二品目 ホットケーキと再来店
「住所を書き間違えただとぉ!?」
人気のない路地裏に、突如そんなエルフリーデの声が響いたのは、夕刻を少し過ぎた頃のことだった。
視線の先で、どっかり地面にあぐらをかいて座り込む一人のエルフが申し訳なさそうに頭を下げる。
「いやいやホント、面目ない。連中にも、後でまた謝っておくよ」
深緑の男物のコートを羽織り、フードを目深に被った彼女の顔の右半分には、大きな火傷の痕が残っている。
それを隠すように垂らした白金色の前髪が夕風に吹かれ、光を失い白濁した右目がちらりと覗く。
残った左目の、酔った蒼い瞳だけが、エルフリーデの姿を捉えていた。
彼女――レオナは、エルフリーデの伯母の子、つまり従姉にあたる。
幼少期から伯母に育てられたエルフリーデにとっては、だらしないが、実の姉のような存在だった。
今はここガルノード連邦首都カールブルグで路上生活をしながら、各地に散らばって活動している仲間達を繋ぐパイプ役を担っている。
「昼間っから酒ばっかり呑んでるからこういうことになるんだ」
「うーん、あのメモ書いたときはまだブランデー三本しか空けてなかった筈だったんだけどなぁ……。
でもあの喫茶店、良かったでしょ?」
充分だろう、とエルフリーデに口を挟む隙すら与えず、レオナはそう言ってふにゃふにゃと笑いながら「ヒック」と一つしゃっくりをした。
傍らには、すでに空になった酒の瓶やら缶やら、ツマミが入っていただろう袋が幾つも積み上がっている。
エルフリーデはそれらをぐるりと見渡すや、大きくため息をつき、言った。
「アル中の言ってることは全く理解できん……というかお前、あの店知ってたのか!」
「んー? あぁ、まぁね。
ちょっと前、お酒飲みすぎてベロベロになってたとこをあそこのマスターに助けられてさ。そのお礼しに一回行ったら、気に入っちゃってね」
エルフの戒律として、酒は祭りや祝い事のときを除いては口にしてはならないことになっている。
酒のやり過ぎは魂をダメにするというのがその主な理由だそうだが、今のレオナを見ていると、戒律を作った先人達が『言わんこっちゃない』とあの世で嘆く様子が目に浮かぶようだった。
「フン! あんなガルノード人の店のどこが良いんだか。呑んだくれの言うことはさっぱり分からん!」
そんなエルフリーデのむすっとした顔を覗き込み、レオナは赤ら顔でにやっと笑った。
「エリー、昔っから嘘つくの下手っぴだよねぇ」
ギクッ、と音が鳴りそうなほど、エルフリーデは身を強張らせるや、思わず語気を強めて反論した。
「う、うるさい! 嘘なんかじゃない!」
「はいはい大丈夫大丈夫、おねーちゃんには全部お見通しだから、強がんなくたって良いんだぞー?」
「強がってなんかない! 正真正銘本心だ! あんな店、頼まれたって二度と行くものか!!」
幼児をあやすように煽るレオナに、エルフリーデは顔を真っ赤にして、大声をあげて言い放った。
*
「……来てしまった」
次の休日。エルフリーデはまた、あの喫茶店の前にいた。
レオナにはついあんなことを言ってしまったが、内心この店を気に入ってしまっている自分がいることは認めざるを得ない事実だ。
とは言え、そう簡単に店に入ってしまっても良いものなのだろうか。
(あの店主は、私がエルフであることを知っている)
午前の朗らかな日光と、建物の屋根にとまった小鳥たちのさえずりを浴びながら、エルフリーデは店の前でしばらく立ちすくんで考える。
いくら愚かなガルノード人の老人と言えど、エルフが自分の店にやってきたことを数日で忘れるとは思えない。
同じエルフが何度も店に訪れることを不審がられて当局に通報でもされたら、今までの計画が全て無駄になるどころか、自分や仲間の命まで危うくなる。
それに、
(ガルノード人の店に好き好んで行くこと自体、死んでいったみんなや仲間達への裏切りになってしまうのではないだろうか……)
ガルノード人は、あくまでもガルノード人。彼らがエルフを弾圧し、虐殺した事実は消えない。
その店に足繁く通うことは、同胞達に後足で砂をかける行為に他ならないのではないか……。
そう思ったとき、不意に店の扉が開き、中からあの老店主が、箒とちりとりを持って姿を現した。
「あっ……」
目が合い慌てるエルフリーデに、老店主は柔らかに微笑みかける。
「どうもいらっしゃいませ。お一人様でしょうか?」
「え……あっ、は、はい……一人です」
尋ねられ、咄嗟に返す。
店主は、にっこり笑って頷いた。
「ええ。では、どうぞ中へ」
結局店主に招かれるがまま、エルフリーデは喫茶店への再来店を果たしてしまった。
「それでは、ご注文が決まりましたらまたお声がけください」
エルフリーデを先日と同じ席に通し、老店主はそう言ってメニューとお冷を置いて店の奥へと引っ込んでいく。
エルフリーデはその背を見送ると、ゆっくり店内を見渡した。
(この時間は誰もいないのか)
どうやら、客がいない今の時間を見計らって店主が玄関先の掃除に出てきたところに、ばったり遭遇してしまったらしい。
今日の店内は、前回にも増して静かだった。
(……フッ、やはり愚かなガルノード人どもにはこの店の良さが分からんか)
