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ベストフレンズ  作者: 菊池まりな


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第60話 梅雨の始まり

 六月半ば、梅雨入りの発表があった。灰色の空が続く日々の中で、紗奈の心も、その天気とどこか重なっていくようだった。


 朝、目を覚ましても、体が重かった。授業に出るための身支度が、以前より何倍も時間がかかるようになっていた。


「休もうかな」


 そう思う日が、少しずつ増えていた。でも、休むことにも罪悪感があった。休めば、誰かに理由を聞かれるかもしれない。理由を聞かれたら、答えなければならない。答えられる言葉を、紗奈は持っていなかった。


 結局、いつも通り家を出た。雨の中を大学まで歩きながら、紗奈はふと、傘を差す自分の手が、やけに他人のもののように感じられた。



 母親から電話がかかってきたのは、その週の週末だった。


「最近、あんまり連絡くれないね」


「ごめん、ちょっとバタバタしてて」


「体調は大丈夫? ちゃんと食べてる?」


「食べてるよ、大丈夫」


 その「大丈夫」を口にするたび、紗奈の中で何かがすり減っていく感覚があった。嘘をついているつもりはなかった。ただ、本当のことを言葉にする力が、今は残っていなかった。


 電話を切った後、母親はしばらくスマホを見つめていた。娘の声のトーンに、去年の冬と似た響きがあった気がしたが、確信は持てなかった。「考えすぎかもしれない」と、母親は自分に言い聞かせた。新生活の疲れは、誰にでもあることだから。




 悠真は、その週末、紗奈の下宿を訪ねた。久しぶりの再会だった。


「久しぶり」


 紗奈は笑顔で迎えたが、悠真は一瞬、何かが違う、と感じた。うまく言葉にできない違和感だった。紗奈の部屋は以前より片付いていて、生活感が薄かった。


「元気そうだな」


「うん、まあまあ」


 二人で近くのカフェに行き、他愛のない話をした。大学のこと、サークルのこと、恒一や玲奈の近況。会話は途切れることなく続いたが、悠真はどこかで、紗奈が「話を合わせている」ような感覚を拭えなかった。


「紗奈、最近ちゃんと寝れてる?」


 思い切って聞いてみると、紗奈は少し驚いたような顔をしてから、笑った。


「なんで急に」


「いや、なんとなく」


「大丈夫だよ、ちゃんと寝てる」


 その笑顔が、あまりにも自然だったから、悠真はそれ以上追及しなかった。もし何かあれば、紗奈の方から話してくれるはずだと、どこかで信じていた。それは信頼でもあり、同時に、踏み込むことへの遠慮でもあった。



 その夜、下宿に一人になった紗奈は、悠真と過ごした数時間を思い返していた。


 楽しかった。それは嘘ではなかった。悠真と話している時間は、確かに紗奈の心を軽くしてくれた。


 でも、悠真が帰った後の部屋の静けさが、その何倍も重く感じられた。まるで、楽しい時間の後に、その反動が押し寄せてくるようだった。


「なんで、言えなかったんだろう」


 紗奈は小さく呟いた。悠真が「ちゃんと寝れてる?」と聞いてくれた、あの瞬間。あそこで「実は」と続けることは、できたはずだった。


 でも、できなかった。


──去年、あんなに助けてもらったのに。


──今度は、自分でどうにかしなきゃいけない気がする。


 そんな歪んだ責任感が、紗奈の口をふさいでいた。助けを求めることは、決して弱さの証明ではないと、頭では分かっているつもりだった。でも、心はまだ、そのことを受け入れられずにいた。



 恒一は、大学は違ったが、時々悠真と連絡を取り合っていた。


「紗奈、最近どうよ」


「うーん、普通だと思う。この前会ったけど、元気そうだった」


「そっか」


 恒一は、それ以上何も言わなかった。ただ、電話を切った後、少しだけ胸に引っかかるものを感じていた。高校時代、紗奈の異変に一番早く気づいたのは、実は悠真ではなく、周りで見ていた自分たちだったこともある。


 でも今は、みんな物理的に離れた場所にいた。目の届く距離にいないことが、こんなにも「気づき」を難しくするのだと、恒一はまだ実感していなかった。



 六月の雨は、しばらく止みそうになかった。


 紗奈の中で、言葉にならない何かが、静かに、しかし確実に降り積もっていた。誰も、まだそれに気づいていなかった。


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