濡れたあと :約3000文字 :ホラー :タクシー
ん、はーい。どうぞー。お足元にお気をつけください。
どちらまで? ……はーい、かしこまりました。
ふうー……おっ、雨かな? 外、降っていました? 少し? ああ、やっぱり。いやー、タクシー運転手って雨が嫌いなんですよ。ほら、お客さんが濡れたまま乗り込んでくるでしょ? コートや服が濡れていたり、傘のしずくが飛んだりしてシートがびしょびしょになっちゃったりするんですよ。
だからお客さんを降ろすたびに、いちいちタオルで拭かなくちゃいけなくてねえ。これがまた地味に面倒くさいんですよ。ちゃんとやっておかないと、中には「服が濡れた」だの、「汚れた」だのクレームをつけてくる人がいますから。ひー、やだやだ。あっ、お客さんに文句を言っているわけじゃないですよ。はははは!
いやー……あ、そうそう。一つ、雨の日にまつわる話がありましてね。
なあに、タクシー運転手定番の怪談ですよ。たぶん、お客さんもどこかで聞いたことがあるんじゃないかなあ。いいですか? え? ははは、まあまあ、そう言わずに。いいでしょ。短い話ですから。ははは。
えー……ある雨の降る深夜のことでした。
一人のタクシー運転手が車を走らせていると、道端で若い女がすっと手を挙げた。傘も差さずにずぶ濡れでね。長い髪が頬に張りついて、顔がよく見えなかったそうですよ。
運転手は車を止め、ドアを開けました。
女は後部座席に腰を下ろすと、小さな声で行き先を告げた。それきり、ぴたりと黙り込んでしまったそうです。
沈黙がどこか気まずくてね。運転手は「雨、大変ですねえ」とか世間話を振ってみたものの、まるで反応がない。バックミラー越しにそっと様子を窺うと、女はうつむいたまま、まるでマネキンのように動かない。
嫌だなあ、不気味だなあ……。そんなふうに思いながら、運転手はなるべく後ろを見ないようにして、黙々と運転を続けたそうです。
やがて目的に到着。
運転手はほっと息をつき、「着きましたよ」と声をかけた。
そして料金を伝えようと後ろを振り返ると……。
後部座席には誰もいなかった。
さっきまで確かにいたはずの女は、影も形もなく消えていた。ただ一つ、シートに濡れた跡だけが残されていた……ってね。
その目的地というのがだいたい墓地なんですよ。あるいは墓地の近くで乗せて、着いた先が女の生前の家だったりとかね。まあ要するに、帰るべき場所に帰ったという話ですな。
雨が降っていないパターンもありましてね。その場合は川や池で溺れた女だった、なんて話になるんです。まあ、定番の怪談だけにいろいろな派生があるみたいですよ。
……でね、私、思うんですよ。こういう怪談話には、たいてい元ネタ――つまり、元になる出来事があるんじゃないかって。誰かの体験が、尾ひれ背びれ胸びれまでついて語り継がれていくんじゃないかって。
この話にもきっと元ネタがあるんじゃないか。
実はね……私、これなんじゃないかという出来事を体験したことがあるんですよ。
あれは、ちょうど今夜のように小雨がしとしと降る深夜のことでした。
若い女性を一人乗せたんですよ。といってもね、乗り込むなり小さな声で目的地を告げて、すぐにうつむいちゃったもんですから、顔なんて見えやしなかったんですけどね。声と服装の感じからして、まあ若い人だろうなって思ったんです。
なんか、暗~い雰囲気の人でね。体をわずかに前後に揺らしているんですよ。髪に隠れて表情は見えないんですが、ちらちらとこっちを窺っているような、そんな妙に落ち着かない気配がありましてね。
どうにも居心地が悪くて、「寒くないですか」とか「雨は嫌ですねえ」って何度か声をかけてみたんですがね。返ってくるのは「あー」とか「はあ」とか「いえ」とか気の抜けた返事ばかり。
だから私もだんだん話しかけるのをやめて、黙ってハンドルを握っていたんですが……ふと、さっき話したような怪談が頭をよぎりましてね。
そしたら、もうもう急に怖くなっちゃって。意識を前へ前へと向けて、なるべく後ろを気にしないようにしながら、ぎゅっとハンドルを握り続けました。
