【終章】 春空カノン
クレッシェンドは大きくなりすぎずになめらかに。
デクレッシェンドとつながって、きれいな音のグラデーションが出来るように。
気持ちは静かに、何も考えなくていい。
ほら、勝手に指先があたしの音色を奏でていく。
晴れた昼休みの準備室、窓をいっぱいにあけてカーテンを風に泳がせながらあたしはピアノに向かう大好きな時間。
春の日差しに目を細め、あたしは思い切り息を吸い込んだ。
もうすぐ五月がやってくる。
「ごめんなさい」と田崎くんに謝ったのは昨日のことだった。
躊躇はしなかった。考えなくても答えは出てしまったから。
田崎くんのことは好きだけど、それは友達として。たぶんそれはいつまでたっても揺るがず変わらないと思った。
「じゃあ今まで通りでいよう」と田崎くんは言ってくれた。
そんな簡単にいくのかな? 疑問が飛び出したけど、その日のうちに今まで通りに戻っていて、むしろあたしが戸惑うくらいだった。
無理せずマイペースで生きて、巻き込んだ人を幸福にさせる。田崎くんってそんな雰囲気を持つ人だと思う。
美香には何も言ってない。
「やっぱりね〜」と得意げに言われそうだから。
でも何年かたって思い出話になった頃に、そういえばと切り出せるかもしれない。
「あ、今間違えた」
邪魔を入れられて、あたしは鍵盤の上の手を止めた。
後ろを振り向いてじろりと睨む。
「黙って聞きなさいよ。けっとばすよ、その足」
にや、と口の端を上げて聡太が笑う。
窓辺に首をもたれて椅子に座りながら、日溜まりに足を伸ばしている。してやったりと顔に書いてあるのが見えた気がした。
退院して、一昨日から聡太は学校に来ている。
もちろんまだ骨折は治るはずもなく、松葉杖をついての登校だ。ママが送り迎えをしている。
ママはとにかく世話を焼きたがって聡太に鬱陶しがられている。それは相変わらずだけれど、ちょっとした変化もあった。
今朝学校に行く前にママが言った。
「今夜はシチューだから。早く帰ってきなさいよ」
――それだけ、それだけのこと。
でもあたしにとっては宝物をもらった気分だった。
こうやってきっとこれからも。
ゆっくりでも確実に、あたしはあたしを包み込んでくれる世界と一緒に生きて、その中からきらきら光る小さな瞬間を集めていくんだろう。
聡太との関係は変わらない。
仲のいい姉と弟。周りからはきっとそう見えるだろう。
それが時々物足りなかったり、戸惑ったり。
ゆらゆらする淡い気持ちは、あたしを困らせた。
好きなのかもしれない、そうなのかもしれない。
でもまだ形のない風のように、不確かで弱くて。
メトロノームのゆったりとしたリズムに寄り添って揺れている。
「透子、続き弾いて」
聡太の髪がそよ風にふわりと泳ぐ。
窓の外には眩しい緑の枝を広げる桜の木が見える。
桃色の春の雪を降らせていた大樹は、今はもうすっかり葉桜に変わった。
これから熱い夏の風に揺れ、秋には色づいた葉を落とし、木枯らしを受け止め、
そしてまた小さな蕾をつけるんだろう。
「何よ、自分で止めたくせに」
「いいから、いいから」
もう一度鍵盤にあたしは両手を乗せる。
メロディが流れればすぐに心は飛んでいく。春風に乗って。
あたしの大好きな曲。
「怪我が、治ったら」
後ろで聡太の声が聞こえた。
「もう一度透子とカノンが弾きたい」
緑のにおいを乗せた風があたしたちの間を通り過ぎる。
「……いいよ」
自分の中にも。やっとついた小さな蕾を呼び起こすように。
「あたしの隣は、あんたの場所だから」
果てしなく澄んだ春の青空へと、カノンの音色が吸い込まれていった。
ここまで読んでくださってどうもありがとうございました。
ありふれたお話になってしまいましたが、皆さんの心にささやかでも優しい風を送ることが出来たなら、うれしく思います。
応援の声もありがとうございました!