第35話 指示のない場所
「足より先に、こっちを直す必要があるな」
ドランの低い声が、静まり返った稽古場に落ちた。顎で示されたのは、右脚の古傷でも、握り込んだ木槍でもなかった。盾を手放し、木槍を握ったまま直立して動けなくなっている、ヴェラその人の姿だった。
「……ドラン様」
ヴェラは視線を正面へ固定したまま、硬い声で答えた。
「ご指示いただければ、速やかに適切な立ち位置を選択いたします。敵の想定方向、距離、ならびに味方の配置をご命令ください」
「それが駄目だってんだ」
ドランは木剣の先を土へ突き立て、ヴェラを見た。
「お前は、指示が来るまで足を止める。実戦じゃ、その一瞬で刃が届く」
「命令の受領および理解までの時間を極小化することで、対処は可能です」
「その命令を出す奴が倒れたらどうする」
ドランの問いは短かった。
「ノワールもエルザも動けねえ時、お前は誰を待つ」
ヴェラの唇が、かすかに動いた。何かを返そうとしたようだったが、声にはならなかった。横で見ていた俺は、口を挟まずに待った。
ドランの声は低かったが、責めるような調子ではなかった。前衛として一緒に立つなら、避けて通れない確認なのだろう。
「お前の腕が悪いとは言ってねえ」
ドランはヴェラの盾と木槍へ順に目をやった。
「構えは崩れてねえ。右足が遅れても、盾まで一緒に流れねえ。槍も出したあとに戻せてる」
木剣の先で、地面に置かれた木盾を軽く叩く。
「教わったもんが、ちゃんと身体に入ってる」
ヴェラの視線が、わずかにドランへ向いた。
「だからこそだ。指示がなくなった途端に止まるのが危ねえ。木盾を持て。動いて見せろ」
「……了解いたしました」
ヴェラは頭を下げ、地面へ置かれていた訓練用の木盾を拾い上げた。
◆
最初は、指示がある状態だった。
「ノワールが前へ出る。右を塞げ」
「はい」
ヴェラは即座に動いた。土を蹴る音が短く響く。右脚を庇いながら左脚を軸に身体を滑り込ませ、木盾をドランの正面へ差し入れる。
「エルザが左へ回る。間合いを殺せ」
「承知いたしました」
ドランの木剣が動くより先に、木槍の穂先が伸びた。倒すためではない。前進の軌道を横へずらし、踏み込む場所を奪うための一手だった。指示がある時のヴェラには、無駄がなかった。
右脚の遅れを織り込んで、届かない歩幅を盾の角度で補う。短槍も、出したままにはならない。すぐに盾の陰へ戻り、次に備えている。
知識も経験も乏しい俺でも分かる。強い。ヴェラは戦えない人ではない。むしろ、俺たち二人だけでは足りなかった部分へ、正確にはまる技量を持っている。
「止まれ」
ドランが木剣を下ろした。ヴェラもすぐに動きを止める。
「足は悪い。だが、その足でどう立つかは分かってるな」
「はい」
「盾も槍も使えてる。前に立たせるだけの地力はある」
ヴェラは返事をせず、わずかに顎を引いた。ドランは木剣を肩へ担いだ。
「だから次だ。今度は俺は指示を出さねえ」
ヴェラの指が、木槍の柄を握り直した。
「ノワール、エルザ。お前らもヴェラへ指示を出すな。状況だけを変える。自分で立て」
ヴェラは木盾を構えたまま、ぴたりと動きを止めた。ドランが前へ出る。木剣の先が俺の胸元へ伸びた。俺は左斜めへ足を滑らせ、間合いを外して後退する。
同時に、エルザが右へ回り込んだ。正面のドラン、左へ下がった俺、右へ開いたエルザ。ヴェラの視線が、俺とエルザの間を一度動いた。右足が半歩出かける。
止まる。今度は左へ重心を移しかけ、それも途中で止まった。木槍の柄が、彼女の手の中でかすかに震えた。ドランの木剣がエルザへ向く。
ヴェラは動かなかった。木剣は、エルザの首元で止まった。稽古場が静かになった。
「見た通りだ」
ドランが木剣を引いた。
「指示がある時は動く。なくなると止まる。まずそこだ」
ヴェラは木盾を構えたまま、返事をしなかった。
◆
次に、ドランは一つだけ指示を与えた。
「ヴェラ。右の木杭を塞げ」
「承知いたしました」
ヴェラは右の木杭の前へ移動し、木盾を構えた。ドランが俺とエルザへ打ち込んでくる。俺たちは木剣を受け流しながら位置を変えた。エルザが後退する。
