四十二品目 メロンソーダと雪の夜――後編
演説会場である大統領府前広場は、本番まであともう少しということもあってか、雪まじりの寒風が吹きすさぶ中にも関わらず、既に大勢の市民でごった返している。
群衆の正面には大統領府本館へ続くレッドカーペットの敷かれた白亜の大階段があり、その中ほどにある踊り場には演説台が置かれていた。
時間が来れば、本館から姿を現した大統領があそこに立ち、演説をする。
そんな光景を、エルフリーデはそのすぐ近く、群衆から見て右脇の建物の屋上から、じっと広場を眺めていた。
先ほどから、左腿の傷がずっと疼いている。銃創がまだ塞がらぬ間に、随分長く歩いてしまったからだろう。
(なんとか、もう少し持ってくれよ……)
雪風に吹かれながら、祈るように、エルフリーデは心の中でこぼした。
背後では、ここの警備を任された兵士達が、黒いコートにびっしりと白雪をつけ、双眼鏡越しに下の群衆を見張っている。
普段は大統領府の補助機関として機能しているこの四階建ての建物の屋上には、万一の事態に備えて警備兵が数名配置されていた。
軍人手帳を見せ、階級と名を名乗ると、彼らはエルフリーデが私服であるにも関わらず、案外あっさりとここへ通してくれた。
理由は、すぐに分かった。
「先ぱ……いえ、少佐。本当に大丈夫ですか? その、色々と……」
背後からそう声を掛けてきたルートヴィヒに、エルフリーデは笑ってみせると、耳を指さして言った。
「大丈夫だよ。傷も、ここもな」
中尉であるルートヴィヒは、この建物に配置された警備兵達を率いる役目を任されているらしい。
病院にいるはずのエルフリーデがやって来て、ひどく驚いたはずだが、とはいえこの寒さの中追い返すわけにもいかないと、迎え入れてくれたのだった。
「お前こそ、外は辛いんじゃないのか?」
「仕事ですから、そんなこと言ってられないですよ」
エルフリーデの軽口に、ルートヴィヒは苦笑して、鼻をすすった。
そんなやり取りを交わしながら、二人はまた群衆の方へ目を向ける。
(やはり、警備の数が少ないな……)
あの夜、あの場から逃亡した連中や、持ち出された毒ガスの捜索に人員を割いているからか、広場や周辺を警備する兵士の数が、この大事にしては異様に少ない。
(まんまと、ワナにはめられた。か?)
きっと、毒ガスは疑似餌のようなものだろう。
地下道をはじめとする主要道路には検問が作られ、地下鉄は運休し、この広場のような人々が集中する場所には厳しい手荷物検査が行われている。
もはやこの街には、毒ガスを効果的に使用できる場所は残っていない。そうなることは、きっとアルノー達にも分かっていただろう。
その状況で、それでも自らの意志を――復讐の念を、憎悪を世界に向けて知らしめるには、この場で直接大統領を含む政府や軍高官を襲うより他にない。
アルノーには、それが出来る。誰に悟られることなく、この広場に紛れ込み、一矢報いることが。
(……アルノー)
エルフリーデは、心中でそう呼び掛けた。
この大勢の群衆の中にいるであろう、幼馴染に。
(きっと、お前を止めてやる。お前の怒りも、嘆きも、何もかも全てを受け止めてやる)
その末に、私は――
風が凪ぎ、群衆のざわめきが大きくなってきた。
「お、もう時間ですね」
隣のルートヴィヒが腕時計に目をやり、ぼそりと呟く。
直後、演説会の開始を告げる鐘の音が、辺り一帯に響き渡った。
(精霊よ、どうか我らに祝福を……)
重たい雪雲の切れ間から、薄衣のような月明かりが地に注ぐ。
エルフリーデは天を見上げ、その月光に、さらに向こうの月に、願った。
この地に生きる全ての人々の幸福を。未来を生きる全ての人間の、平穏を。
やがて鐘の音が止み、大統領が姿を現した。
演説台に立ち、その老人は低い声で民衆に語りかける。
エルフリーデは、もはやその話に耳を傾けなどはしなかった。
この大勢の人間の中から、アルノーを探し出す。それだけの為に、全ての神経を使った。
事態が起きたのは、演説が始まって数十分経ってからのことだった。
*
アルノーは、エルフリーデの予想通り群衆の中に紛れ込み、大統領のしわがれた声を聞きながら、刻一刻と迫るその時を待っていた。
耳には魔法をかけて先が丸く見えるよう取り繕い、さらにその上からフードを目深に被り、アルノーは憎くて仕方が無いガルノード人のフリをして、そこに立っていた。
全ては、ガルノード人に復讐するため。エルフという民族の怨嗟の声を世界に向けて知らしめるため……悲劇を、なかったことにさせないために。
(エリー。きっと、君は止めに来るんだろう)
今更それを、咎めるつもりは毛頭ない。
ガルノード人の社会で生きるよう彼女に強いたのは自分達だ。
いくら強い憎しみを抱いていたとしても、その中で長く過ごしていれば、それにほだされるのも無理からぬことだろう。
そんな同胞は、決して少なくはない。とはいえ、まさか彼女さえもそうなってしまうとは予想できなかったが……。
(結局は、君もただの人だった。絶対的な何かだと勘違いしていた、僕らの落ち度だ)
来るなら、来れば良い。ただの人に、何が出来る。
たとえ大統領を殺し損なったとしても、高官連中の一人も傷つけられなかったとしても、今、ここには世界中の目が集まっている。
軍事独裁国家の大統領演説で起きた、少数民族による襲撃事件。それが、世界にどのように見られるか――考えずとも、分かることだ。
