第1話 抱いてとお願いする高嶺の花、週末の夜に開く禁断の扉
「お願い。週末だけセフレになって、私を抱いて」
ぶうんと、頭の中で耳鳴りがした。
その彼女が発した衝撃的な言葉に、脳の処理回路が追いつかずに混乱する。
「セフレ」? 「抱いて」?
今、この学園の誰もが憧れるお嬢様が、俺に向かって何を言った?
彼女の名前は、七条芹愛。
才色兼備で品行方正な完璧すぎるスペック。
男女問わず誰もが憧れる高嶺の花。
そんな自分みたいな地味な陰キャモブ男子とは一生縁がなく、存在を認識されいているかさえ怪しいと思っていた彼女からの、突然の「抱いて」宣言。
青天の霹靂とはまさにこのことだ。
「あ、あの……七条……? ええと、人違いとかじゃ……ないか……?」
冷や汗が背中を伝うのを感じながら、震える声で問い返す俺に、彼女は微塵も動揺を見せず、ただ透徹した瞳で答えた。
「ううん、あなたで間違いないよ。稲葉奏介君」
「で、でも、なんでその……セフレなんて……七条って、他人に全く興味がない人だと思ってたんだけど……。俺なんかと、その、どうして……」
俺の戸惑う様子を冷ややかに見据えながら、七条はフッと小さく息をついた。
その溜息さえも、夕闇の教室では妙に生々しく響いた。
七条は窓の外の茜色の空へ視線を投げ、どこか遠い目をしながら、ポツリポツリと語り始めた。その声は淡々としていながらも、内側から滲み出るような強い疲労感を含んでいた。
「私の実家は、関東を拠点とする大規模な企業グループを率いている。……知っているでしょう?」
「あ、ああ、名前くらいは……経済誌とかにもよく載ってるし」
「そう。だから私は、物心ついた頃から『エリート』であることを過剰なまでに強いられてきた。学業は常にトップでなければならない。品行方正で、誰からも称賛される完璧なお嬢様を演じ続けなければならない。教養の高さ、立ち居振る舞いの美しさ、一族の看板に泥を塗ることは一切許されない」
彼女の白い指先が、スカートの布地をぎゅっと強く握りしめた。
「息が詰まる。窒息しそうなほどにね。平日は学校が終われば、夜遅くまでピアノやヴァイオリン、茶道に英会話の家庭教師。私の意志なんて最初から存在しない。私の人生は、すべて親の敷いたレールの上を走るだけの機械人形と同じよ。今日はたまたまピアノのレッスンが休みになっただけ」
「七条……」
「だから、私にとって自由になれる時間は、週末のほんの一瞬だけなの」
七条はそこで言葉を区切り、鋭い視線を俺に戻した。
「知っているでしょう? 私が今、学校近くのマンションで一人暮らしをしていることを。それは、親の束縛と監視から逃れるための、血を吐くような交渉の末に勝ち取った聖域だよ」
「じゃあ……あのマンションは、そのために……」
「そう。そして、偶然にも、あなたが隣の部屋に住んでいる」
そう。なんの因果か、運命のいたずらか、俺はこの七条の隣の部屋に住んでいるのだ。
朝高校に登校する時、はじめて隣の部屋から出てきた彼女と顔を合わせた時は、心臓が止まりそうになった。
「隣同士。しかも、あなたは普段からクラスで空気のように目立たない。私に関心を持つこともなければ、噂話に尾ひれをつけて言いふらすような軽薄さもない。秘密を共有する相手として、これ以上なく好都合なの」
「それが、俺をセフレに指名した理由……?」
「それだけじゃない」
七条はわずかに頬を紅潮させ、気まずそうに、しかしハッキリと言い放った。
「見た目や性格も……まあ、悪くないと思っているよ。少なくとも、教室の隅でいつも静かに本を読んでいるあなたの姿は、うるさいクラスの連中よりよっぽどマシ。もっとも、あくまで『ラブ』じゃなくて『ライク』だけれど」
