↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
明日も、ダンジョンへ。  作者: 為書結依
第一章 この世界で生きる

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/122

第3話 灰かぶり


 何度見直しても、ログアウトの項目はなかった。メニューウィンドウを呼び出し、選べる項目を上から順に確かめる。


 名前。装備。所持金。スキル。


 昼間と同じ、必要最低限の項目しか並んでいない。経験値も能力値も表示されず、そのどこにも終了を意味する言葉はなかった。ウィンドウを閉じ、もう一度開いた。


 項目の端へ指を滑らせる。下へ送る。横へ引く。表示そのものを押し広げようとする。


 指先は淡い光を抜けただけだった。


「ログアウト」


 狭い部屋へ、自分の声が落ちた。低く、かすれている。キャラクターを作った時に聞いた、十八歳の俺の声だ。返事はなかった。


「システム終了」


 さっきよりはっきり言う。窓の外で、誰かが笑った。遠くで金物の触れ合う音がして、それきりだった。


「ヘルプ。運営連絡」


 表示は変わらない。現実の身体を動かそうとしてみた。


 午前二時を過ぎた部屋。ベッド。頭へ着けた機器。そこに横たわっているはずの自分。


 腕を上げる。機器を外す。そう念じても、たぶん動いたのはこちらの右手だけだった。若い指が、何もない空間を掴んでいる。


 現実側の身体がどうなっているのか、輪郭すら感じられなかった。


「……参ったな」


 思ったより穏やかな声が出た。落ち着いているわけではない。


 だが、騒いだところで、ログアウトの項目が増えるわけでもない。立ち上がり、窓へ向かった。木枠へ手を置く。表面は冷たく、細かなささくれが指へ引っかかった。


 窓の外では、街が夜を続けていた。石畳を歩く足音。店を閉める戸板の音。どこかの食堂から漏れる話し声。


 俺が帰れないことなど知らないまま、人々はそれぞれの一日を終えようとしている。風が木枠の隙間から入り、頬へ触れ、髪を揺らした。


 よくできたゲームだと思っていた。今も、それは変わらない。手応えがありすぎることを除けば。


 もう一度、メニューウィンドウを呼び出した。見落としがあるのかもしれない。一時的な不具合かもしれない。


 正式サービスが始まって一か月ほどだ。障害が起きることくらいはあるだろう。しばらく待てば、運営が気づいて切断してくれるかもしれない。そう考えようとした。


 だが、運営がいつ気づくかは、誰にも分からない。数時間後かもしれないし、丸一日かかるかもしれない。現実の身体はゲームに入った時のまま、ただベッドに寝ているだけのはずだ。見えないものだけを考え続けないようにしよう。


 ログアウトの項目はない。運営へ連絡する手段も見つからない。


 今、分かるのはそれだけだ。


 少なくとも今は、ゲームからログアウトできない。それだけだ。分からないことを、想像で埋めても仕方がない。窓から離れた。


 今日から休みだ。何も予定はない。復旧を気長に待とう。


 それ以上は、明日起きてから考えることにした。俺はベッドへ横になった。明日は、まず何をするか。そちらを考えているうちに、いつの間にか眠っていた。


◆


 目を開けると、粗く削られた天井の板の節が、朝の薄い光の中に浮かんでいる。枕元へ手を伸ばすと、指先に冷たい鉄が触れた。昨夜、自分で鍵をかけた。そのずっしりとした感触を、手の中で確かめる。


 俺は鍵を握ったまま、しばらく天井を見ていた。帰れなかった。目が覚めても、俺はここにいる。メニューウィンドウを開いてみる。


 ログアウトの項目はない。


 だが、想定内だ。


「……よし」


 声に出してから身体を起こした。藁の寝台は硬かったが、腰は痛まなかった。脚にも昨日の疲れはほとんど残っていない。十八歳の身体は、一晩眠っただけで驚くほど疲れが抜ける。


 顔を洗い、服を整え、鍵を持って階下へ降りた。食堂には朝の匂いが満ちていた。焼いたパン、煮込んだ野菜、昨日の脂の名残。窓から入る冷たい風が、それらを少しずつ混ぜ合わせている。


