後ろから優しく警策で、肩を叩いてもらう
宮本は、和尚の方から、曹洞宗の座禅は、「面壁」(めんぺき)といって、壁に向かって行うものだと聞いていた。
背筋の伸ばし方、足の組み方、手の組み方など、座禅の形になった段階で、宮本は静かに、細く、長く息をした。
息を吸う時は、四呼吸し、二呼吸ほど息を止める。そして、息を細く長く吐いていく。八呼吸で吐いた。それからまた、四呼吸で鼻から息を吸い、二呼吸ほど息を止め、八呼吸をかけて口からゆっくり細く息を吐いた。
それをていねいに繰り返す。だが、雑念が入る。
宮本が思い出すに、八月の初め頃だった。
宮本は左バッターとしてバッターボックスに立っていた。一球目、右投手のカーブが外側からストライクゾーンに入ってきた。それを打ち返す。レフト線にライナーが飛ぶ。それは、しかし、意外に伸びて、レフトポール際まで飛んで行った。もっともそれはファールだった。
次は、胸元のインハイにフォーシームでストライクを取られる。三球目はアウトコース高めのフォーシームでボールとの判定だった。カウントはワン・ボール、ツウ・ストライクになっていた。このピッチャーの決め球はアウトコースのツーシームというデータを聞いていた。そろそろ、この変化球か、と思っていると、インコースの高めに回転するボールが来た。フォーシームか。宮本はその球を思い切り振ろうと思った。が、その球が急に内角のストライクゾーンをはずれ、手許に食い込んで来た。避けようとしたが、そのカットボール(カッター)は、自分の右肘に当たってしまった。しまったと思ったが、右肘の肘当てはしていたものの、打ちに行った分、肘の真後ろでなく、肘の外側靭帯部にボールが当たってしまった。デッドボールで一塁に歩くが、右肘の外側が痛い。我慢した。
その日から、バッティングで右肘を庇おうとする気持ちが生まれ始めた。それはピッチングにも影響を及ぼしはじめる。
右バッターに対し、インコースにシュート系のフォーシームを投げようとすると、右肘の外側の靭帯が突っ張るような感じがしはじめた。それではと、右バッターに対して、アウトコースにスライダーを投げようとすると、今度は、右肘の内側靭帯が通常より強く引っ張られるような感じがした。
昨年の10月、宮本は予防治療として、右肘靭帯に対してPRP(多血小板血漿)という治療を受けた。靭帯の繊維群の中で細く弱まっている繊維部分が見受けられ、そこを補強するため、自らの血管から血液を採取し、それを遠心分離機にかけ、多血小板血漿を採り出し、それを患部に注射して、傷ついた靱帯の繊維を再生治療した、ということなのだが。
靱帯が切れないように補強工事をした、それは確かなのだが。しかし、宮本にすれば、もしかしたら、鋭いスライダーを投げようと無理な投げ方をすると、その補強した繊維であっても、またそこが切断され、そのことを起因にして、靭帯全体の繊維群に支障をきたすかもしれない、そんな怖れを感じたのだ。
そのような右肘への懸念から発して、投打とも、思うような結果が残せない。投手として二ケタの勝ち星、打者として二桁のホームラン。それが7月中旬に行われたオールスター戦の前までは、自分としては達成できそうに思えていたのに……。
何がいけなかったのか。インコースの高めにカットボールを投げ込んできた相手投手に対して、恨みが全然なかったとは言えない。がともかく、肘当てのクッションガードを上手に使いこなせなかった、全くもって、自分自身の不注意であった。
あれ以来、バッティングのとき、右肩にも、左肩にも力が入りすぎている。インコース高目のフォーシーム(ストレート)が打てなくなっていき、しかもアウトコース低目に変化するツーシームにも満足についていけない状態が続いている。
くそっと腹が立つ。実際、投げる時にも、打つ時にも肩に力が入る。闇だ、打開策が全くもって見えない。イライラが膨らんだとき、コトリと音がした。誰かがこの座禅堂に入ってきたのか。目を瞑ったまま、宮本は人の気配を感じようとする。おそらく入ってきたのは宅野和尚だ。和尚がどうしているのか、見廻りに来られたにちがいない。これは、おとなしくしなくてはいけない、と宮本は背筋をピンと伸ばし、雑念を払って、何も考えない状況を作り出そうとした。
パタリぱたり、履物の音が近づきつつある。宮本は息を止めるほどに緊張した。和尚に、最近のスランプ状態で心を乱している、ということを悟られたくない。
しかし、何かしらいい匂いがする。それは、シャンプーというより、リンスの匂いのような気がした。和尚は髪をきれいに剃った、丸坊主のはずだが……。
でも、髪から出るようないい匂い、しかも多量な髪から匂い出るようなもので、髪の量が少ない男の頭から出るようなものではない……。
壁に向かって瞑目している以上、目を開けて、後ろを振り向くわけにもいかない。しかし、足音が大きくなり、人が自分の後ろに近づきつつあるのを感じる。宮本は和尚から、もし堂内を回って監督している僧侶から警策を受けたい時は、合掌して合図を送ればよい、と言われたことを思い出した。
宮本は胸の前で手を合わせて、合掌する。すると、見廻りの人が後ろにやってきたような気配がした。宮本が緊張して待っていると、警策が自分の左肩に触れた。投げる時の利き腕は宮本の場合、右肩・右腕となる。左肩を打たれるのはかまわないと思う。それで、宮本は、合掌したまま首を右前方に倒し、警策を受ける準備に入る。とんとんとんと、警策が肩に当たる。それは打つとか叩く、といったような強いものではなく、弱いものだった。しかし、それが宮本には快いものだった。宮本は後ろの僧侶に感謝した。警策が終わったように感じたので、宮本は首を元に戻し、合掌しながら、お礼の気持ちを込めて深々とおじぎをした。瞑目をして自ら雑念を捨て去ったというわけではない。しかし、警策によって、眠気や雑念が払われたような気がし、座禅に戻っていけるような気持ちになることができた。(つづく)