その退路に、ヴェラがいた。ヴェラは右の木杭を塞ぐ位置から動かなかった。エルザは進路を変えた。その一拍の遅れへ、ドランの木剣が入り、革胸当てを軽く叩いた。
乾いた音が鳴る。
「そこまで」
ドランが止める。ヴェラは、木剣を受けたエルザを見て、唇を噛んだ。それから木盾を下ろし、深く頭を下げる。
「申し訳ありません。エルザ様の退路を塞ぎました」
「何で動かなかった」
ドランが聞いた。
「右の木杭を塞ぐよう、ご指示を受けていたためです」
「指示は守ったな」
「……はい」
「そこは間違ってねえ」
ドランは木剣を下ろした。
「お前は指示を守った。守りすぎたんだ」
ヴェラが顔を上げる。
「守ったまま、状況が変わった。そこから先を自分で決められなかった。それが今の問題だ」
ヴェラは答えなかった。俺は彼女の前へ歩み寄った。
「ヴェラさん。尋ねますね」
「……はい、ノワール様」
「エルザさんが進路を変えたあと、どうすればよかったと思いますか」
ヴェラの口が止まった。俺とエルザを見比べる。どの答えを求められているのか探すように、その視線が一度ずつ動いた。
「……ご指示を」
絞り出されたのは、やはり同じ言葉だった。
「どうすべきか、ご指示をお願いいたします」
「……分かりました。もう大丈夫です」
俺はそれ以上、答えを求めなかった。
◆
訓練を一度中断し、ヴェラには井戸端で顔を洗い、休むよう伝えた。稽古場の端の日陰へ、俺とエルザは腰を下ろした。井戸の脇にいるヴェラが見える。顔を洗い終えた後も、次の指示を待つようにこちらを見ていた。
エルザが帳面を開くと、髪際にいたリンがふわりと浮かんだ。
ちりん。
エルザがリンへ目を向ける。
「……『むずかしい』だそうです」
「リンもわかってるんですかね……それは俺も同感です」
リンはもう一度だけ揺れ、エルザの髪際へ戻った。
「……参りましたね」
俺が言うと、エルザは膝の上の帳面へ目を落とした。
「ドランさんが言った通り、技量そのものが足りないわけではなさそうです」
「はい」
エルザの筆先が、帳面の上で止まる。
「指示がある時の動きは速いです。盾も槍も、動作そのものは崩れていません」
「でも、指示がなくなると止まる」
「はい」
「どうしてそこまで止まるのかは、まだ分かりませんね」
「今あるのは、今日見たことだけです」
俺は井戸端へ目をやった。本人が話していないことまで、こちらで理由を決める必要はない。
「今は、止まった時にどう動くかを決めた方がいいですね」
「そう思います」
「依頼中に止まらないための方法はありますか」
エルザは帳面をめくった。
「指示が届かない場合、または状況が変化した場合の優先順位を、あらかじめ規則として渡す方法が考えられます」
「具体的には」
「最も危険な状態にある仲間の保護を優先する。仲間の退路が失われる場合は、指示された位置から離れてよい。判断できない場合は、即座に声を出して指示を求める」
「指示を待つなら、迷った時の動き方そのものを、先に決めておくわけですね」
「はい。自由に判断することを求めるのではなく、安全に動ける範囲を広げます」
「いいと思います。今すぐ一緒に動くなら、その規則は必要ですね」
俺は頷いた。
「ただ、規則にない状況は必ず出ます。その時に無言で止まるのが一番危ない。迷ったら、まず大きな声で指示を求める。そこだけは徹底しましょう」
「賛成です。規則へ追加しましょう」
エルザが帳面へ書き込んだ。
◆
夕方が近づき、ヴェラは木盾と木槍を丁寧に拭いた。ドランが腰掛けから立ち上がる。
「決まりを作ったそうだな」
「はい。指示が届かない時の優先順位と、迷った時の発声を暫定の規則にします」
俺が答えると、ドランは鼻を鳴らした。
「急場しのぎとしては悪くねえ」
それから、ヴェラへ目を向けた。
「だが、決まりを増やせば、決まりの外でまた止まるぞ」
「承知しています」
エルザが答えた。
「現時点では、安全を確保するための暫定運用です」
「ならいい」
ドランはヴェラの前へ立った。
「次の時には、俺が何も言わねえ間を作る」
「何も、おっしゃらない間ですか」
「そうだ。お前が何か一つ決めるまで待つ」
ヴェラは一瞬だけ目を見開いた。それから、いつもの言葉を返した。
「……承知いたしました」