ラブではなく、ライク。
恋愛感情ではなく、好意にもとづいた打算と切実な逃避の同盟。
頭では理解しようとするのに、目の前にいる美少女の生々しい告白に、俺の脳みそは完全にキャパシティオーバーを起こしていた。
「そ、そんなの納得できるかよ……! だいたい、七条にはさ、もっと似合う男が……」
「私に似合う男?」
七条は鼻で笑った。その冷笑は、彼女の絶望的な境遇を映し出すものであることが、次に続けられた言葉でわかった。
「私の婚約者の顔でも見たい? お父様が勝手に決めた相手だよ。私は高校を卒業したら、年が一回りも離れた、うちの企業とベッタリ癒着している会社の若社長と結婚して婿養子に迎えることが決まっているの。私の意見なんて一切無視で、家と家の契約の道具としてね」
「こ、婚約者……!?」
「あんな薄汚い利欲の塊のような男と結婚させられるくらいなら、私の貞操なんて、私の意志で、私の選んだ相手にくれてやる」
フッと自嘲気味に笑った七条の瞳に、うっすらと涙の膜が張ったように見えたのは、夕日の錯覚だったのだろうか。
完璧すぎるお嬢様の仮面の下で、彼女がどれほど激しい孤独と絶望の炎に焼かれているのかが、痛いほどに伝わってきて、俺は言葉を失った。
「……そういうことだから。今週末、金曜の夜は私の部屋に来て。時間は夜九時。待っているから」
一方的にそれだけを告げると、七条は返事を待つこともせず、クルリと背筋を伸ばして教室を出て行った。
ガラリと扉が閉まる音が、静まり返った校舎に反響する。
後に残された俺は、夕闇の迫る教室で、ただただ呆然と立ち尽くしていた。
§
その週の間中、俺の頭の中は七条のことで埋め尽くされていた。
授業の内容は右から左へ抜け落ち、教科書の文字はただの黒い染みにしか見えない。
本当にあの話は現実だったのか? それとも悪質なドッキリ、あるいは疲労による幻覚だったのではないか?
しかし、時計の針は容赦なく進み、運命の金曜日の夜九時五分前を指し示していた。
俺の住むマンションの廊下は、蛍光灯がチカチカと頼りなく瞬いている。
隣の七条が住んでいる部屋の扉の前で、俺はガチガチに硬直したまま立ち尽くしていた。
冷や汗で濡れた拳を強く握りしめる。
行くべきか、引き返すべきか。
理性が「関わるな、面倒事に巻き込まれるぞ」と警鐘を鳴らす一方で、あの時の七条の、どこか壊れそうな、それでいて異様な熱を帯びた瞳が脳裏から離れない。
「……くそっ」
意を決して、俺は震える手を伸ばし、インターホンをそっと押した。
ピンポーン。
チャイムの電子音が静かな夜の廊下に響く。
直後、鍵の開く乾いた音がして、ゆっくりと目の前の扉が内側へと引かれた。
そこに立っていたのは、思わず息を呑んでしまうほど、艶やかなワインレッドのワンピースドレスを身に纏った七条だった。
露になったデコルテには、風呂上がりなのか、ほんのりと上気した白い肌が覗いている。
濡れたままの黒髪が鎖骨に張り付いており、いつも凛としていた彼女の表情には、どこか微かな気恥ずかしさと、逃げ場のない切実さが浮かんでいた。
「……来てくれたんだね、稲葉君」
少し掠れた声でそう呟いた彼女は、俺の腕をスッと掴み、強引に部屋の中に引きずり込んだ。
ガチャン、と背後で重厚なドアの鍵が閉まる音がした瞬間、俺は「あぁ、もう引き返せないんだ」という現実の重みを受け止めた。
「入って」
「あ、ああ……」
促されて、廊下から通じる部屋への扉を開ける。
そのリビングは、驚くほど殺風景だった。
無機質な白を基調としたインテリア、余計な装飾の一切ない、空虚で冷たい空間。
