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第10話「日常への帰還」(後半)


 ズズズッ⋯⋯。

 グラスの底に残った氷と空気がストローを通じて間の抜けた音を立てた。

 オレンジジュースはもう空、だがノアはストローを口から離さなかった。

 プラスチックの先端を前歯で軽く噛みながら、目の前の生き物を観察する。


 エレナ・ミルトン。

 Fランクの凡人。お人好しの塊。歩く騒音公害。

 そしていつの間にかノアの日常というテリトリーに我が物顔で居座るようになった侵入者。


 彼女は今、温泉旅行の計画に胸を踊らせ、キラキラとした瞳でノアを見つめ返している。

 その表情には一点の曇りもない。

 ノアが「やっぱりやめた」と言い出す可能性など、微塵も疑っていないようだ。

 無防備すぎる。

 私がその気になれば約束など反故にして、転移魔法で大陸の裏側まで逃げることだってできるのに。


(⋯⋯逃げないのか、私)


 自問自答する。

 逃げるコストと付き合うコスト。

 以前なら間違いなく前者を選んでいた。

 他人と長時間行動を共にするストレスはノアにとって魔獣との戦闘以上に消耗するものだったからだ。

 気を使うのも、会話を合わせるのも、ペースを乱されるのも、すべてが「面倒」の一言に集約されていた。


 今はどうだ。目の前のこの少女といると不思議と「気を使う」必要がない。

 彼女が勝手に喋り、勝手に解釈し、勝手に進めてくれるからだ。

 ノアはただ、そこに存在しているだけでいい。

 肯定も否定もせず、ただ流されているだけで、物語がハッピーエンド(あるいはコメディ)へと転がっていく。


 それはノアが追い求めていた「何もしない平穏」とは違う形かもしれない。

 けれど「何も考えなくていい安楽」ではある。


「⋯⋯ノアちゃん? どうしたの、ジッと見つめて」


 エレナが首を傾げる。


「あ! もしかして、私の顔にまた何かついてる!?」


 わたわたと口元を拭う仕草。

 その滑稽な動きを見てノアの胸の奥で、小さく空気が抜けるような感覚があった。


(⋯⋯本当に、飽きないやつだ)


 かつては静寂こそが友だった。

 今はこの騒がしいノイズがないと、世界の色が少し褪せて見える気さえする。

 それはきっと風邪を引いた時に感じた、あの温かい重みのせいだろう。


「⋯⋯おい」

 ノアはストローを離し、氷が溶けて薄まった水滴を指でなぞった。


「本当に私は何もしないぞ。荷物も持たん。道案内もしない。宴会芸もしない」

「うん! わかってるよ! ノアちゃんはただ、お湯に浸かって『ふぅー』ってしてくれれば、それが私のミッションコンプリートだから!」


 ミッションのハードルが低すぎる。

 それでも、それが彼女にとっての真実なのだろう。

 彼女はただノアと一緒にいたいだけなのだ。

 最強の魔導師としてでも英雄としてでもなく。

 ただの「相棒」として。


「それにね、私、ノアちゃんと一緒ならどこに行っても楽しいと思うんだ!」


 エレナは屈託なく言い放った。

 殺し文句だ。

 計算で言っているなら稀代の詐欺師だが残念ながら彼女は天然素材一〇〇%の善人だ。

 こういう直球は変化球よりも回避が難しい。


 ノアは視線を逸らした。

 正面から受け止めるには少し照れくさい。

 頬の筋肉が緩みそうになるのを無表情の仮面で必死に抑え込む。


「⋯⋯そうか」


 短く答える――が、それだけでは終わらせてくれないのがこの相棒だ。


「えへへ、ノアちゃんも楽しみ? 楽しみだよね? ねっ?」


 顔を近づけてくる。

 「YES」と言うまで離れない構えだ。

 断る隙をくれない。

 タイトルの通りだ。この女はいつだってノアの退路を塞ぎ、強引に「楽しい方」へと引きずり込んでいく。


(⋯⋯降参だ)


