6,セツギ、阿狗を殺さず
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相手はきっと白い目を向けてくるだろうと葉は思っていた。ところが、その深い鳳眼がふっと微かに弧を描いた。その眉目に浮かぶ微笑みは瞬く間に消え、夜空に輝く清月の光のように儚く消えた。
その一瞬の月の輝きが、どうしても頭から離れない。
葉峥はいつの間にか眠り込んでいた。目を覚ました時には、薄い朝の光が辺りを照らしていた。昨日見た夕陽の余韻が漂うように、東から差し込む微かな朝日が室内を淡く照らし、全てがまだ夢の中のように感じられた。
葉峥は軽く目をこすりながら、柔らかい寝床から体を起こした。薄明かりの中で周囲を見渡すと、部屋のもう一人はまだ眠り込んでいるようだった。
陶雪義は壁にもたれ、一方の脚を伸ばしたまま、座禅の姿勢を崩して手を腹の上で組み、穏やかな寝息を立てている。その姿は、普段の厳格な印象とは裏腹に、どこか無防備で静けさを漂わせていた。
「今だ……逃げるチャンス!」
葉峥は眠気を振り払うと、息を潜めて寝床を降り、静かに扉の方へと忍び寄った。だが、ふと外の死体を思い出し、心の中で「南無阿弥陀仏……」と念じつつ、深く考える間もなく扉の取っ手を掴んだ。しかし、昨夜急いで扉を閉めたせいか、取っ手が少し固くなっており、「ギッ……」と耳障りな音が響いた。
「ん……?」
微かなうめき声が背後から聞こえ、葉峥は「まずい、起きたか?」と焦ったが、振り返ることもなく扉を開けようと手を伸ばした。
だが、その時、聞こえたのはただの寝言ではなかった。耳を澄ますと、その声には苦痛が滲んでいるようだった。葉峥は足を止め、振り返ると、まだ眠ったままの陶雪義の顔が目に入った。彼の顔は蒼白で、胸の上下が乱れた呼吸と共に小刻みに揺れている。
「はぁ……はぁ……」
彼の呼吸はますます荒く、額には冷や汗が滲んでいた。夢の中で何かに苦しめられているのだろうか。葉峥は自分の手を止め、その場を立ち去るべきだと思いながらも、自然と足が戻っていた。
「どうしたんだ……?」
葉峥が声をかけると、突然、陶雪義がガバッと体を起こした。その動きに驚いた葉峥が思わずのけぞると、陶雪義の視線が彼に向けられた。朝の淡い光がその瞳をかすかに照らし、その表情にはまだ悪夢の名残が見え隠れしていた。
「どうしたんだ?」
葉峥は声をかけたが、心の中では少し後悔していた。手を止めなければよかったのではないか、と。陶雪義は額に滲む汗をぬぐうこともなく、ぼんやりと葉峥を見つめていた。その瞳には夢から覚めたばかりの戸惑いが浮かんでいる。
葉峥が気まずい空気を払拭しようと口を開きかけたその時――
「……あれ?」
陶雪義の手が腰の剣に伸びた。そして、いつものように素早く葉峥の首元に剣先を向けた。その冷たさが肌に伝わると、葉峥は内心で何度も舌打ちした。
「またかよ……」葉峥は自嘲気味に笑みを浮かべた。「俺はあんたを助けてやったってのに、この仕打ちか?」
陶雪義は無言のまま葉峥を睨みつけた。その視線には眠りから覚めたばかりとは思えないほどの冷徹さが宿っている。そして低い声で言った。
「俺を五子村の渡し場まで連れて行け。生きていようが死んでいようが、必ずあの人を見つけ出す。」
その静かで冷たい声には、有無を言わせぬ威圧感があった。
葉峥は肩をすくめ、苦笑いを浮かべた。「あんたをそこまで連れて行ったら、今度は俺の口を塞ぐつもりだろ?」
陶雪義は一瞬、葉峥を見つめた。その視線には何かを探るような意図があったが、すぐに剣を引き下げ、短く答えた。
「お前は殺さない。」
外に出ると、暖かな風が吹き抜け、日差しが明るく差し込んでいた。その光景は、まるで現実に戻ったかのような錯覚を覚えさせた。