心中で呟いて、ふとこの店もガルノード人のものだと思い出し、エルフリーデは密かに頭を抱えた。
そよ風がふわりと吹き込む。
都会の喧騒から少し離れた、穏やかな午前の陽気。
(またメロンソーダ、というのも芸が無いな。どうせなら、違うものを頼んでみよう)
エルフリーデは、メニューに目を落とした。
この時間帯ならまだモーニングもやっているようだが、生憎と朝食は食べてきてしまっている。
食べるにしても、なにか軽いものにしようかと思ったとき、エルフリーデはそれを見つけた。
(『ホットケーキセット、だと……!?』)
ホットケーキと聞くだけで無条件に心がときめくのは、単にまだ乙女心が残っていたから、というだけではない。
連邦南部の森林高地に位置していた故郷には農耕に適した土地が少なく、輸送コストもかさむ為に、穀物は大変に貴重な品だった。
それ故にホットケーキなどの小麦粉を使う甘い菓子類は年に数度食べられるかどうかのご馳走として扱われ、子供たちはそれにありつく為に、お利口さんに日々を過ごす。
そんな幼少期からの憧れの一品が、コーヒーとセットで、しかも三枚も積まれて、お値打ち価格でメニューに載っている。
エルフリーデに、もはや迷いはなかった。
「すみません」
エルフリーデは片手をテーブルの上でちょいと上げ、店の奥の店主を呼ぶ。
「はい、ただいま」
と、伝票とペンを持って出てきた老店主に、エルフリーデはメニューを指さして言った。
「ホットケーキセットを一つ、コーヒーはホットのブラックで」
「かしこまりました。焼き上がるまで、少々お待ち下さい」
ホットケーキの為ならば、一時間だろうが二時間だろうが、五時間だって待ってやる。
そんな気概で、エルフリーデは厨房へ向かう老店主を無言の内に送り出した。
(……そういえば、もう随分久しくホットケーキを口にしていなかったな)
最後に食べたのはいつの頃だっただろう。正確には覚えていないが、少なくともここ十年以内でないのは確かだ。
それだけに、やはり期待も膨らむ。
頬杖をつきつつしばらく待っていると、厨房の方からホットケーキを焼いているとき特有の、あの耳触りの良いジューという音と共に、甘く香ばしい匂いが漂ってきた。
(いよいよ、か)
それからまもなく、店主がお盆にコーヒーの入ったカップと共に、焼き立てのホットケーキを乗せて、やって来た。
「お待たせしました、ホットケーキセットです。お好みでメープルシロップをかけてお召し上がり下さい」
「ありがとうございます」
なんとかかんとか喜色を抑え、冷静にそう礼の言葉を述べたエルフリーデは、店主が玄関先の掃除へ向かうのを横目に、ホットケーキ達へと向き直った。
三枚積みの大きな分厚いホットケーキのてっぺんには、四角いバターがじわじわ余熱で溶けて染み込みながら乗っており、その甘い匂いが傍らのコーヒーから立ち上る香りと混ざり合う。
(村ではハチミツをかけていたが、ここではメープルシロップなんだな……一体どんな味がするんだろうか)
エルフリーデは意を決してメープルシロップの入った小さな陶器を手に持ち、ホットケーキの上から垂らした。
黄金色の蜜が日の光を透かしながらゆっくりと、バターごとホットケーキを包み込み、染み込み、下へ下へと流れていく。
そのとき、腹の虫がグゥと鳴った。
もう待っていられないと、魂が、全身が叫んでいる。
(……では、頂こうか)
エルフリーデはゴクリと固唾を飲み下すと、右手のナイフでホットケーキを一口サイズに切り分けるや、左手のフォークで豪快に三枚まとめて刺し貫き、口いっぱいに頬張った。
瞬間、口の中に広がったのは、ホットケーキの安心感のある優しい甘さと、まるで森の中にいるような木々の香りを纏ったメープルシロップの上品な甘さ、それぞれ種類の違う二つの甘味。
そしてそれらを上手く引き立てる、ホットケーキの生地に染み込むバターの程よい塩気だった。
一口噛むたびに生地の中からじゅわっと溢れ出し、広がり、全身に染み渡っていくその甘い心地良さに、ほろ苦いコーヒーが見事にはまる。
この素晴らしさを、一体何と表現したものか……数秒考えた末、エルフリーデは諦めた。
小難しい表現も、綺麗な言葉選びも必要無い。
今のこの状況を指し示す最高の表現を、エルフリーデはもう既に知っていた。
「――美味しい!!」
店には今、他の客も店主さえもいない。誰かに気を使うことも、その必要もない。
エルフリーデは一心に、衝動のままに、これまで食べられなかった分を補うかの如く、ホットケーキを切り分け、口の中へと運んでいく。
そうして最後に残ったのは、綺麗になった皿と、空になったコーヒーカップと、胸いっぱいに満ち満ちた幸福感だけだった。
昼下がりの街の中。
ホットケーキを平らげ店を後にしたエルフリーデは、軽やかな足取りで家路につく。
「次は何を注文しようか……」
その心底幸せそうな表情を、物陰からこっそり見守っている者がいることに、彼女はまだ気づいていない。
「なーんだ。あんなこと言っといて、ちゃんと気に入ってるみたいじゃん」
物陰からエルフリーデを見つめながら、レオナは嬉しそうにそう呟くと、酒瓶を片手にふらふらと路地裏の闇へと消えていった。