 ノアは小さく息を吐いた。

 認めてやろう。

 この騒がしい日常も勝手に侵食してくる相棒も、そしてこれから始まるドタバタ珍道中も。

 今の自分にとってはそれほど悪いものではないということを。


「⋯⋯まあ、悪くない」


 ボソリと、聞こえるか聞こえないかの音量で呟いた。

 それがノア精一杯のデレだった。

 「楽しみだ」とは口が裂けても言わない。

 「悪くない」それが最大限の譲歩であり、賛辞だ。


 その一言はエレナの聴覚センサーに感度最大で拾われたらしい。


「!!」


 エレナの表情がパッと花が咲くように明るくなった。

 王城のシャンデリアよりも、ドラゴンの財宝よりも、眩しい笑顔。


「やったぁぁぁっ!! 言ったね! 今『悪くない』って言ったね! つまり実質『楽しみで夜も眠れない』ってことだよね!!」


(⋯⋯翻訳機能がバグっている)


 訂正しようとしたがエレナは既に席を蹴って立ち上がっていた。


「よーし! 善は急げだ! 私、今から旅行代理店に行ってくる! ついでに新しい水着も見に行かなくちゃ! ノアちゃんの分も選んでくるね!」

「⋯⋯おい、水着は」

「大丈夫、可愛いフリルたっぷりのやつにするから! じゃあねノアちゃん! またあとで!」


 言うが早いか、エレナは旋風のごとくギルドの出口へと駆け出していった。

 「あ、待ってエレナちゃん! 依頼の報告書まだだよ!」という受付嬢の声を置き去りにして。

 その背中はエネルギーの塊そのものだった。

 見ているだけで疲れる。

 だけど見ているだけで何かが動き出す予感がする背中だ。


 嵐が去りテーブルには静寂が戻った。

 ノアの向かいの席は空っぽだ。

 飲みほされたフルーツ牛乳の瓶だけが彼女がそこにいた証として残されている。


 以前なら、この静寂に安堵していただろう。

 「やっと一人になれた」と、孤独を噛み締めていただろう。

 でも今は、この静けさが「次に来る騒音までの休憩時間」でしかないことを知っている。

 彼女は必ず戻ってくる。

 「ノアちゃん、すごい水着あったよ!」と、両手一杯の荷物を抱えて。


(⋯⋯面倒なことになった)


 ノアは鞄に手を伸ばした。

 指先に触れたのはあの時勝手につけられた、木彫りのナマケモノのキーホルダー。

 外そうと思えばいつでも外せたはずの重たい鎖。


 ノアはそのナマケモノを指で弾いた。

 カチリ、と小さな音がする。


 最強の魔力を持ち、国すら滅ぼせる力を持て余した少女。

 そんな彼女を「ただのノアちゃん」として扱い、断る隙もなく日常へ引きずり込む凡人の少女。

 奇妙なバランス。

 それは案外、壊れにくくて居心地の良い関係なのかもしれない。


「⋯⋯フッ」


 自然と空気が漏れた。

 ノアの口角が、ほんの数ミリだけ持ち上がる。

 それは嘲笑でも冷笑でもない。

 春の雪解けのような微かで、しかし確かな温かさを含んだ微笑みだった。


 誰にも見られていない、一瞬のデレ。

 最強の少女は空になったグラスを置き、ゆっくりと席を立った。

 

 さて、帰ろう。

 家に帰れば、じきにあの騒がしい相棒が大量のパンフレットと水着を持って押し寄せてくるはずだ。

 その時に備えて、少しだけ昼寝をして体力を温存しておかねばならない。

 これからの日常は、きっと今まで以上にカロリーを使うことになるのだから。


(⋯⋯放っておいてほしいのに。⋯⋯本当に、隙のないやつだ)


 心の中で軽口を叩きながら、ノアはギルドの扉を開けた。

 外にはどこまでも青く、騒がしく、そして愛おしい世界が広がっていた。

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