水守さん
しばらくは何もする気が起きなかった。日付が飛んでたので多分二十四時間ぐらいは寝ていた。起き上がって最初にやったのは表現技法なんかを書いた本やらいろんな劇の台本、それからDVDなんかを全部纏めること。
燃やそうと思った。
捨てようと思った。
でも出来なかった。未練があるのだ。役者になりたかった。どんな役でもよかった。端役だって満足だった。≪召使たち≫でもよかった。舞台の上からヘロデやサロメを見ていたかった。観客席からでは嫌だ。でもあんな悪意と辱めの中で舞台に残ることができるほど私の神経は太くなかった。吉永さんはいったい何がしたかったんだろうか。そんなに私を壊したかったのか。私に自分の無能さを徹底的に自覚させて自ら劇団を去るように仕向けたかったのだろうか。だったら吉永さんの目論見は大成功したと言えるだろう。
一週間ぐらいなにもする気が起きずにぼーっとしていた。多分アルバイトには行っていたはずだが記憶に残っていない。
お母さんから電話がかかってきて、私はBOTになる心構えを作る。「ねえあんた聞いてるの?」に対して「聞いてるよ」、「そろそろこっちに帰ってきなさいよ。」には「もうちょっとだけ頑張らせて」。BOTの内容を心の中で作ってから、私はまだこっちにいるつもりなのだろうか? と気づく。劇団をやめたのだから私に頑張れることはもうない。内容をアップデートしなければならない。更新が面倒になってそのまま電話に出ることにした。
お母さんの声は上機嫌だった。
「あんたちょっとあんないい人いるんならちゃんと報告しなさいよ。帰ってこないわけね。お母さん心配しちゃってたじゃないの」
……は?
お母さんが一方的に捲し立てるには私は男の人を連れて一度実家に帰ったらしい。特徴を聞くに連れて帰ったのはおそらく吉永さんだった。稲垣吾郎に似ていて優しい目をしていて鼻筋が通っているらしいから間違いないだろう。例えとか見てるとこが同じなあたり親子なんだなとぼんやりと思う。記憶が溢れてきて胸に圧迫感を覚える。優しい目をした吉永さん。憧れの水守さんをブタだといった吉永さん。私を劇団から追い出したかった吉永さん。
なんの冗談だ。
お母さんは分裂症にでもかかったのだろうか? おかしくなったんだろうか? お母さんは内緒で劇団を見に来たことがあって吉永さんを見たことがあって、自分の娘のあまりの不甲斐なさに妄想が破裂して現実を蝕んでしまったのだろうか。
お母さんは「あ、しゃべりすぎちゃったわね。ごめんなさいね。お稽古頑張ってね!」と言って電話を切った。まだ十五分も経っていなかった。
何もかも引き上げて実家に帰ってしまおうか。
母の面倒を見ようか。
それは東京を去る適当な口実であるような気がした。
少なくとも劇団を追い出されて夢破れてとぼとぼ帰るよりは惨めでない自分への見切りのつけ方のような気がした。
不意にインターホンが鳴った。
私はすっぴんでだらしない顔で、上下スウェットのだらしのない恰好でスマートフォンを置いて立ち上がる。宗教勧誘だったら死ぬほど文句言ってやろうと思いながらドアを開ける。迂闊だったのはドアチェーンを外しっぱなしだったこと。ずぼらな私には普段からチェーンを掛ける習慣がなかった。
カギを開けてドアを半分開けたら般若の顔した水守さんがドアをめちゃくちゃに引いて私は外に半分引きずりだされる。バランスを崩してアパートの床に両手をつく。
「あんたどういう了見なわけ!?」
ヒールなしでも170センチ以上ある水守さんの手が降ってきてスウェットの首を掴んで部屋の中に私を投げ飛ばしてドアを閉める。広末涼子似で平たい顔に横長の目と形のいい鼻と口がくっついている女ならこんな顔に生まれてーって感じの水守さんの顔が怒りで歪んで沢尻エリカになる。なんでまだ美人なんだよムカつくな。ウィッグと地毛の色が違うとおかしいというのが持論の水守さんがサロメをやるために染めたあまり似合っていない金髪を振り乱す。
レッドシグナル。
なんか知らんけど水守さんはブチギレている。劇団で何度かこうなった水守さんが機材をぶち壊して大道具の三好さんを泣かせて、何人かの役者さんをやめさせている。その怒りがいま私に向いている。やっべえ。
ちなみに私はわりと水守さん擁護派だった。だってあの子たち (やめさせられた子たち)やる気なかったんだもの。セリフ覚えてなかったし。そういうのの調整役やってて他の劇団と交渉したりで足りなくなった役をどうにか補填するために走り回ってた吉永さんは水守さんに思うところがかなりあったみたいだけど。そういう水守さんの硬い部分と吉永さんの柔らかい部分の取り合わせでうちの劇団は持っていた。私にはもう関係ないがな。
「いっつも手ぇ抜いてたわけ!? ふざけんじゃないわよ! 影であたしのことけたけた笑ってたの!? あの程度の女がデカい顔してるって? たしかにあたしはどんな役やってても一本調子で幅はないわよ! でもそんな風に笑われる筋合いはないっつうの。てかあんた手抜きとか舞台なめんなよ!」
一瞬、水守さんが何を言ってるのかわからなかった。水守さんは私を持ち上げて自分を下げている。
理解が追い付いてくると、ノドが引き攣った。顔がゆがんだ。あ、無理だ。ダメだ。糸が切れた。ぷつんって。私は決壊した。
「ひひひひひ。水守さんまで。うひひひひ。水守さんまでこんなタチの悪いドッキリに、手を。あはははは。もう無理。ひひっ。死にたい。みんなどれだけ私のこと嫌いだったの。ふふっ。死にたい。死にたいよぉ」
私はぶっ倒れてダンゴムシみたいに丸まってアパートの埃まみれの床にほっぺたをつけてぼろぼろ泣き喚き続けた。
水守さんが唖然とした表情で私を見下ろしていた。
気づいたら私はあやすみたいにして水守さんに抱きしめられていた。