(全ては、ガルノードに復讐を果たすため)
たとえ、明日の朝日を見れずとも、どれだけ長い時をかけようとも。死んでいった、大勢の同胞達の、家族の無念を晴らす。
その、嚆矢になるのだ。
アルノーはコートのポケットから無線機を取り出すと、小さな声で一言、呟いた。
「ジーク・エルフェ」
遠くから、数発の銃声と共にざわめきが潮騒のように響いてきた。
アルノーはフードを跳ね除けると、耳の魔法を解き、顔を上げた。
ざわめきが、やがてこの広場の群衆にも波及し、混乱が渦のように人々を飲み込んでいく。
近づいてくる銃声、走り惑う警備兵、大統領の安全を確保しようと集う黒服の護衛達、入り乱れ逃げ場を求める群衆……。
アルノーは、その人混みを掻き分け、前へ前へと進んでいった。
*
「……始まった」
乾いた銃声が会場の外から響く中、エルフリーデは眉一つ動かすことなく静かにそう言って、背後のルートヴィヒ達に顔を向けた。
「ルートヴィヒ・オーベルト中尉と兵三名はここに待機し、状況の注視と現場への指示を行え。また、万一の時には予備戦力として行動しろ。
その他の警備兵は二手に分かれ、一方は銃声のした方面へ向かい脅威の排除を。もう一方は会場へ向かい群衆や要人警護に尽力せよ」
また、風が吹き始め、エルフリーデの髪をなぶる。
指示を受けた警備兵達は、突然のことに呆気にとられていたが、エルフリーデがパンッと手を叩くと、一斉に目が覚めたように動き始めた。
そうして去っていく警備兵達と、屋上の三方に散って状況の観測を始める待機兵の背を見送ると、エルフリーデはまた会場に顔を戻し、笑った。
「さて、と。私も、行ってくるかな」
すぐそばにいたルートヴィヒが、目を見開いて声をあげる。
「先輩、まさか……無茶ですよ! まだ傷だって塞がっていないのに――」
言い終わるのを待たずに、エルフリーデは逃げ惑う群衆のある一点を指差した。
「あれを見てみろ」
目を細め、身を乗り出したルートヴィヒは、はっと息を呑んで固まった。
そこにいたのは、エルフだった。まだ若い、男のエルフだ。
逃げ場を求め、身を屈めて四方へ惑う人々の波に逆らい、その男は真っ直ぐ背を伸ばしたまま歩いていく。
彼の目線の先には、演説台がある。その後ろには、台を盾にして身を守る大統領と、それをかばう黒服の護衛達がいた。
端から数の少ない警備の兵達は、この大混乱の処理に手一杯でエルフの事など見えていない。
とっさに、肩から下げたライフルを構えようとするルートヴィヒを手で制し、エルフリーデは首を横に振った。
「この距離と、この風じゃ、マトモに弾は当てられん。最悪市民に当たるぞ」
「でも……」
言いかけたルートヴィヒの肩に手をやり、エルフリーデははにかんだ。
「だから、私が行くんだ。ほかの誰でもない、私自身が」
言って、耳に触れ、魔法を解く。
エルフ特有の白く長く、尖った耳があらわになる。
「ルートヴィヒ。大佐やレオナのこと、よろしく頼む。……できる限りで、構わんから」
夜空の雪雲が切れ、丸い満月が姿を見せた。
その青い光を目に焼き付け、ルートヴィヒに言い残すと、エルフリーデは建物の屋上から、身を躍らせた。
(さ、行こうか)
空中に向かって飛び出し、両手を地面に向けて突き出し魔力を込め、放つ。
放たれた魔力は白く細かな雪煙となって無人の地面に吹き付けられ、エルフリーデの身を浮かせ、演説台に向けて押し出していく。
目を開けるのも困難な向かい風と横殴りの雪の中、人々の群れの中から抜け出した男――アルノーの姿が見えた。
右腕を、ようやく立ち上がり、会場から退避しようとしている大統領達に突きつけ、口元には凶暴な笑みさえ浮かべている。
手のひらの中央に、赤い光の粒が集まっていく。やがてそれは燃え盛る炎の玉になり、みるみるうちに巨大化していく。
大統領達がそれを目にし、足を止めた。
周囲の警備や人々もまた、ようやく彼に気づいたらしい。
怒声と共に銃声が響くも、もう彼は止まらない。行き着くところまで、突き進む。
(……アルノー)
目尻が、じんわりと濡れていく。
降り立つべき場所が、もうすぐそこに見えている中、エルフリーデは心の中で、その親友に、呼び掛けた。
(もう、終わりにしよう)
鉄球のように大きな火弾が、アルノーの手から放たれる。
直後、魔法を止め、エルフリーデは転がり落ちるように、大統領達とアルノー、双方の間に降り立った。
着地の衝撃で、肩と足の傷が開いたらしい。鋭い激痛と共に、血の流れる感触が伝わってくる。
その痛みに耐え、エルフリーデは立ち上がり、立ちふさがるように、抱擁するように両手を広げて、言った。
「復讐の時代は、もう、終わりだ」
目の前に、迫りくる炎が見える。
こうこうと燃え盛る、真っ赤な火の玉――その向こうに、母が、立っていた。
――生きて。どうか、幸せに。
自らの身の終わりを確信した瞬間、そんな母の声が、耳元で響いた。
エルフリーデは、悟った。
もう長いこと、幾夜も自分を苦しめてきたあの悪夢が、燃える故郷に置き去りにしてきた母の最期の言葉が、決して怒りや憎しみのこもった呪詛では無かったのだと。
(そうか。母さんは、ずっと、私のことを……)
――大丈夫だよ、母さん。私はもう、充分幸せに、生きたから。
涙が頬を伝っていくのを感じながら、エルフリーデは、笑って、炎に飲まれた。