 女将は大きな鍋を木べらでかき回していた。俺の足音に気づくと、手を止めずに言った。


「おはよう。眠れたかい」


「ええ。思ったよりは」


「若いのは、それだけで得だね」


 本当にそう思う。平皿にパンと野菜の煮込みが置かれた。


「朝飯。個室代に入ってるよ」


「ありがとうございます」


 カウンターの端へ座る。パンは固かったが、煮込みへ浸すとようやく歯が通った。周りの客に目を向ける。みんな、いつもの朝を過ごしているようで、ログアウトという言葉も聞こえなかった。


 よくあることなのだろうか。それとも落人がここにはいないのかもしれない。


 しばらく黙って食べた。温かいものが腹へ入ると、木さじを握っていた指から少し力が抜けた。半分ほど食べたところで、木さじを置いた。


「女将さん」


「なんだい」


「昨日、俺のことを落人と呼びましたよね」


 鍋をかき回していた手が、一度だけ止まった。女将は振り返り、俺の顔を見た。


「それを聞くのも、落人らしいね」


「どういう人を、そう呼ぶんですか」


 女将は木べらを鍋の縁へ置いた。


「何も知らずに広場へ立ってる連中さ」


「俺みたいに?」


「あんたみたいに」


 それだけ言って、女将は布巾を取った。カウンターの端へついた水滴を拭いていく。


「どこから来たのか分からない。街の金も、道も、仕事も知らない。なのに、自分じゃ別の場所から来たって言う。そういうのが、前から時々いるんだよ」


 プレイヤーは、NPCにとってそういう存在なのか。布巾が木目の上を往復する。その手つきには、同じ質問を何度も受けてきたような、手慣れた雑さがあった。


「帰った人は?」


 その手が止まった。女将は眉を寄せた。


「帰りたがってた奴なら、見たことはあるね」


 何か引っかかる言葉だった。


「帰りたがってた奴ですか……実際帰った人を見たことはありませんか?」


「詳しく知りたいなら、同類に聞きな」


 女将は顎で、ギルドのある方角を示した。


「ギルドにある半地下の酒場に、灰色の髪の女がいる。昔からいる落人だ。昼前から酒を飲んでるようなやつだが、あたしよりは詳しいよ」


「昔からですか……? 名前は?」


「セイ」


 それだけだった。女将は鍋へ戻った。


「冷めるよ」


 俺は残りを食べた。パンを煮込みへ沈め、柔らかくなったところで口へ運ぶ。落人から詳しい話が聞ける。それで安心していいのかは、まだ分からなかった。


 昔から、という言葉も引っかかった。この世界でいう昔がどれほどの長さなのか、俺にはまだ分からない。


◆


 朝の大通りは明るかった。店先では戸板が外され、荷車が石畳を鳴らしている。通りを行き交う者たちの顔を、つい見てしまう。


 この中に落人がいるのかもしれない。だが、見ただけでは分からなかった。籠を抱えた女も、荷を担いだ男も、眠そうに歩く若者も、それぞれの行き先へ向かっている。


 俺だけが、誰かを探す目で歩いている気がした。


 冒険者ギルドへ入り、受付の脇にある階段を下りる。一段ごとに、空気が変わった。上の広間に満ちていた声が遠くなり、代わりに安酒と煙草、それから湿った石の匂いが濃くなる。


 半地下の酒場は、昼前のせいか空いていた。隅の卓で、男が二人、小声で話している。奥の壁際に、一人だけ女がいた。


 使い込まれた革鎧。くすんだ灰色のマント。肩まで伸びた灰銀の髪。


 卓の上には酒杯が一つと、よく研がれたナイフが一本。女将の言う「詳しい」が、別の意味に見えた。俺は卓から二歩ほど離れたところで止まった。


「すみません」


 女は顔を上げなかった。


「少し、お話を聞いてもいいでしょうか」


「帰り方なら知らないよ」


 低く、かすれた声だった。俺は一瞬、言葉を失った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。