赤信号で止まるたびに後ろからじっと見られている気がするんですよ。振り返ったらすぐそこに顔でもあるんじゃないかって、怖い想像ばかりしてしまってね。だから心を無にして、前のめりになって息を止めていましたよ。
ようやく目的地に着いたときには、思わず大きく息を吐きましたよ。
肩の力まで抜けちゃってね。ははは。
いやあ、幽霊なんているわけないだろう――そんな余裕まで出てきてね。あんなにびびって、まったく馬鹿馬鹿しいなんて思いながら、にこやかに後ろを振り返ったんですよ。
……でもね。
そこに女の姿はなかったんですよ。
後部座席はもぬけの殻。ついさっきまで確かに座っていたはずなのに、影も形もない。
でもね……ただ一つだけ。
シートに、じっとりと濡れた跡だけが残っていたんです。
もう、ぞくっとしてね。反射的にドアを開けて、車を飛び出しましたよ。
体に火でもついたみたいに、わたわたとみっともなく取り乱しちゃって。ありゃありゃ、こりゃどうなってんだって、あたりをきょろきょろ見回しました。
でも幸か不幸か、周囲にはだーれもいない。静かなもんでしたよ。小雨の中、車のエンジン音だけがぼうっと唸っていました。
今思えば、恥ずかしいところを誰にも見られずに済んだのはよかったんですが、そのときはもう怖くて、怖くてね。誰でもいいから人に会いたかった。でも、さすがに車をそのまま置いていくわけにはいかないでしょう? だからエンジンを切って鍵をかけようと思って、また車内へ戻ったんです。
そのときでした。ふと妙な違和感を覚えたんです。
後部座席のほうに。
私はまた車の外に出て、後ろのドアの前に立ちました。ええ、怖いは怖いですけどね。まあ、開けるしかないというか、好奇心のほうが勝ったんでしょうね。
おそるおそるドアに手をかけて、ゆっくりと開けました。
するとね……いたんですよ。
後部座席の足元に赤ちゃんが。
水たまりの中に、小さく丸まっていたんです。肌は赤黒く濡れていて、へその緒までついたままでね。
次の瞬間、私はばっと振り返りました。そして、すべて合点がいったんです。
彼女の目的地――その建物の看板にはこう書かれていました。
『産婦人科』とね。
……そう。シートが濡れていたのは、そういうわけだったんです。
姿が消えていたのは、おそらく信号待ちの間にそっとドアを開けて逃げたんでしょう。
水商売風の女でね、東南アジア系だったかな? まあ、そこまでは分かりませんけど、確かに拾った場所もそういう店が並ぶ一角でしてね。
たぶんホストにでも入れ込んで風俗で働いてっていう、それこそ定番のパターンだったんでしょうな。
産婦人科で堕ろすつもりが間に合わず、生まれてきちゃったんで捨てて逃げた。あるいは、最初から捨てるつもりだったのか。とりあえず産婦人科に行けばなんとかなると思っていたのか。まあ、そのあたりの心情までは、私には分かりませんがね。
その後どうなったか、ですか? 「あー、怪談の元ネタってこういうことなのかもなあ」なんて思いながら後始末しましたよ。ええ、きっちり供養してね。
え? ええ、そうですよ。残念ながら、すでに死んでいました。
もし生きていたら、私が育てたかったんですがねえ。小さくてかわいいですし。
その子が大きくなって、タクシー運転手になってね。ある日乗せた客が、実は自分を捨てた生みの親だった――なんて。そんなドラマが生まれたりしてね。ははははは。
ふふふ、それもまた別の怖い話ですかねえ。はははは。
ああ、もうすぐ着きますよ。
……そういえば、あの日もこんな雨だったなあ。しかも行き先も産婦人科でね。
あの日以来ね、たまにあるんですよ。
誰も乗せていないはずなのに、シートが濡れていることが。
それから……赤ちゃんの泣き声が聞こえることもね。
たぶん、こう言ってるんじゃないかなあ。
『帰りたい、帰りたい』って。
ほら、今も……ああ、ははははは!
お母さんのところに帰れてよかったねえ……。