そこに入った俺の背中に、背後からスッと温かい気配が寄り添ってきた。
振り返る間もなく、七条の細い腕が俺の腰に回され、ふんわりと背中に顔が押し付けられる。
「っ……七条?」
「静かにして。……今だけは、あの息苦しい実家のことも、婚約者のことも、何も考えたくないの」
震えるような彼女の囁きに、俺の背筋に電流が走った。
彼女の体温は、驚くほど熱く、そしてどこか切なさに満ちていた。
俺はゆっくりと身体を翻し、七条と向き合った。
見上げる彼女の瞳には、微かな怯えと、それを覆い隠そうとする強い意志の光が揺らめいていた。
「本当に……いいのかよ。こんなことして、後で後悔しないか?」
俺が絞り出すように問うと、七条はふっと自嘲気味に微笑んだ。
「後悔なんて、最初からしているよ。私の人生のすべてが親の敷いたレールの上で決まっているならせめて……この身体の主導権くらい、私の意志で誰かにあげたかったの。それが、私の選んだあなたなら……不満はないよ」
そう言うと、彼女は俺の首筋に手を回し、ゆっくりと背伸びをした。
甘い香りと、熱を帯びた吐息が俺の鼻先をくすぐる。
「ねえ、稲葉君……私を抱いて。優しくじゃなくていい、めちゃくちゃにして、私を現実から連れ出して……」
その言葉を合図にするように、冷たく凍りついていた彼女の防壁が音を立てて崩れ去った。
絹のような黒髪が乱れ、彼女が肩からストラップを押し下げると、ワインレッドの布地は音もなく床に滑り落ちた。
白磁のように滑らかな彼女の素肌は、触れるのが怖くなるほどに繊細で、けれどその内側では、抑えきれない熱情が激しく燃え盛っているのがわかった。
静まり返った深夜の部屋で、二人の呼吸が重なり合う。
理性をかなぐり捨てた夜の底で、俺たちは互いの孤独を埋め合うように、深く、強く結びついていった。
§
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む柔らかい朝日の白く眩しい光で、俺は目を覚ました。
隣を見る。
そこには、昨夜の激しさが嘘のように、穏やかな寝息を立てて眠る七条の姿があった。乱れた黒髪に縁取られたその横顔は、完璧な高嶺の花ではなく、ただの年相応の、どこかあどけなさを残した少女のものだった。
俺はそっとベッドから抜け出し、キッチンに行った。
冷蔵庫の中のものは自由にしていいと、眠る前に言われていた。
ペットボトル入りのアイスコーヒーがあったので、グラスに注ぎ口に傾ける。
その時、リビングの扉が開く音がして、振り返ると、そこには、オーバーサイズの白シャツを羽織った七条が立っていた。
彼女は眠たそうに目をこすりながら、俺を一瞥してふっと微かに口角を上げた。
「……おはよう、稲葉君」
「おはよう、七条。よく眠れたか?」
「……まあね。あなたのおかげで、今週は少しだけ生き延びられそうだよ」
彼女はトコトコと歩いてくると、俺の背中にぴたりと額を預けた。
その小さな温もりを感じながら、俺は心の中で思った。
これは恋ではない。
甘い青春の恋愛劇とはまるで違う。
親の呪縛と孤独から逃れるための、週末だけの秘密の契約──『セフレ』という名の、二人の共犯関係。
それでもいい。
月曜日になれば彼女は再び仮面を被り、完璧すぎる高嶺の花として教室に戻るだろう。
そして俺も、目立たない平穏な日常へと戻る。
だけど、週末の夜が訪れるたびに、この冷たい箱庭で、俺たちは互いの熱を求め合う。
「……来週末も、待ってるからね。でも、学校では今まで通り、ただの関わりのないクラスメイトのままでいて」
背中越しに聞こえた彼女の囁きに、俺は小さく頷き、静かにコーヒーのグラスを傾けた。