意外なことに、陶雪義は葉峥と共に昨夜の死体を埋めることに同意した。「埋める」と言っても、土と枯れ葉をかぶせただけの簡単なもので、完全な埋葬とは言い難かった。
少し進んだところで、葉峥はふと立ち止まり、遠くの平原を眺めた。昨夜、黒衣の男たちが逃げた方向に出た山道のそばに、自分の愛馬が繋がれていたはずだった。だが、その木のそばは空っぽで、馬はどこにも見当たらない。予想通りの結果だった。
前方には、小川が西から南へと流れている。その川沿いが五子村へ続く水路だ。実は、彼らの仲間の計画の中にも水路を使う案があったが、夜間は危険だったため、敵もこのルートは避けたのだろう。
葉峥は川沿いに目をやると、一艘の小舟が岸辺に係留されているのを見つけた。草木をかき分けると、露が葉から滴り落ち、小舟の姿がはっきりと現れた。
「水路を使おう。五子村までは二時間もあれば着くはずだ。」葉峥はそう言いながら小舟に飛び乗り、後ろからついてきた陶雪義に振り返った。「ただし、奴らが本当にそこへ向かったかどうかは保証できないけどな。それでもついて来る気か?」
陶雪義は無言で、深い瞳で碧い水面を見つめていた。その表情はまるで川の流れに何か答えを求めているかのようだった。
葉峥はため息をつき、櫂を手に取って水をかき始めた。小舟は静かに波間を滑り出し、清らかな風と共に川を下り始めた。鳥のさえずりがどこからともなく聞こえ、まるで平和な春の一日を漂うような錯覚に陥るほどだった。
舟は波間を滑り、穏やかな風が頬を撫でる。水の流れは急でもなく緩やかでもなく、小舟は自然のまま川を下っていく。葉峥は櫂を操りながら、鳥のさえずりを聞いていた。そんな中、ふと気づくと陶雪義が舟の端に座り、川面をじっと見つめていた。
彼は身を乗り出し、水面に映る自分の姿を確認するように前髪を整えている。葉峥はそれを見て思わず苦笑した。「こいつ、本当に見た目を気にするんだな……。」
それにしても、この男の細やかさには驚かされる。葉峥はこれまで数々の達官や名家の出身者と接してきたが、陶雪義のように自分の身なりに気を配る者は珍しい。彼が水を手ですくい、少しずつ飲む仕草すら、どこか優雅で洗練されていた。
指の隙間から水滴が溢れ、腕を伝って滑り落ちる。それはまるで衣を濡らすことを拒むかのようだ。長い首を前に伸ばし、片手で袖を肘の上まで巻き上げ、水を飲む仕草に集中している。その姿を一瞥した葉峥は、心の中で思った。この男は確かに身だしなみに気を遣う人間だ、と。官吏や公子たちを何人も見てきたが、ここまで細やかな人物には初めて出会った……なぜそこまでする必要があるのか。
葉峥は首をかしげながら、自分がすでに汗だくであることに気づき、衣の前を少し開いて船首から吹く涼風を受けると、心地よさが広がった。
開いた胸元には凝り固まった血の汚れが残り、肌の色は古銅のようでありながらやや浅めだった。南方の気候に育まれた者は北方の人間よりも肌が黒くなることが多い。肩に負った傷のせいで、葉峥は片手に全力を込めて船を漕いでいた。その腕は筋肉が隆起し、赤く染まっていた。陶雪義はその血汚れた背中を見つめ、目を細めた。
船を漕ぐ葉峥は一瞬体を震わせ、何かを感じ取ったかのように後ろを振り返った。陶雪義は髪の一筋を撫でながら、頬に水滴を光らせていた。彼の視線に気づくと、わずかな気まずさが漂い、二人は再び顔を見合わせた。
やはり変わり者だ、と葉峥は息を切らしながらため息をついた。「少ししたら俺は漕ぐのをやめる。次はお前が……」
言葉の途中で、岸から笑い声が微かに聞こえた。音のする方を振り返ると、荷を担いだ数人の女たちが岸辺で笑い合っているのが見えた。船はちょうど村の近くまで来ており、雑然とした瓦屋と柳の緑が広がっていた。
葉峥は考えを変え、話の途中で言葉を切り、前方に小さな船着場があるのを見つけると、竹竿を川底に突き立て船を止めた。船を桟橋に寄せてから跳ねるように岸に上がり、女たちの方へ向かっていった。
