少しずつあの人の正体が
宮本の座禅が終わったので、車で禅寺を出発することになった。寺坂は左の運転席に、宮本は右の助手席に乗り込む。
車が走り出す。
「お待たせしました」
座禅をしていた宮本は、その間待っていてもらった寺坂にお礼の気持ちを込めて言った。
「いえいえ、叔父も僕が将棋の相手をするとうれしいようですから」
「どちらが強いんですか?」
「それは、僕の方でしょう」
「意外ですね、寺坂さんが将棋もできるなんて」
「いや、それは叔父と比べて、ということであって。将棋を趣味とされる人々のうちでは、その他おおぜいのグループに入りますよ」
そう言う寺坂の横顔を宮本が横から覗うに、寺坂はうれしそうに見えた。
「それで、寺坂さんは、和尚とずっと将棋しておられたのですか?」
「そうですよ」
「じゃあ、座禅堂に来られたのは、誰だったんでしょうかね」
宮本は、不審げに寺坂に聞いてみる。
「ああ、それはきっと、あのお寺さんで修行されている、水野五月さんという方でしょう」
「えっ!」
「だって、将棋を指しているとき、叔父さんが水野さんに対して、『座禅をしている人がいるから、ちょっと行ってみてくれる? ひょっとして、その人は、座禅に集中できていないかもしれないから』と頼んでいましたから」
「そうでしたか。ひょっとして、その人、女の人ですか?」
「ええ、そうですよ」
「やっぱり……。僕は壁に向かっていて、背後から警策を打ってもらったので、打った人が誰なのか、正確にはわからなかったもので」
「聞くところによると、水野五月さんはあの寺に通いはじめて、約一年が経とうとしているらしいんです。ひょっとしたら、和尚もそろそろ、そういう警策の叩き方も勉強させたかったのかもしれませんね」
「とすれば、僕もその水野さんという方の修行の実験台になったわけで、多少は修行のお役に立てたかもしれませんね」
宮本は前を見ながら、苦笑いしている。
「しかし、それにしても、その人は僕の利き方である右肩ではなく、左肩を叩いてくれました。その上、叩き方もソフトで。何というか、とても警策がはじめて、というような感じはしなかったですよ」
「そうでしたか……」
寺坂は、正面を見ながら、相槌を打つ。
「叔父の話では、水野さんは、今、三回生の学生さんで、将来は医者を志しておられるそうです。ひょっとして、両方の肩を見ながら、張っているように見える右肩より、柔らかそうな左肩を選ばれたかもしれないですね」
「へぇー、そうであればすごいですね」
宮本は前を向きながら、感嘆している。むろん、女性ながらも医者を志している、ということに感心したのかもしれない。何しろ、宮本の頭の中には、医学部というのは大学の数ある学部の中で、最も偏差値の高い学部であり、医学部に入るには、数学、物理、化学、生物など、むずかしい理系の科目をしっかりこなさなくてはならない、という観念があるからだった。でも、そういう秀才の彼女が、なぜ禅寺で修行をしなくてはならないのだろうか、宮本には疑問だった。
「あのお寺に来られるんですから、何か、悩みごとでもあったのでしょうね」
宮本はひとりごとのようにつぶやいた。
すると、左耳の方から、軽快な車のエンジン音とともに、寺坂の小さな声が入ってきた。
「詳しくは叔父から聞いてはいないのです。でも、叔父は言っていましたね、『水野君は、内科とか外科とか、そういうひとつの診療科に特化しないで、患者さんを色々な角度から診察できる、総合医をめざしているようだ』と」
「そうでしたか」
総合医とは何か、それがよくわからないものの、『総合』というからには、内科も外科もその他の科のこともわからなくてはならないのだろうなと思い、宮本は、あの人は何かむずかしい事に挑戦しようとしているのかもしれないな、と正面を向きながら考えていた。(つづく)




