向こうから、ギャリーの慌てる声が聞こえる。その声で、メアリーは我に返る。
「行こう、メアリー。」
イヴがメアリーの腕を再び掴む。メアリーは静かに大きく頷く。イヴは微笑むと、ギャリーの手を掴む。
「よし!」
ギャリーの手に引っ張られ、イヴとメアリーは絵の中に吸い込まれる。ちょうどそのとき、消えていた絵の額縁が再び現れた。
「や、やめろ!何をする気だ!?」
「一緒に遊ぼうよ、おじさん。」
誰もいなくなった薄暗い美術館のあとには、男の恐怖に怯える叫び声だけが残った。
―イヴ。私、絶対忘れないから―