女たちは方言で楽しげに話していた。村の入り口には花が咲き乱れ、木陰が広がり、鳥のさえずりが響いていた。
「お姉さん方、枇杷がたくさんありますね。少し分けてもらえませんか?」
女たちは声の方を振り返り、川辺から背の高い青年が笑顔で歩いてくるのを見て、互いに顔を見合わせた。彼女たちの担いでいる籠の中には、露をまとった緑の枝葉に金色に輝く果実がぎっしり詰まっていた。
「きゃっ!」彼に近づいた女性が突然叫び声を上げ、純朴そうな村の女たちが慌てて一か所に集まった。「あんた……」と恐る恐る言葉を口にしながら、彼の開いた胸元と血の汚れた衣服、腰に差した刀を見て一斉に驚きの表情を浮かべた。
葉峥は内心しまったと思った。村で食べ物をもらうのはいつものことだったが、自分の今の格好をすっかり忘れており、女たちを怖がらせてしまったのだ。
「怖がらないでください、僕は悪者じゃない。ただ枇杷を少し……」と言いかけたが、彼もまた運が悪いと諦め、彼女たちが叫ぶ前にその場を離れようとした。振り返ると、いつの間にか陶雪義が後ろに立っていた。
「お前、なんで来たんだ?」葉峥は彼を一瞥し、その格好も自分と同じく乱れていることに気づいた。「もう行くぞ。」
陶雪義はその場から動かず立ち尽くしていた。女たちは彼らをじっと見つめていたが、次第にその視線は陶雪義の方に集中していった。
「その……枇杷をお望みですか?」女たちの中で一番年上と思われる女性が、陶雪義に向かって歩み寄った。
「少し干し餅が欲しいのですが。」整った顔立ちの男が軽く頭を下げて答える。葉峥はちらりと陶雪義を見て、また女性を見た。そして何とも言えない不快感が胸の中に湧き上がってきた。
数人の女性が家に戻り、饅頭やネギ油の巻きパンをいくつか持ってきて、冬の葉に包んで差し出した。葉峥はその横で黙々と枇杷を剥き、口に運んだ。しかし、彼女たちの視線が全て陶雪義に注がれているのを見て、なんとも言えない居心地の悪さを感じた。甘いはずの枇杷の味が、どうにも心に響いてこない。
陶雪義は、女性たちの視線に全く動じることなく、目線を逸らさずに背筋を伸ばして立っていた。その立ち姿は、肩幅が広く、腰が細い。洗練されながらも飾り気のない風貌は、村の田舎風景においては滅多に見られないものだった。
「もういいだろう。」葉峥は陶雪義が干し餅を受け取るのを見届けると、自分も枣や枇杷、それに淮山をいくつか選び、女たちに礼を言いながら、淮山をかじりつつ川辺へ戻って行った。
「何見てんだよ?これで血が増えるんだ。お前には分からんだろう。」自分が見られているのに気づいた葉峥は、ぼそっと言いながら軽く跳び上がり、船に戻った。
だが、その瞬間、突然の目眩が彼を襲い、視界が暗くなり、バランスを崩して後ろに倒れそうになった――
「うわっ!!」手を伸ばして何かを掴もうとしたが、虚しく空を切り、今にも川に落ちそうになったその瞬間、片方の肩をしっかりと支える手があった。
冷たい髪の感触が顔を撫でた。目を大きく見開いたが、何も見えず、身体は宙に浮いたように感じられた。陶雪義が身を寄せて彼を支え、その不自然な姿勢のまま、川面の波に合わせて船がゆらゆらと揺れていた。
「……っ。」肩に置かれた腕は力強く、しっかりと支えられている。船の揺れに合わせて、二人の体は次第に近づいていき、葉峥は身を起こそうと彼の背中に手を回した。鍛えられた体は重く、やっとの思いで重心を取り戻した時、血の匂いが二人の距離をさらに近づけるたびに濃く感じられた。陶雪義の髪が葉峥の頬を撫で、首筋を回り、一瞬のくすぐったさを伴ってかすかな香りを残した。
「ありがとう……」葉峥は顔を上げ、ふとした拍子に鼻先が相手に触れた。彼の腕は陶雪義よりも力強く、体格も少し大きかったが、今の姿はまるで相手を抱きしめているかのようだった。
どんっ!
「ぐっ……!」結局、尻もちをつく羽目になった。葉峥は船上で痛みに呻いたが、幸い水に落ちずに済んだことには安堵した。しかし、振り返ると、陶雪義は何事もなかったかのように船首に立ち、淡々と船を漕ぎ始めていた。
葉峥は自分が失血のせいで倒れたのを理解していた。船板に腰を下ろしたまま、もう立ち上がる気力もなく、腕を枕にして横になった。船首に立つ陶雪義の背筋は相変わらずまっすぐで、柳の影が川面に映り込み、波間に揺れるその姿は不思議と眠気を誘う。
ふと手に何か硬いものが触れた。葉峥は重い瞼を開き、船板の上を手探りすると、それを拾い上げた。それは紫檀の木で作られた札で、絹の紐と銀色の房飾りがついていた。札に彫られた文字は今ひとつよく見えなかったが、下部に金の糸で刺繍された葵の紋が一際目を引いた。
「おい、これ落としたぞ!」
葉峥が声を上げると、陶雪義はわずかに振り返り、葉峥の手にぶら下がる札を見た瞬間、表情が一変した。その焦った様子を見て、葉峥の口元にはいたずらっぽい笑みが浮かんだ。札をさらに揺らして見せびらかす。
「返せ。」陶雪義は船首に立ったまま、冷たい視線を葉峥に向けた。
「ふん。」葉峥は気が立っていたのか、ますます挑発的に振り回した。「余計なことを言うなよ。この札で探している皇子が最後まで見つからなかったら、お前はどうするつもりだ?」
陶雪義の顔色が暗くなる。そして、ふと冷たい笑みを浮かべた。その笑みにはわずかな敵意が含まれていた。「それこそお前のせいだ。江湖の賊、梁上の君子にして、正体を知らぬ者に使われるとは。蒲牢堂においても、律法の前においても、お前は死んで償う価値さえない。」
葉峥は内心で「随分ひどい言い方だ」と思ったが、言い返す言葉も見つからず、ただ札を手の中でくるくると回してふざけることで応じた。本気で札を取り返そうとすると思いきや、陶雪義は再び船を漕ぎ始め、それ以上葉峥に関心を示さなかった。
「俺たちはどちらも命を売って生きている……だが俺は考えを変えた。これからは影の仕事から足を洗い、江湖を去る。お前だって、俺を殺さないと言ったからには、君子として言葉を守るべきだろう。だが、仮に俺たちが今後会うことがなくても、お前はまだ命を売り続けるのか?任務に失敗したらどうする?京に戻って罰を受けるつもりか?俺のせいだと言うけど、お前自身が無茶をした結果でもあるだろう?」
陶雪義は何も答えなかった。
葉峥は背を反らせ、船板に仰向けになった。「何がそこまでさせるんだ?俺はもう手を引いた。うまい酒と飯があり、ぐっすり眠れる……それに、一人の紅塵の知己がいれば……それが男としての幸せってもんだろう……」
葉峥の声は次第に静かになり、船の上には川面を撫でる櫂の音だけが響くようになった。その静けさは、なおさらあたりを穏やかに包み込んでいた。陶雪義は船首に立ち続け、手元の櫂を握りしめる指は白くなり、木製の櫂が少しへこんでいるほど力が込められていた。
水の流れに任せ、小船は広い川幅に入っていった。緑の木陰が途切れると、一面の青い水と春の陽光が視界に広がった。
さらさらと川のせせらぎが聞こえ、波間に玉のような輝きが揺れていた。
陶雪義の深い瞳は川面を追うように遠くを見つめていた。天と水が一体となり、青い色彩が溶け込むような景色の中、数羽の燕が春風を切るように水平線に向かって飛んでいく。その瞳には何かしらの思案が浮かび、それはゆっくりと瞼の奥に隠されていった。
〜続く〜




